Novel

別れの果てに - 07

熱いお湯が、冷えた身体に降り注ぐ。

泣くだけ泣いた私はイゾウに部屋まで送ってもらい、シャワーを浴びていた。

部屋を出る前の気持ち悪さやムカつきはもうない。

気分もやけに晴れやかだった。

これもイゾウのお陰だ。

『泣きたくなったらいつでも来いよ』と、優しい言葉と上品な香りを残して甲板へ戻って行ったイゾウの姿を思い出し、自然に笑顔がこぼれる。

イゾウの胸、温かかったな……

人の胸で泣くのがあんなに安らぐものだとは思いもしなかった。一人で泣いた後は虚しさとやるせなさで一杯になるのに、今はすごく穏やかな気分だ。

思いっきり泣いた割に、瞼がほとんど腫れていないのもありがたい。

これなら明日の仕事に支障はなさそうだ、と一息つき掛けたところで、明日は休みだということを思い出す。

毎年、記念日の翌日は休みを取っていたから。

それももう必要ないのだけれど。

キュッ、とコックを閉じて浴室を出る。

部屋着に袖を通し、肩にかけたタオルで髪を拭きながらベッドの端に腰掛ける。

ふとサイドボードの写真立てが目に入り、ああ、そうだった、と思い出す。

オヤジを中心に隊長達が各々ポーズを決めて映っている写真。その裏にこっそり入れてある、マルコとの記念写真。

写真嫌いのマルコにねだって撮って貰った、二人が付き合い始めた頃の写真だ。

マルコはオヤジと撮るときでさえ背中を向けるほどの写真嫌いで、断られるかなぁと思いつつダメ元でお願いすると、少し困りながらも笑って撮ってくれたのだ。これはそのときのもの。

でも悪いからマルコとの写真はこの一枚だけ。

表面に飾っていたら、部屋に来たマルコがあんまり恥ずかしがるから裏側に隠していた。

海賊旗を背景に、初々しく手を繋ぎながらぎこちない笑顔を浮かべる私とマルコ。

懐かしいな、と今よりも若いマルコを指先で撫でていると、突然ぽたっと写真の上に雫が落ちてきた。……ああ、また泣いちゃったんだ、と思ったら濡れたままの髪から水滴が落ちただけでつい笑ってしまう。

「ほんとバカだな、私って……」

乾いた目元に触れて一人ごちた私は、二人の間を切り裂くように写真を破く。

指先に力を込めて、ビリッと稲妻のような亀裂が入ったその時。

名前、いるかー?」

ノックと共に声がして、ふと手を止めた。

声の主はエースだった。

私は呼び掛ける声に応じながら、破りかけの写真を引き出しの中にサッと仕舞い扉を開ける。

「あー、悪い、風呂入ってたのか」

「もう出たところだったから大丈夫だよ。どうかしたの?」

「あのさ、頼みがあんだ!」

部屋に招き入れるなり、エースはがばっ、と頭を下げた。そして手にしていた用紙を私に見せてくる。

「実はこの報告書、マルコに昨日までに出せって言われてたのにすっかり忘れててさ……今から持っていくとまたどやされちまうから、名前から渡してくれねェか。マルコの説教は長くてキチィんだ……」

書類に目を通すと、確かに期限は昨日までのもの。

エースにしては珍しく全て丁寧に記入してあるが、今持っていった所で彼の言う通り、小言を食らうのは必至だ。マルコは提出期日に厳しいから。

これくらいの用事、普段なら容易く引き受けるが、今日は顔を見たくない。

「うーん」と渋りながら断る口実を探していると、「頼むよ、名前……」と上目遣いで拝まれてしまい、結局断りきれずに引き受けてしまう私。

「よかった、ありがとうな、名前!」

ホッとしたような笑顔で喜ぶエースに引き受けて良かったと思うものの、背中の刺青を見送りながら、ふぅ、と息を吐く。

引き受けた以上、今からマルコの部屋に行かなければならないのだ。

気は重いが、どうせ明後日には顔を突き合わすんだと自分を納得させる。それに、もしかするとマルコは留守かも知れない。明日は休みだし、あの子と近くの島へ降りている可能性だって十二分にある。

それなら書類を部屋に置いておけばいいだけの簡単なお仕事だ。よし、そうと決まればさっさと済ませよう。

ポイっ、と肩のタオルを椅子の背もたれに放り投げた私は早速部屋を後にした。

……少々肌寒い廊下。

エースがいつも通り半裸姿で現れたから油断していたけれど、彼が火の悪魔に魅入られているのを忘れていた。すれ違う隊員達もほとんど上着を羽織っている。

こんなに冷えるなら髪を乾かしてくるんだったなぁと後悔しながら足早に歩いていると、マルコの部屋まであと一ブロックほどの所で、背後から近付いてきた足音に呼び止められた。振り向けば、そこにはさっき甲板で機嫌よく飲んでいた一番隊の古株隊員の姿が。

「急いでるとこ悪ィな。マルコ隊長の部屋へいくのか?」

「うん、ちょっと用ができてね」

私がいる場所から推察したのだろう。

この先は行き止まりで、隊長達の部屋が連なっているだけだから。

「だったらついでに隊長の様子を見ておいてくれねェか?」

「え? 様子?」

意図をつかみかねて訊き返すと、彼が顎に手を当てた。

「実はさっき甲板で隊長が酒瓶を落として割ったんだが、あの人そんなヘマしないだろ。手が滑ったって笑ってたけど、なんか様子がおかしい気がしてな。名前と別れてから隊長ずっと投げやり、つーか無気力だし、ちょっと気になるんだよ」

