Novel

私が犯した過ち - 03

母船に到着して五日。

あれからマルコの言葉通り、船はほどなくして嵐に見舞われた。

ぱらぱらと降り始めた冷たい雨がたるんだ頭を冷やし、高波と激しい雷鳴が憂いを消す。オヤジに振る舞われた酒を飲んで高いびきをかいていた腕のいい航海士の鼻提灯を早めに壊したお陰で難を逃れたが、マルコの助言がなければ荒れ狂う海に放り出され、藻屑と消えていたかも知れない。

私たちは、いつだって死と隣り合わせなのだ。

そのことを強く実感してしまったからだろうか。

母船に帰ってから、ずっとあの人の顔がチラついている。

謝りに行ったのに。償いに行ったのに。

きちんと終わらせることができたと思ったのに。

それなのに、私は彼を疑ったまま船を去った時よりも後悔している。

あの日、一度果てた彼はもう一度私を抱いた。憎しみをぶつけるように、鬱憤を晴らすように。そんなに乱暴にされたわけじゃないけれど、久しぶりに男を受け入れた鈍痛のような下腹部の重さは二、三日続いていた。だけどそれももう消え、荒々しく付けられた彼の唇の形がそのまま残されたような赤い跡も、徐々に薄れてきている。

日々色褪せていくそれに、言いようのない切なさと寂しさが込み上がる。

「なんで、今さらこんな気持ちになるんだろう……」

八年も前に終わった恋なのに。

独りごちて、腰掛けていたベッドから立ち上がり枕元へ移動する。サイドボードの引き出しから木箱を取り出して蓋を開けた。

中には、昔イゾウに貰った小物が色々と入っている。

彼は人に贈り物をするのが好きなタチで、おでんの息子のモモの助にもよく島で見つけたオモチャやお菓子なんかを買っては渡していた。もちろん私にも。

誕生日や記念日とは別に島へ降りるたびプレゼントしてくれるもんだから、最初はジュエリーケースほど小さかった箱はどんどん大きくなっていった。

名前に似合うと思って買ってきた』

そう言って渡された髪飾りや、イゾウならではの口紅や化粧品。お香やアロマや香水のフレグランスも。どれもセンスが良くて気に入って使っていた。

使用期限もとっくに過ぎているのに未だに捨てられずにいるのは、未練か罪悪感か。

甘い思い出も、今は胸が痛くなるばかりだ。

ひとつため息を吐いて、箱の中でずっと動いているものを取り出し、手のひらに乗せる。ずりずりと一方向に動く白い紙。イゾウのビブルカードだ。

モビーを去る時、オヤジに頼んで分けて貰った。

母船に戻ってからは毎日これを眺めている。

この先にイゾウがいると思うと、しくしくと胸を刺す痛みがやんわり落ち着いてくるのだった。

「また、それ見てんのかよ」

ノックもなく扉が開いて、男が入ってくる。

一緒にモビーへ出向いた中の一人、帰りの嵐で活躍した航海士の男だ。この男のお陰で命があるかも知れないが、なぜかあの日から付き纏われている。

「断りもなく入って来ないでくれるかな」

「つれないこと言うなよ。一緒に荒波を乗り越えた仲じゃないか」

「この船でも乗り越えてる」

適当に返しながら、手のひらの紙片から視線を外さないでいると、男は聞いてもいないのにベラベラと勝手に語り出す。

話が長いからあまり聞いていなかったが、要約すればとにかく『付き合おう』ということだった。

なんの吊り橋効果か知らないが、あの嵐を超えた時から私が気になっているらしい。

「悪いけど、興味ない」

「そんなあっさり振らず、ちょっとくらい考えてくれよ。そのビブルカードが誰のかは知らねェが、どうせ昔の男のなんだろ。いい加減過去を引きずってないで、今いる男に目を向けろよ。いつ死ぬかわからねェ海賊家業で過去に囚われるなんてナンセンスだぜ。楽しもうぜ、今をよ」

先程と同様に話は長いし、ちょっとかんに触る物言いだが、男の言葉は言い得て妙だった。

男と決定的に違うのは、『いつ死ぬか分からない』だからこそ、私は余計に自分がなにを求めているのか明確に気付いてしまったということだ。

私は、ずっと彼を欲している。

八年前に別れた時から、ずっとずっと彼を。

未練なんかじゃない。罪悪感でもない。

あの日から私の気持ちは何一つ変わっていないのだ。

彼が、好き。

昔と変わらず、今も。

好きなんだ。

ぎゅっうと胸が締め付けられる。

彼に会いたい。

会いたくて、会いたくて、たまらなくなった。

今、はっきりと自分の気持ちに気が付いた。

それなのに……

「…………えっと、なにしてんの?」

思考にとらわれているうち、トン、と肩を押されてベッドに倒された私は、身体の上に跨る男を見上げた。

「ん? 黙ったままだから、いいのかと。おれの言葉に納得して今を楽しもうとしてんだろ? まあ、一回寝てみたらおれの良さが分かると思うんだよな。おれ、結構巧い方だから期待してくれていいぜ。ああ、そうだ。好きな体位とかある? おれのオススメは対面座位! 娼婦からも最高とお墨付きなんだぜ! もしお前が下付きでも後背位もオススメだから任せてくれ! 必ず三回はイかせてみせるから!」

