Novel
私が犯した過ち - 04
パタン、と扉が閉められる。
遠ざかるブーツの音と、反対に近づく草履の音。
徐々に縮まる彼との距離に息が詰まる。
会いたくて、会いたくて、たまらなかった。
しかし、いざ彼を前にすると身が堅くなってしまうのは、あの夜が原因だ。
彼の部屋で行為を終えたあと、気をやったまま意識を飛ばしていた私が目を覚ましたとき、イゾウは背を向けて眠っていた。気付かないはずがない。だけど彼は、私がベッドから抜け出しても、身支度を整えても、部屋の扉を開けても、こちらを見ようとしなかった。
さよならさえ、告げてくれなかった。
やはり許せないんだろうと落胆した。
なのに、どうして海を渡ってまでここへ来たんだろうか。
足音が目の前で止まる。
俯いた顔を上げると同時に、彼は床に落ちたままになっていたナイフを拾いあげてサイドボードの上に置いた。そして、その場所で自分に向かってずりずりと動くビブルカードを見つけ、わずかに目を瞠る。
「……これは、おれのか?」
慌てて隠そうとしても、もう遅い。
ビブルカードを手に取り、私が日々そうしていたように手のひらに乗せて動く様を見つめる。
「それは……」
返答に窮して、再び俯いた。
床に視線を這わせたまま、ない答えを探していると「これも、まだ持っていたのか……」と呟く声が聞こえた。
木箱の中身まで見られてしまい、ビクッと肩を揺らす。サイドボードの上で開けっ放しになっていた木箱。
蓋をしなかった間抜けな己を悔やみながら動揺を隠せない。悪戯が見つかった子どもみたいに心臓がバクバクと音を鳴らした。
「あ、あの、話ってなに? どうしてここへ来たの?」
居た堪れなくて切り出した声は思った以上に上擦っている。
内緒で持っていたビブルカードや、未練がましく取っていた品々を見られてしまったのだからそれも仕方ない。
彼は私を見ると、サイドボードにビブルカードを戻して目の前にしゃがみ込んだ。
すっと伸びてきた手が、膝の上で握られている私の手の上に重なる。
心臓がさらに強く脈を打つ。
「迎えに来たんだ」
思わず引いた手を追いかけてくる、大きな手。絡み付いてきた指先は、あの夜と同じくらい熱を持っていた。
「戻ってきてくれないか」
黒い瞳が私を見上げる。
握られた指先が、じんじんと熱を帯びてくる。
触れられていないはずの顔も、心臓も、熱くてたまらない。
「な、なんで? オヤジの指示?」
「違う。おれが戻ってきて欲しいんだ」
キッパリと明言され、どうしていいかわからない。
視線を彷徨わせる。
「……でも、急に言われても、オヤジもベイ船長も困るだろうし」
「オヤジの許可は下りてる。ベイにも話を付けた。あとは名前の気持ちだけだ」
『自分の心に素直になればいいよ』
去り際の、ベイ船長の言葉を思い出す。
あれはこのことを指していたのか。
だからといってすぐに『はい』とは言えない理由は。
「どうして? だって、まだ怒ってるんじゃ……」
あの夜の背中は静かな拒絶を告げていた。
だから自分の気持ちが明らかになった今も、私は動けないままでいるのだ。
「怒ってない。……いや、違う、厳密に言えば怒りはまだある。だがそれはお前にじゃなく、おれ自身が…………」
イゾウはそこで言葉を止めると、眉間に深い皺を刻んだ。
「……いや、まどろっこしいことはもうやめだ。八年も無駄にしたんだ」
強い語調で言い切ると、彼は目を伏せた。長いまつ毛が一度静かに揺らぎ、真っ直ぐに向けられる。
「好きだ、名前」
一瞬で頭の中が真っ白になった。
呼吸と思考が同時に止まり、憎いんじゃないか、とか、許せないんじゃないか、とか、頭の中を占めていた疑問が一挙に吹き飛んだ。
頬を一筋の涙が流れていく。
イゾウが指の背で、目元を拭ってくれる。
