Novel
別れの果てに - 08
「話が見えないんだけど」
噛み合わない会話に苛立ってくる。
アイツって誰のこと、そう聞き返そうとした矢先、マルコが右手の瓶を床に置いた。強かに打ち付けられた瓶底が床板とぶつかり、中の酒がちゃぽんと揺れる。そちらに気を取られている間にふらりと立ち上がったマルコは、腕を強く引いて私を強引に立ち上がらせた。
「なァ、名前…………」
向かい合って立つと思いのほか顔が近くて気後れしてしまう。反射的に後退るとマルコが距離を詰めてきた。
一歩下がると、一歩進む。
そうやって私をじりじりと後ろへ追いやりながら、彼は未だ訳のわからない言葉を繰り返す。
「それは、アイツの好みかい」
「……何を、言ってるの……?」
「髪だよい。だから切ったんだろい」
長い指先が、肩に付かないほど短く切った毛先に触れてくる。
「……濡れてるねい。シャワーを浴びたのか。いい香りがするよい」
ぐっと距離を詰めたマルコの鼻先が首筋に埋まる。深呼吸するようにすうっと匂いを嗅がれて大袈裟に身体が跳ねた。とっさに後ろに大きく下がると膝の裏に何かが当たる。振り向くと同時に手首が放され、ドンっと肩を強く押された。
「……ッ!」
一瞬で視界が反転する。
天井が見えた途端、柔らかなマットレスの上で背中がバウンドした。
「っ、な、にするの……!?」
ベッドに倒されたんだと知り、慌てて肘をつく。
起きあがるよりも素早くマルコの身体がのしかかってくる。
「……やめてよっ!」
力一杯押し返すが、堅い胸板はびくともしない。
それどころか、押し返す両手をいとも簡単に一つに纏め頭上にあげられてしまう。
それを軽々と片手でベッドに押さえつけると、マルコはもう片方の手で私の頬をゆるりと撫でる。長い指先が滑るように頬から輪郭をたどり、顎、首筋、鎖骨、と素肌をなぞっていく。
表情からは想像もつかない繊細な指先の動きに、ぞくりと皮膚が粟立つ。
「……相変わらず、綺麗な肌だねい」
「ッ、触ら、ないで……」
「俺に触れられるのはそんなに嫌かよい」
「いやよ、離して……っ」
「アイツに操でも立ててんのかい」
「……だからっ、何のことよ!」
キッと睨みつけて言い返すと、マルコが挑発的に鼻で笑う。
「隠すなよい。男が出来たんだろい。まだ別れて二ヶ月だってのに、名前もやるもんだよい」
「なにを……」
「それとも俺と付き合いながら、アイツとも寝てたのかい」
「そんなことっ、」
「ああ、だから突然抱かせてくれなくなったのか」
「っ、ちがっ……」
「正直に言えよい。アイツと寝てたんだろい」
「……待って、本当に意味が……」
「だから、俺と別れたんだろい!!」
ダンッ、といきなり顔の真横に拳を叩き付けられて息を呑んだ。マットレスが沈むほどの衝撃に身体が竦む。しかし、投げつけられた言葉はどれも身に覚えのないことばかり。一体何を勘違いしたのか知らないが、言いがかりにも程がある。根拠のない侮辱に、自分の体温が上昇するのがわかった。
「……私は、誰とも寝てない……」
怒りに喉が震える。
寝ていたのは、あなたの方だ。
知ってたよ……
あなたが私と別れたくて、わざと女性の匂いを纏わせていたこと。
思い返せば、あなたが女遊びを始めたのは私が副隊長に就いた頃からだった。
許せなかったんでしょ。
あなたの声を無視して副隊長を引き受けた私が。
分かってた。
あなたが自分から別れを切り出せないことなんて。
あなたは私に負い目があるから。
気にしていたもんね、背中の傷痕。
だから私の限界がくるまで待ち、私から別れを切り出すよう差し向けたあなたは本当にズルくて、ヒドイ人。
そうしてまんまと別れたのに、なぜ今更こんな謂れのないことで私を責めるのか理解できない。
そもそも責められるべきは、あなたの方ではないか。
愛した人が自分に満足してくれない辛さがあなたにわかるだろうか。
恋人が当たり前のように自分以外の女性を抱いて帰ってくる、あの惨めで悲しい気持ちが理解できるだろうか。
その手で触れられるのがどれほどの苦痛か、少しでも感じることができるだろうか。
どれだけ私が我慢したかあなたは知らないくせに。
私の気持ちなんて何ひとつ知りもしないくせに。
なぜ、あなたが私を非難するんだ!