「……分かった。見ておくよ」

隊員の言葉に些か引っかかりを感じながらも承諾すると、彼はニッとうなずいて踵を返して行く。

マルコも人間だし瓶を割る失敗くらいあってもおかしくはないと思う。だけど、投げやり、無気力、というのは知らなかった。というより気付かなかった。淡々と業務をこなしているようにしか見えないが、古株の隊員だからこそ分かる何かがあるのかもしれない。

そんなことを考えながらマルコの部屋にたどり着くと、中から明かりが漏れていた。隊員に様子を…と聞いた時点で居る予想はしていたが……

はあ、とため息を吐いて拳を握る。

扉に叩きつけようとして、はた、と手を止めた。

いけない、いけない。彼女も一緒だったらどうするんだ。

地下のような場面に出会すのはもう勘弁してほしい。

そっと中を窺うが、幸い室内は静かで声ひとつしなかった。甘い声や吐息の類もない。良かった。安心して、今度こそ硬い木の扉を叩く。が、返事はない。

ノブを回すと、鍵はかかっておらず普通に回る。おや? と首を傾げながらもそのまま入室する。立場上、無断で入るのを許可されているのだ。

しかし、扉をくぐると同時に身体が固まった。

視線の先にはゴロゴロと床の上に転がるいくつもの酒瓶。中身は全て空だ。室内にはお酒の匂いが充満していて、私は思わず顔を顰める。

マルコはそんな中、部屋の隅に蹲っていた。

壁に背中を預けたままへたり込み、立てた状態の両膝の間に顔を埋めている。右手に酒瓶を持ったまま。

「マルコ」

呼び掛けても反応はない。

どうやらその格好で眠っているようだ。

返事の代わりに小さな寝息が聞こえてきた。

ともかく私は転がる酒瓶を避けて事務机に向かい、一つ目の目的を完遂させる。

ゴソゴソと引き出しからペンを出してメモを残したりと物音を立てるが、マルコは起きない。

普段は人一倍気配に敏感なのに、やはり隊員の言葉通り様子がおかしいよう。部屋の状態も変だ。いつもなら、絶対床に瓶を転がしたりはしないのに……

エースの用事を終わらせた私は身を屈めて瓶を拾い上げていく。テーブルに並べると、瓶は全部で五本あった。それも強いお酒のラベルばかり。いくら彼が白ひげ海賊団屈指の酒豪でもこれは飲み過ぎだ。明らかに度を越している。

普段は調整しているのに、何故ここまで飲んだのだろうか。

「マルコ……起きて、マルコ」

隊員に頼まれた以上、このまま放置は出来ない。マルコの傍に屈み込んで呼ぶが、起きる気配はなかった。

こんな時、ジョズやビスタなら軽々と彼を抱えてベッドに運んでやれるだろうけれど、私にはまず無理だ。

一見細身な彼だが、実際は鍛えられた筋肉の塊で見た目以上にウエイトがある。マルコを運ぶために他隊長を呼ぶ訳にもいくまい。仕方がない。ベッドに寝かせるのは諦めて、せめて瓶だけでも取り上げておこう、と手を伸ばした時だった。

ガシッと腕に衝撃を感じて、ビクッと身体が強張った。

驚いて見れば、たった今まで寝ていたはずのマルコが顔を上げ、私の手首を握っている。

「……あ、の…」

重そうな瞼から覗く目が、じっと私を見つめる。明かりを反射しているはずなのに瞳の中は仄暗く虚ろで、何故か背筋がぞわぞわとした。

「……勝手に入ってごめんね。書類をエースから預かってきたんだけど、ノックしても返事がなかったから入らせて貰ったの……」

ここへ来た理由を告げてもマルコは何も言わない。そんな彼にたじろぎながらも話を続ける。

「書類は机に置いたから確認しておいてね」

「…………」

「それと、さっき甲板で瓶を割ったんでしょ。隊員が心配してたよ。それなのに瓶を持って寝てるから危ないと思って今取ろうとしたんだけど……」

「…………」

「……驚かせちゃったみたいで、ごめんなさい。もう出て行くから」

「…………」

「……あの、マルコ……?」

マルコは先程と同様、手首を掴んだまま無言で私の顔を見ているだけだった。

まだ酔っているのか、状況整理がついていないのか。

確かにあれだけ飲めば、それもわかる。

実際、彼の呼気に混じる強いお酒の香りに私の頭までクラクラしてくるほど。

だけどこちらを見て動かないマルコは酔っている、というよりはどこか異様で、得体の知れない怖さを孕んでいた。

「……腕、放して……」

「……」

「ねぇ、聞いてる?」

「……」

「もう出て行くから」

「……」

「放してよ、マルコ」

「いやだよい」

ようやく反応をみせるマルコ。

だけど彼が発したのは「いやだ」と拒否するもので、私はその言葉に戸惑ってしまう。

付き合っていた七年の間、彼の口から「いや」と言う言葉を聞いたのはたった一度だけ。

それ以外は私のいうことを全部受け入れてくれた。

何を望んでも、何をねだっても。多少無理を頼んでも『ああ、いいよい』と、困りながらも微笑むマルコが好きだった。

……だけど、もう他人ということなんだろう。

突き離された気がして、ズキンと胸が痛んだ。

「放してよ……」

無理やり手を引くと、ぐっと握り込まれた。

負けじと私も手を振り払おうとするが、それは許さない、とでもいうように余計に力を込められてしまう。

「……アイツのとこへ行くのかい」

骨張った指が、ぐぐっと皮膚に食い込む。

「っ、痛い、放して、マルコ」

「アイツと付き合いだしたんだろい」

痛みに呻いても容赦なく手首を締め付けて、アイツアイツと抑揚のない声で繰り返すマルコ。

……彼は一体何を言っているんだろう。

抜け落ちた表情からは何も窺えない。

アイツと言われても、私には何一つ心当たりはなかった。