Novel

別れの果てに - 06

薄暗い倉庫の中。

腰を動かすたび、目の前で艶やかな黒髪が背中の上で揺れる。

でも、コイツは名前じゃない。

その事実が俺を萎えさせる。

固く目を閉じて、愛しい女を瞼に描く。

「…ん、あっ……」

黙れ。

「あっ、んんっ……はぁ、きもち、い……っ」

黙れよい。

せっかく名前を抱いてる気分になってきたのに、女の声が邪魔をする。

「────静かにしろよい。外に聞こえるだろい」

そう言って女を黙らそうとするが、無駄のようだ。

「あんっ、…だって、……マルコ、隊…長が、激しい…んだもんっ…!」

甘えた声でうるさく喘ぐこの女は、乗船当時から俺に言い寄っていたナース。

ずっと袖にして一時大人しくしていたが、俺と名前が別れたと聞き付け、またぞろしつこく付き纏ってきた。

だから、むしゃくしゃして言ってやった。

『髪を黒くしてストレートにしたら考えてやるよい』と。

言った通り、女は黒髪のストレートになって現れた。

実際のところ、そんなことしても付き合う気もなければ抱く気もなかった。髪型だけ真似しても、コイツは名前じゃない。名前にはなれない。俺が抱きたいのは名前だけ。

欲しいのは名前だけなんだ。

本当なら、今日が八年目の記念日だった。

この日はいつも名前を背に乗せて近隣の島に降り立ち、彼女の好きなシャンパンで祝っていた。一年間共に居れたことへの感謝のプレゼントを渡すと、名前は嬉しそうに微笑んで『ありがとうマルコ、大好きだよ』って抱きついて、その可愛い唇でキスをくれるんだ。

そうして朝まで甘い時間を二人で過ごし、翌日は島で一日中デートする。

毎年そうだった。

今年もそうだと信じて疑わなかった。

……なのに、名前は、いない。

俺に別れを告げ、平気な顔して過ごしている。

名前が傍に居ねェとしんどいよい』

縋ろうと伸ばした手を振り払い、俺が好きだと言った長い髪をバッサリ切り、色まで変えて……

俺はまだ、こんなに名前が好きなのに。

寝ても覚めても名前しか考えられないのに。

名前は俺のことなど、もうどうでもいいんだ。

その事実が、俺の心を蝕んでいく。

正直に白状すると、今日名前に声を掛けて貰えるかと期待していた。だけど名前は副隊長の仕事をテキパキとこなすだけ。俺の存在など端からなかったように、視線すら合わせない。

手を払い除けられた俺にはもう、話しかける勇気すら残っていないのに。

それが、酷くやるせなかった。

やるせなくて、記念日に恋人だった頃の名前の外見にしてきたこの女に手を伸ばした。

でも女が喘ぐたび、気持ちが萎える。

名前の喘ぎ方はこんな下品じゃない。

名前は恥ずかしそうに唇を結んで必死に声を我慢するんだ。だけど堪えきれなくて、吐息と一緒に洩れちまう。そんないじらしくて可愛い声で、お前みたいにわざとらしくねェんだよい。

……ああ、うるせェ。

このままコイツの声を聞いてると、通常の半分程の硬度しか保てないチンコも萎えてしまいそうだ。何とか維持しようと激しく揺さぶると、乱れて顔にかかった髪を女が掻き上げた。

名前もよく長い髪を掻き上げていた。

サラサラと流れるのが綺麗で、長い黒髪に指を差し込むと、『もう、また髪を触るの?』なんて嫌がる素振りをしながらも、大人しく俺の足元に座って心地良さそうに眼を閉じる名前が好きだった。