「お前がベイの所にいると知ったとき、連れ戻さなかったことを死ぬほど後悔した。なのに、おれはあの夜同じ過ちを繰り返したんだ。姿を見ると引き止めちまうと背中を向けていたのにお前が出て行ったあと、馬鹿みたいに悔やんで居ても立っても居られなかった。気付いたらオヤジに名前を迎えに行きたいと伝えていた。お前と一緒にいたい、名前。おれの元へ戻ってきてくれ」
強い愛情を向けられて、嗚咽が漏れる。
ああ、そうだ。
この人は深い深い愛情を持っている人だった。
主君と崇めるおでんがロジャーの船に行くと決まった時でさえ、彼は疑惑を晴らすため船にとどまってくれたというのに。
私は本当にどこまで愚かだったんだろう。
「……っ、すき……」
愛してると常に言ってくれていた。
私を不安になんてさせなかった。
こんなに信頼できる人はいなかった。
死ぬほど後悔しているのは私の方だ。
「好き、私もイゾウが好き……!」
拗れていた想いが全部ほどけていく。
押し留めていた気持ちを吐き出したことで、涙までぽろぽろと止まらない。
「名前」
八年前と同じ、甘い響き。
鼓膜に優しく溶けるように囁いて、イゾウの手のひらが濡れる頬に添えられる。
そっと近付く赤い唇が、私のそれに重なる。
「んっ、んぅ……」
優しい口付けが、何度も何度も角度を変えて徐々に激しくなる。差し込まれた舌が歯列をなぞり、上顎を擽り、舌裏を舐める。口内を余すところなく舐め尽くす舌に、数日前の感覚が蘇りお腹の奥が震えてしまう。とろとろと、熱い何かが溢れてしまいそうだった。
「んっ、はぁ……」
ようやく唇が離れる。
二人を繋ぐ糸が切れて、私の唇を親指の腹でゆっくりなぞったあと、イゾウはその指をぺろっと舐めた。
扇情的な仕草に、頬に熱を感じたまま見入ってしまう。
「そんな顔するな、このまま抱きたくなっちまうだろ」
濡れた唇でそう漏らす彼の方が、よっぽど色っぽくてそそる顔をしている。
また、お腹の奥がきゅっと震えた。
「……イゾウが、欲しい」
藤色の袖を掴んで言うと、彼は困ったような怒ったような表情を浮かべた。
「そんな台詞、どこで覚えてきたんだ。相手の男を撃ち殺してやりたくなるだろ」
射抜くような目で見たあと、私を腕の中に閉じ込める。
胸に広がる懐かしい香りに、ひどく安心させられた。
「私は、イゾウしか知らないよ」
そう告げると、彼はひと呼吸置いてから「それは、本当か?」と訊いてくる。
「本当だよ。私はイゾウしか好きになれないみたい」
ベイ船長の船にきて、出会いがなかったわけじゃない。数人から交際を申し込まれたこともあった。でも、どうしても、イゾウが忘れられなかった。
私の中心から、イゾウが消えることはなかった。
「ああ、くそっ、そんな可愛いこと言われたら辛抱できなくなっちまう」
背骨が軋むほど、強く抱かれる。
せっかくモビーまで我慢しようと思っていたのに、とこぼしながらイゾウが私をベッドに組み敷く。
そのまま抱かれるのかと思ったが、ふいに目の前の美貌が物憂げに曇り、シーツについた手のひらがぐっと握り込まれた。
「……あんな風に抱いて、悪かった」
後悔の念を滲ませるイゾウ。
その頬に、そっと触れる。
「いいの。私はイゾウが好きだから、どんな形でも触れ合えて嬉しかった」
「でも、泣いてただろ」
「あれは……その、大人になったイゾウに寂しさを感じたというか、変わってないと思ったイゾウの変わった部分を見つけてしまったというか……」
もごもごと口籠る私にイゾウは首を傾げている。
なんと言えばいいか分からなくて、狼狽ながらもとにかくいやで泣いたんじゃない、ということだけ告げるとようやく納得してくれた。
「本当に抱いていいのか?」
「うん、イゾウをたくさん感じたい」
そんな言葉が自然とこぼれてしまい、自分で言って顔が熱くなる。一瞬、イゾウが息を呑んだのがわかった。
「お前はまたそんな可愛いことを言って……」
少し困ったような声を上げたイゾウは次の瞬間。
「おれで一杯に満たしてやるから覚悟しろよ」
そう言って、ぱらりと落ちてきた前髪をかき上げるイゾウはあの頃にはない壮絶な色香を伴っていて、私はごくりと生唾を飲むしかなかった。
