Novel
別れの果てに - 10
「……私、マルコが、好きだよ」
そう告げると、眦を撫でていたマルコの手がぴたりと止まった。
いつもは半分くらいしか開いていない瞳がみるみるうちに開かれていく。こぼれ落ちそうな瞳のまま固まっている普段は絶対見られない彼の姿につい笑ってしまうと、マルコは急にそわそわと動き出し、居住まいを正して問いかけてきた。
「それは……本当、かい?」
「嘘なんて言わないよ。別れる前も、別れてからも私はマルコが、マルコだけがずっと、好き、っ…んっ」
言い終わる前に、荒っぽい口づけが降ってくる。
「んっ、んんっ、」
大きな手が後頭部に回り、熱い舌が差し込まれる。
マルコの舌からは強いお酒の味がした。
強引な彼に戸惑いつつも必死で応えていたけれど、終わらない口づけに呼吸が苦しくなる。マルコの胸を叩くと、ハッとした彼は唇を離して気まずそうに目を逸らした。
「悪い……嬉しくて、気持ちが抑えきれなかったよい」
困ったように頭の後ろを掻くその仕草は、付き合っている時に彼がよくしていたもので。ほんの少し前のことなのに、なんだかすごく懐かしい。思わずぎゅっと抱き付くと、マルコの身体が少し離れた。
「あっ、苦しかった?」
ごめん、と謝って身体を退かせる。気持ちが昂ぶり、つい力加減を間違えてしまったようだ。うん、自分でも強かった気がする。と反省していると。
「……違うよい、その……名前と、キス…したし、別れてずっと出してなかったから……」
「え?」
もごもごと呟かれるが、いまいち要領を得ない。
一体なんだろうと首を捻ると「あー、だから…」と額をガシガシ掻いたマルコが「…つまり、こういうことだよい」と、やや乱暴に私を抱き寄せた。
ぴったりくっつく身体に押し当たる、硬い感触。
存在感を示すそれに気付いて、カァっと頬が熱くなる。
「名前と別れて勃たなくなってたものが、キスだけでこんなになっちまったよい」
「で、でも島で発散してたんじゃ……」
「あれは隊員に言われて仕方なく行っただけだよい。頼むから気晴らして来てくれって。でも、行くだけ無駄だったよい」
「そう、だったんだ」
てっきり別れたあともたくさん遊んでると思っていたのに……
そういえばさっき途中で萎えたと言っていたけど、そうか、そんな事になっていたのか……
耳元に、マルコの唇が寄せられる。
「……なァ、名前、したい」
ぐっと低くなった声が吹き込まれて、ドキッと胸が跳ね上がる。グリグリとお腹に擦り付けられる硬い感覚に、生娘でもないのに恥ずかしさと照れくささに押し潰されそうだった。
「ダメかい……」
久々に求められてうまく答えられずにいると、マルコが傷付いた子犬のような表情を浮かべる。
しゅん、と垂れ下がった耳まで見えてしまう私の眼は一体どうなってしまったんだろう。彼は鳥なのに。
ああ、それにしても、マルコ……
その顔は反則だよ。
なぜ四十も過ぎた人がこんなに可愛いのだろうか。
果たしてこれが恋は盲目というやつなのだろうか。
いや、思案するのはあとだ。
今は傷付いた子犬を癒さなければ。
「……いいよ、マルコ。きて」
妙な使命感に駆られた私が熱い頬を押さえながら告げた瞬間、ばふっとベッドに押し倒された。
先程と同様、私にのしかかるマルコ。
違うのはしっかりと感情が宿っていることだ。私を見下ろす彼の眼差しは、隠すことない情欲に濡れている。
「名前に触れたくて堪んなかったよい」
「私だって触れたかったよ」
愛おしそうに私の頬を撫でる彼の胸の誇りに、私もそっと指先を這わせる。
すると、誇りとおんなじ色の瞳を細めたマルコが、ぴくっと身体を揺らした。可愛い。ああ、やっぱり好きだなぁ、なんてしみじみ思う私の唇は吐息ごと喰らうように奪われて。くちゅりと絡む熱い舌に口内を弄ばれ、ゾクゾクしたものが背筋を這い上がっていく。
「……っ、なんだか、マルコ、強引になった」
「いやかい?」
「ううん、嬉しい」
そう。嬉しいに決まってる。ずっと受け身だったマルコが全身で私を求めてくれているのだから。
「待ってても欲しいものは手に入らないって気付いたからねい。受け身はもうやめだよい」
「その方が私も嬉しい」
「好きだよい、名前」
「私も、好き……」
いい年して告白しあうなんて、なんだかとてつもなく恥ずかしい。けれど、泣いて、喚いて、叫んで、本音を言い合ったからこそ『今』がある。
不満は胸に秘めておくのが美徳だと思っていたけれど、言わなきゃ自分の気持ちは相手に伝わらない。話し合わなければ、相手の気持ちはわからないままなのだ。
しっかりとその教訓を噛み締めていると、突然、首筋にチリッとした痛みが走った。ちゅっ、ちゅっと吸い付く唇が、鎖骨や胸元に紅い痕をたくさん散らしていく。
「あ、んっ、なんで、痕なんか……」
付き合ってた頃は一つも付けなかったのに、と抗議すると。
「俺の所有印だよい」
と。私の胸元からひょいと顔を上げたマルコが平然と言う。唾液の付いた自分の唇をペロリと舐める仕草に、鼓動が高鳴った。
「身も心も、俺のものになってくれよい、名前」