男はまたも饒舌に言葉を発して、キラッと白い歯を見せる。先程は一理あると納得させられたが今回の中身はゼロだ。

女を口説くにしても、もう少し言い方があるだろう。誰がこれで落ちるのか。全くため息しか出てこない。

航海士をするくらいだから頭は良いんだろうけど、勉強の方に脳みそを全部持っていかれたタイプだろう。

顔はまあまあ良いだけに、余計に残念さが伺える男だ。

「とりあえず、退いてくれるかな」

呆れたように言っても男は人の話も聞かず、いそいそと上着を脱ごうとする。

こんな時の対処法はいくつかある。

勢いよく起き上がって頭突きをかますか、股間を蹴り上げるか、玉を握り潰してやるか。さて、どうしてやろうか。

この体勢から蹴り上げるのは少々厳しいから二つのうちどちらかだな。最終決断を迷いながら、手のひらのビブルカードをサイドボードの上に置いた時だった。

いきなり部屋の中に発砲音が鳴り響いた。

耳を裂く破裂音。辛うじて軌道を捉えた弾丸は、私を見下ろす男の鼻先すれすれを通過し、その形良い鼻筋を一瞬風圧でひしゃげさせながら壁に穴をあけ、海に消えていく。ヒュウッと、丸くあいた小さな穴から流れ込む冷たい空気が背筋を冷やす。

まずい。こんな時に敵襲だ。

警鐘は鳴らなかったが、船内まで侵入を許してしまうなんて。見張りはやられてしまったんだろうか。

相手は、弾丸を超高速回転させて砕氷船の分厚い壁をも貫通させる腕の持ち主。かなりの手練れだ。航海士の男は扉の方を見たまま戦意を喪失している。だけど私はこんな所で諦めたりはしない。絶対に生き延びてやる。生きて彼に会うんだ。

身体の上で固まっている男を避けながら、私は身を起こす。男を守りながらどう戦うべきか。頭の中で忙しなく考えながらナイフを掴んだ。瞬間、振り向くより前に届いた声音に、力が抜けた。

「一応確認するが、この男と付き合っているのか?」

低くて澄んだ声。その声に、カシャン、と手からナイフがこぼれ落ちる。ギギギ、と錆びついた機械人形みたいに振り向いて、私は息を呑んだ。

絵から飛び出してきたような凛々しい立ち姿。銃を構える真剣な顔付き。

会いたくて、会いたくて、たまらない人が、そこに居た。

「……っ、付き合って、ない」

思考も動作も停止したままだった。だけど訊かれた内容にどうにか答えると、被せるように「だったら殺していいな」と低い声が返ってくる。

地を這うような声。狙いすまされた男は両手を上げながら青ざめた顔でブルブルと震えている。少し可哀想だった。

残念な男でもこの船の優秀な航海士で、年寄り並みに話は長いけどベイ船長の大切な部下なのだ。

まさか本気じゃないだろうけど、男の眉間に銃口を向ける彼に制止の声を掛けようとした時、開きっぱなしの扉から現れた人物が、パンッと手を叩きストップをかけた。

「はい、もういいでしょ、イゾウ。冗談はそのくらいにして銃を下ろして」

「おれは冗談は言わねぇ。お前も知ってるだろ、ベイ」

「いいから下ろしなよ。名前も驚いてる」

奇しくも男女逆ではあるが、先ほど男が言った対面座位に近い姿勢で固まっている私を見ると、彼──イゾウは不満げに舌を鳴らしながらも銃を下ろした。

安全装置のレバーを引き、帯に銃を差し戻す。その横を、私の上から飛び退いた男がそそくさと通り過ぎていく。目だけで殺すんじゃないかと思うほどの眼光で男を睨み付けていたイゾウは、男が出て行くと同時に吠えた。

「おい、ベイ! 一体どうなってんだ! この船は! 付き合ってもいない男が女の部屋に出入りして覆い被さるのか!」

「あたしはそこまで干渉しちゃいないよ。女だろうが名前も海賊なんだ。アンタが早まんなきゃ自分であしらっていたさ。なのにアンタは船に穴まで開けちゃって……」

ベイ船長は、チャームポイントの垂れた瞳で風穴を見つめ、女らしい厚めの唇から重い息をはいた。

「咄嗟だったんで加減を間違えたんだ、悪かった。だが男は撃たなかったんだから良しとしてくれ」

悪びれないイゾウの態度に吊り気味の眉をさらに吊り上げたベイ船長だが、ふう、ともう一度息を吐くと表情を戻した。

「まぁ、あの男に非があるからあたしの大事な船を傷つけた事は大目に見てあげる。それよりアンタ名前に話があるんでしょ。あたしは席を外すから二人で話しなよ」

「ああ、助かるよ」

名前、聞いてたから分かるだろうけど、この男が話したいんだって。あたしは部屋へ戻るけど、何かあったらいつでも言いにおいで」

そう言ってひらりとマントを翻す。

そのまま部屋を出て行くと思われたベイ船長だが、ピタリと足を止めると振り返って私を見た。

「そうだ、名前。いつか言おうと思ってたんだけど、今言っておくよ。アンタはずっと無理言ってこの船に乗せて貰ったと思ってるようだけど、人手不足だったこの船にアンタが来てくれて正直あたしも助かったんだ。今は人も増えた。ここへ来た時のことは気にせず、自分の心に素直になればいいよ」

ニコッと見惚れるような笑顔を見せたベイ船長は、どう受け止めていいか分からない意味深な言葉を残して今度こそ部屋を出て行った。