身勝手に責め立てるマルコに、我慢ならなかった。今まで積もり積もったものが爆発する。無表情に見下ろしてくる男の顔を睨みつけて勢いよく口を開いた。
「ふざけないでよ、寝てたのはあなたの方でしょ! あんなにわかりやすく浮気をしておいて、よくもそんなことが言えたね。一度でも私の気持ちを考えたことある? 恋人が自分以外の女性を抱くんだよ。それがどれだけ辛いか、マルコにわかる? その手で抱かれるのがどれほど苦しいか、マルコにわかるの? もう耐えられなくなったの! だから私はマルコを拒んだの!」
ダメだ、止まらない。
一生胸に秘めておくつもりだった気持ちが、堰を切って溢れていく。
「別れてすぐ遊んでるのもあなたの方でしょ! 島の娼館に行ったのも知ってる! 今日だって地下であの子を抱いてたくせに、なんでマルコが私を責めるのよ! どうせ、あの子に言い寄られて付き合い始めたんでしょ! マルコ好みの黒髪になってたもんね、あの子!」
言いながら涙が滲んでくる。
こんな嫉妬にまみれたことまで口走ってしまう自分が嫌で嫌でたまらない。
醜くて、汚くて、悔しくて、苦しくて、憎らしくて、やりきれなくて、情けなくて、ぐちゃぐちゃで……
「…っ、もう構わないでよ! ずっと私だけなんて言っておいて、あの子を選んだくせに! 私を惨めにさせて、挙句に貶めて…、そんなに私が憎い? あなたが反対した副隊長を引き受けた事がそんなに許せない? だからこんな仕打ちをするんでしょ! だったらもう、辞めてあげる! 一番隊もやめて他所へ移ってあげる! 別れても許せないほど恨んでる相手と一緒に仕事なんて出来ないもんね。あなたもそれで満足でしょ!」
はぁ、はぁ、と肩で息をする。
最後はもはや叫びだった。
後から後から浮かぶ滴が目尻を滑りシーツに染み込んでいく。急に静かになった部屋に押し殺した嗚咽だけが洩れる。泣きたくなんかなかった。顔を背けて必死に堪えても止まらない。ぼろぼろと泣いて、喚いて、叫んで、女々しい自分。最低だ。こんなみっともない姿、見せたくなかった。マルコにだけは。
私は、マルコを守りたかった。
それを口に出せるほど、素直な人間ではないけれど私はマルコの盾になりたかった。だから後方支援に下がってからは、彼のことが心配で堪らなかった。自分より遥かに実力のある不死鳥のマルコを心配するなんて、馬鹿げているのは重々承知している。
けれど、マルコだって生身の人間。
海楼石を使われれば血を流すし、命も落とす。
それなのにマルコは自分が傷付くのを厭わず、仲間の為に身を挺する。
そんな彼を、私は守りたかったんだ……
あの時だってそう。敵に海楼石で狙われているのを知りながら、マルコは自分より仲間の命を優先した。
間一髪彼の背中に私が飛び付かなければ、マルコは死んでいたかもしれない。
刃は彼の首を狙っていたのだから。
そんなことは、絶対させない。
彼が死ぬなら、私が死ぬ。
命を落とすのは私だけでいい。
ずっとそう思ってきた。
だから副隊長の話が来たとき、一も二もなく引き受けた。これで前線に戻れる。再び彼の背中を守れるんだと、私は喜んだ。
けれどその結果、マルコの気持ちは離れてしまった。
手が届かない、遥か遠くまで。
……皮肉なものだ。
一緒に居たくて取った行動が、逆に取り返しのつかない距離を生んでしまうなんて。
いつのまにか両手の自由を奪っていた腕の力は抜けている。マルコが今どんな顔をしているのかは知らない。だけど、私はきっとひどい顔をしているだろう。
グズっと鼻を啜り、拘束を抜け出して涙を袖で拭う。彼を避けて上半身を起こすと声がした。
「名前……」
と、呼ぶその声は震えている。
平坦だった声音に色が戻ったみたい。
だけどそれが、怒りからなのか、動揺からなのはわからない。彼から目を逸らしたままの私には知る由もなかった。
だが、今に至ってはそんなこと、もうどうでもいい。とにかく疲れた。部屋に戻りたい。一人になって、ベッドに潜り込んで、何もかも忘れて眠りにつきたい。
「……話はもう終わりよ。明日オヤジに言って隊を変えてもらうから。あなたもそれでいいでしょう」
出た声は、かすれた鼻声だった。
きまりが悪いな、と思いながらもしわくちゃなベッドから足先を下ろす。
そうして立ち上がろうとした、瞬間。
「……っ、待ってくれ」
ぐっと背中が重くなる。驚いてとっさに身を捩るけれど、背後から抱きすくめられて動けない。熱い体温が私を縛りつける。まるで縋り付くように。
「なに、放して」
「……行かないでくれ……」
「…………」
「……話を、させてくれよい……」
「まだ、私をなじり足りないの?」
「違う!違うんだ……俺は……っ」
声が、さっきよりも震えている。
私を抱きすくめる腕も、手も、肩口に埋まるマルコの顔も、髪も、身体も、彼の全てが震えている。
思わず少しだけ首を反らせて後ろを見やると、顔を上げたマルコと目が合った。
海を掬ったような瞳が儚げに揺れている。
濡れてる…そう思うと同時に、すっ、と音もなくこぼれた雫が頬を伝い、ぽた、と私の肩に落ちた。
「……名前が、好き、なんだよい……」
綺麗な青い瞳から流れる雫に、心臓が大きく脈を打つ。
涙を流している、彼が……
私を好きだと言って、涙を……
「……名前が、好きで、好きで、もうどうしようもないんだよい」
「マル、コ……」
「名前に別れを告げられても、他に男が出来ても、名前が、好きで、忘れられなくて……」
ぎゅっと眉根を寄せて、喉を詰まらせるマルコ。
彼のこんな辛そうな姿を見るのは、背中の傷を負った時以来だ。あの時もマルコは酷い隈を作り、生気を無くした顔で、高熱を出して意識朦朧としていた私が目を覚ますまでずっと傍で看病してくれていた。
「……頼むから、移隊なんてしないでくれ。名前が誰を好きでも構わない。男がいてもいい……これ以上俺から名前を取り上げないでくれ」
頼むから……と、聞くだけで苦しくなるような声が何度も耳元に吹き込まれる。
幼子のように、ぐりぐりと私の肩に頭を擦り付けて必死にしがみつくマルコの姿に、私の心臓は壊れるほど激しく騒ついた。
