Novel
別れの果てに - 09
「……マルコ」
できる限り優しい声で呼び、そっと指先を伸ばす。
自分の肩口に押し付けられた頭に触れると、びくりとマルコが震える。宥めるように撫でると、見た目よりも柔らかい髪が、手の中でふわりと跳ねた。
「私、男なんていないよ」
告げながら、未だ私にしがみつくマルコの腕を緩く解く。マルコは放そうとしなかったけれど、履物を脱いで足をベッドに戻すと、部屋を出て行くつもりはないと判断したのか、腰に回されていた手がようやく下りた。
「……今日見たんだよい。アイツと…イゾウと、抱き合ってただろい」
身体ごと向き合うと、マルコが膝の上でギュッと拳を握り締めて言った。ベッドに座っても頭一つ分以上背の高いマルコの顔を見上げると、眉間には深い深い皺が刻まれていた。
私は、なるほど、と息をつく。
マルコはあれを見て誤解したのか。
アイツアイツと拘っていた謎がようやく解けた。
「イゾウは、私を慰めてくれてたの」
「……慰める?」
「そう。あなたがあの子を抱いてるのを見て、思い出して泣いてしまった私をね」
言いたくない話ではあるけれど、勘違いされたままではイゾウが困るだろう。事実を話すと、マルコは「そうだったのか」と心底安心したように息を吐き出した。
「マルコこそ、あの子と付き合い始めたんじゃないの?」
切り出すと、マルコはゆるく首を横に振った。
「……付き合ってないよい。前にも言った通り、俺は名前以外の誰とも付き合うつもりはないから」
「でも、抱いてた」
ぴしゃりと言い放つと、マルコの顔が歪んだ。
怯えと後悔を混ぜ合わせたような表情をされて、ほんの少し可哀想な気もしたけれど、彼の涙はもう止まっているし、私もマルコの言葉に相当心を痛めたんだからこれくらい許されるだろう。
マルコは私を窺いながら躊躇いがちに呟いた。
「……今日、本当なら八年目の記念日だっただろい」
「うん」
「でも名前は、全然関係ないって顔で仕事をこなしてて」
「……う、ん」
「俺だけ未練残して情けないほど引きずってると思うとやり切れなくて…付き合ってる頃の名前と同じ髪型にしてきたあいつを、身代わりにしたんだよい……」
結局、途中で萎えてやめたけどな、と洩らすマルコに、付き合った訳じゃないんだとホッとする。と同時に、少しだけ彼女に同情した。
だって彼女は髪型を変えてまで、マルコが欲しかった訳で……
それでも、萎えたと聞いてどこか嬉しい気持ちになってしまうのだから、私も大概始末が悪い。
「そんなに想ってくれてるなら、別れる時に引き留めてくれればよかったのに……」
「……言えねェよい」
「どうして?」
「名前の気持ちがとっくに俺にないのを知ってたからねい」
「なぜそう思うの?」
「なぜって……」
マルコが口を噤む。
気持ちが離れてるのはマルコの方だと思っていた。
だから女性を抱いて、匂いを撒き散らして、関係の終わりを私から告げて欲しいんだと思っていた。
なのに彼は彼で逆を考えていたなんてと、私は驚きを隠せ得ない。
「俺が言えた義理じゃねェが、浮気を繰り返しても名前は一度も責めたりしなかっただろい」
「……それは、我慢してたのよ。いい年してみっともなく浮気をやめてなんて、海賊のあなたに言えるはずないでしょ」
「……俺は、言って欲しかったよい」
「言って欲しかったって……止めて欲しかったってこと? ならなぜ浮気をしたの? 私を困らせたかった? 泣かせたかった?」
訳がわからなくなってあれこれ聞き返す私にマルコは違う、と短く答える。そして、一呼吸置いてから重い口を開いた。
「……最初は、過ちだったんだよい。名前が副隊長を引き受けたことがショックで……俺は前後不覚になるまで島で酒を飲んだんだ……」
苦々しい表情を浮かべて目を伏せるマルコ。
「それで、朝気付いたら、その…、知らない女が隣にいて……焦った俺は、とにかく名前に許して貰えるまで謝るつもりで船に戻ったが、名前はそんな俺を笑って受け入れたんだよい。女の匂いがする俺を全然気にする素振りもなく、おかえり、マルコってな」
ふっ、と力なく笑う青い瞳が切なげに揺れる。彼の意外に長いまつ毛が頬に暗い陰を落とす。
「その時わかったんだよい。名前の気持ちがもう俺にないって。だから俺の反対も聞かず副隊長を引き受けたんだって」
「……それで浮気を繰り返したの?」
「ああ。名前が少しでも嫉妬してくれるんじゃないか、なんてバカな期待してな。でも名前は咎めるどころか遂には触らしてもくれなくなって、別れたいって目も合わさず告げられた時は、さすがにもう諦めるしかないって思ったよい」
そう、だったんだ……
マルコはあの日、過ちを償うつもりで帰ってきたんだ。
でも私は何も聞かず笑って彼を受け入れた。
それで、もう気持ちがないと思われてしまった。好きなら相手の浮気は許せないだろうと。
分かってしまえは簡単な話だけれど、あの時の態度がこんなに関係を拗らせてしまったのか。
「……私ね、マルコ」
視線を落とすと、マルコの手は未だ自身を戒めるように膝の上で握られていた。筋の浮いたその拳を見ながら、私は静かに語りかける。
「……あの時、怖かったの……」
「怖かった?」
「うん。副隊長に就任した途端、マルコ私のことを避け始めたでしょ」
「あ、ああ……」
「……三日経っても、一週間経っても会えなくて、もう見限られたんだと思ってた……」
『頼むから、辞退してくれ』と、切実に訴えるマルコの声を無視して副隊長に就いたから。
それでも彼なら笑って許してくれると驕っていたバカな私は、避けられてようやく気が付いた。
マルコは私が許せないんだって。
だから私を避け出したんだって。
「……顔を合わせないまま日だけが進んで、このままマルコと会えないんじゃないかって、不安で胸がいっぱいになってね……」
「名前……」
「押し潰されそうになった頃、マルコが戻ってきたの。それで、ああ、戻ってきてくれたんだって、マルコの顔を見たら何だかもの凄く安心しちゃって、おかえり、って笑ったの……」
言いながらまた涙を流してる、なんて。
私の涙腺はいよいよ機能しなくなってしまったらしい。
マルコは、まるで壊れやすいガラスに触れるかのように、私の眦をそっと指でなぞった。
「名前、ごめん……」
指と同じくらい、優しい声が耳に落ちてくる。
あの時、もちろん女性の匂いには気付いていた。
けれど、私はマルコを失う方が怖かった。
避けられ続けた二週間で嫌というほどマルコの大切さが身に沁みた。私にはマルコが必要。自分の命より大切な存在。だから、目を瞑った。
だけど、その後も見せ付けるように女遊びを続ける彼に傷を重ねるうち、気付かされた。
彼の気持ちはもう私にはない。別れたがっているんだって。
そう思っていたのに、それが全部勘違いだったなんて……
私たちはどれほど言葉が足りなかったんだろう。
長く付き合っているからと、相手のことを理解した気でいるのは間違いなんだと今更ながらに気が付いた。