「心はもうなってるよ。身は、今から、でしょ」
クスクス笑って返せば、そうじゃないよい、とマルコが優しく微笑む。だったらなんだろうと首を傾げると、マルコは私の手を掬い取り、まるで物語に登場する王子様のように恭しく手の甲に口付けた。
「俺と、結婚して欲しい」
その言葉に、息を飲む。
付き合っていた時、彼と結婚することはずっと夢に見ていた。そして今、念願のプロポーズをされて幸せの絶頂にいるはず。なのに、素直に喜ぶ事ができないのはあの話を聞いてしまったせいだ。
きっと、沈んだ顔をしているんだろう。
不安げな表情のマルコが覗き込んでくる。
「……俺と結婚はしたくないかい?」
私はきつく目を瞑り、首を大きく左右に振る。
「ううん、したい……したい、けど」
「けど?」
「私と結婚はしないって……」
「……ああ、オヤジとの話を聞いてたのは、名前だったのかい」
みなまで言わずともすぐに理解して「あの時、ドアの外に人の気配があったからねい」と洩らすマルコ。立ち聞きしていた人物が私とまでは気付いていなかったようだけど、気配を察知していたのは流石としか言いようがない。改めて尊敬していると、マルコがあの時の状況を教えてくれた。
「……オヤジに話を振られた時はもう名前の気持ちが離れてると思い込んでいたからよい。俺がしたくても無理だと思ってた」
「……じゃあ、ほんとに、私と?」
「ああ。それにオヤジにはちゃんと言ったよい『名前にその気はないかも知れねェが、俺が結婚するなら相手は名前しかいない』って」
その時にはもう外の気配は消えてたけどな、と笑うマルコの姿がぼんやりと滲んでくる。ツン、と鼻の奥が痛んだ。
「本当に、私でいいの……?」
疑ってる訳じゃない。
けれど、もう一度確認しておきたくて。
ぼやけた視界に彼を映すと、マルコは私の目を見ながらゆっくりと頷いた。
「俺は、名前しか欲しくないよい。本当は誰の目にも触れさせず一生閉じ込めて傍に置いておきたいくらいだよい。嫌われたくないから我慢しているが……名前こそ本当にいいのかい? もしこの先、名前が他の誰かを好きになっても、俺は相手の男を殺してでもお前を離さないよい」
マルコの剥き出しの想いを知り、一瞬声を失う。
余りにも激しい独占欲を見せつけられ、ぶるりと背中が震えた。彼の執着心を少しだけ怖く感じてしまうけれど、それ以上に心が高揚するのを感じた。
「私もマルコしか欲しくない。結婚するならマルコとって決めてた。マルコこそ結婚するなら覚悟してね。次浮気したら海に突き落としてやるんだから」
「それなら心配無用だよい。言っただろい。俺は名前しか欲しくないって。他の女なんか目に入らない」
きっぱりと断言するマルコは改めて私の手を取り、今度は指先にキスをした。
「結婚してくれるかい? 名前」
「……もちろんだよ、マルコ。喜んで……」
答えると同時に、涙が溢れた。
だって、こんな、嬉しい……
告白も、キスも、その先に進んだのも、全て私からだった。受け身はやめだと言っていたけれど、まさか彼がプロポーズしてくれるとは夢にも思わなかった。
「言葉じゃ言い尽くせないほど、愛してるよい」
目尻を伝う涙をマルコの舌が優しく舐め取る。そのまま耳を、首筋を、はだけた胸元を、全身を舐めるマルコに、私の身体は溶かされていった。
うつ伏せにされ、背中の傷痕とマルコとお揃いで彫った腰の刺青も丹念に舐められて。その熱い舌も、厚い胸板も、逞しい腕も、温かい体温も。彼の全てが私を満たしてくれる。
正確に言えば、満たされすぎて何度か意識を失いかけたほどだったけれど。明らかに前とは違う彼の本気の行為に、今更ながら手加減されていたことを知った。
「明日、記念日のやり直しをしよう。指輪も買おうねい」
散々喘がされ疲れ切って眠りに落ちる寸前。
私の髪をサラサラと撫でながら、マルコが弾むような声を上げる。
なぜ同じことをして……いや、動いていたのはほぼマルコで、私は半分意識を飛ばしたまま寝転がっていただけだった。なのになぜ彼はまだこんなに元気なのだろうか。若さで言えば私の方が十歳も年下なのに、おかしい。おかしすぎる。
もう言葉を発する力もなくて、瞳を閉じたまま頷くと、何とか微笑みを浮かべることに成功した唇に唇が重なる。投げ出していた手をぎゅっと繋がれて、ふと引き出しにしまった写真のことを思い出した。
亀裂を入れてしまったマルコとの写真。
全部破ってしまわなくて良かった。
明日二人の関係のように修復して、今度はマルコが恥ずかしがってもフレームの表面に飾ろう。そしてその写真を見て思いだすんだ。どんなに仲のいい恋人や夫婦でも、些細なことがきっかけで歯車は簡単に狂ってしまうということを。
この手は二度と離さない。
ぎゅっと温かな手を握り返すと、隣に潜り込んできたマルコが私を胸に抱き寄せる。
彼の鼓動と匂いと体温に包まれて、私はゆっくり微睡の中へ落ちていく。
愛する人に身も心も委ねながら、眠りにつく幸せな夜。
カーテンから漏れる半月の明かりが、寄り添う私とマルコの姿をいつまでも照らしていた。