思わず目の前の女の髪を一房取り、口付ける。

だが、違った……

匂いも。質感も。手触りも。

名前とは似ても似つかない。

何もかもが、違う。

限界だった。

「悪ィな……やっぱり、無理だよい」

萎えたチンコがずるりと抜け落ちた。

部屋に戻り速攻でシャワーを浴びる。

女の感触全てを洗い流したかった。

泡立てたソープで身体中隅なく洗う。

風呂から上がると戸棚に向かい、並んだ酒瓶から度数の強い酒を取り出して煽った。

熱い液体が喉を焼き、食道を通って胃の中へ落ちていく。瓶から口を離して息を吐き出し、また煽る。

しばらくそれを繰り返していると、ふと侘しくなって酒瓶片手にふらりと外へ出た。

甲板に来るといつも通りの風景に安心する。

随所で小宴会が開かれ、皆馬鹿騒ぎに興じている。

どこに座ろうか視線を巡らせていると、先ほどのナースが俺を見つけて駆け寄ってきた。

「どうして途中でやめたんですか」

「一人で置いて行かれて寂しかったです」

「私と付き合ってくれるんですよね」

不満気に捲し立てる女にゲンナリする。

ああ、鬱陶しい。

話すのも億劫だった。

「お前ェとは付き合わねェよい」

それだけ言うと、女は「どうしてですか!?」と、目を剥いた。

「萎えて出来なかったから」

誤魔化すのも面倒で、ため息を吐きながら事実を告げると、女の唇がわなわなと震えた。

「っ、ひどい。言われた通り髪型まで変えたのに……っ」

顔を両手で覆い、女が走り去って行く。

近くにいたクルーが何事かと泣いてる彼女を振り返っていた。

これでも少しは悪ィと思ってるよい。

でも出来ないんだからしょうがねェだろい。

それに、黒髪にしたら考えるとは言ったが、付き合うとは一言も言ってねェ。

そもそも俺は、名前以外の女と付き合うつもりは端からねェんだよい。

手を出したのも『今日』だからだ。

はあ、と息を吐いて夜空を見上げる。

空には半分に欠けた月が浮かんでいる。

まるで俺みたいだ、と思った。

名前に別れを告げられてから、俺はずっと自分の半身をなくしたような感覚だった。

全てが空虚で味気ない。

女も抱けなくなった。

名前と別れてから、どんな女を前にしても兆しすらしない。一晩中しゃぶらせても無駄だった。

女なんか抱く気も起きなかったが、無気力な俺を心配した隊員に頼むから行ってくれと向かった娼館での話だ。

だからあのナースに勃ち上がったのは正直驚いた。所謂半勃ちで、顔を見ると速攻萎えるから背面位にするも、結局萎えちまったが……

ああ、気持ちが沈む。

やはり皆と飲むのはやめにして、波の音を聴きながら一人静かに飲もう。

そうすればこの鬱々した気分も幾分穏やかになるだろう。

そんな風に考えて後甲板に来た俺を待っていたのは、更なるどん底へ突き落とすような信じられない光景だった。

ドクン、と心臓が軋む。

半月が照らす淡い月明かりの下。

二月前俺に別れを告げた愛しい女が、和服姿の男の胸に抱かれている。

二人寄り添う姿に、胸が張り裂けそうだった。

痛ェ……

まるで海楼石の刃に貫かれたんじゃねェかってくらい痛む胸に手を這わすが、そこにはなんも刺さっちゃいなかった。

こんな光景を見るまで、名前が戻ってきてくれるんじゃないかと期待していた。

……俺は、馬鹿だよい。

名前はもう次の相手を見つけていたのに。

記念日にこんなもん見せつけるなんて、本当に残酷な奴だよい、お前は。

胸の痛みに耐えながらふらふらと甲板に戻ってきた俺は、一気に酒を煽った。ゴクゴクと飲み干し、空になった瓶をぐっと握り締めると、思いっきり床に叩きつけた。

ガシャン、と派手な音を立てて粉々に砕け散る酒瓶。飛び散る破片がいくつか足に刺さり、ボワッと再生の炎が上がる。

瞬間、甲板が水を打った様に静まり返り、大勢の視線が一斉に集まった。

「あぁ、悪ィ。手が滑ったよい」

へらりと笑って謝ると、一番隊の奴らが数人駆け寄ってきた。床板に散乱した破片を掃除すると言うので任せて部屋に戻り、俺はまた新しい酒を手に取った。

それを飲み干すとまた違う酒を引っ掴み、部屋中の酒を飲み干す勢いで、次々と酒を腹に流し込んだ。