Novel

別れの果てに - 05

『別れたい』

名前にそれを告げられたのは、二月前だった。

理由は告げられなかったが、聞かずとも分かっている。

名前の気持ちはとっくに俺の元を離れていたから──

一年前、各隊に副隊長を付けることになり、隊長会議が行われた。他隊の副隊長はすぐに決まり、一番隊には名前が抜擢された。乗船十四年目。中堅で腕も立つ名前の起用に皆は大賛成だった。

ただ一人、俺を除いては。

本来なら多数決で名前に決定だ。

しかし俺との関係を皆が考慮してくれた結果、名前本人の意向に委ねることになった。

打診は俺からした。だけどはっきりと、俺は『いや』だと伝えた。『頼むから、辞退してくれ』と。

理由は、昔名前に背中を任せていた頃、名前が俺を庇って大怪我を負ったことがあるからだ。海楼石の刃だった。そのせいで名前の背中には一生消えることのない大きな傷ができた。まだ付き合う前の話だが、以前から名前に惚れていた俺は、彼女に背中を任せたことを死ぬほど悔やんだ。

そのことは俺の胸に深い悔恨と暗い影を落とし、それ以降彼女を前線に立たすことはやめた。後方支援を命じられた名前は不服そうだったが、オヤジに頼んで辞令を出して貰った。

そうしてせっかく前線から遠ざけたのに、副隊長になれば当然前線に立つことになる。そんな危険な役目、名前にはして欲しくない。名前が負傷する姿は二度と見たくない。怖いんだ。血の気のない顔でベッドに横たわる名前の姿は今でも目に焼き付いている。

今まで何人もの仲間を失ってきた。

もし名前を……考えるだけで恐怖が胸を締め付ける。

それに俺は、これまでなんでも名前の望む通りに行動してきた。

名前のやりたいことをやり、行きたい場所へ行き、キスやその先だって名前が求めてくれるまで我慢強く待ち、自らの欲を抑えて精一杯大切にしてきた。

時に名前が俺を責めても、言い返したことすらない。

全てにおいて彼女を優先し、尊重し、全身全霊で尽くしてきた。

でも、名前は……

俺のたった一つの願いを拒絶して、副隊長に就任した。

酷いショックだった。

なぜ名前は俺の唯一の願いを聞いてくれない?

俺は彼女の願いを全て叶えてきたのに。

なぜだ、なぜだ、なぜだ。

その言葉が胸の中に渦巻き、消化しきれなかった。

顔を合わせたくなかった。

何日も名前から逃げ回り、それでもやり切れない思いを抱えていた俺は島へ飛び、酒を飲んだ。自棄になって強い酒に溺れ、酩酊して正体をなくした。

そして、気が付いた時。

俺は女と宿で朝を迎えていた……

やってしまった。

名前を裏切ってしまったのだ。

ああ、俺は何てことを……

クソ! クソ……!!

鏡に映る自分の顔を殴りつけ、俺は急いで船に戻った。

朝焼けの空を飛行しながら、頭の中に色んな言い訳が浮かぶ。だが、どれも使う気にはなれなかった。

名前に、嘘は吐きたくない。

しかしありのままを告げて、果たして許して貰えるのだろうか。

俺は名前が他の男に抱かれたら許せない。

例えそれが一夜の過ちでも、相手の男を八つ裂きにしても許せない。

愛してる。だからこそ許せない。

だったら、名前も俺を許せないのでは?

名前を失う…? 嫌だ、無理だ……

俺は名前が好きだ。心底愛してる。離れるなんて絶対に嫌だ。別れるなんて考えられない。頭に過ぎるだけで羽ばたく力をなくし、海に落下しそうだ。

どうすればいい。どうすれば……

モビーは、もうすぐそこだった。

あらゆる葛藤を繰り返した末、俺は事実を告げる選択をした。

真実を曝け出すのは怖い。

だけど、騙すのはもっと怖い。

信頼できない関係に先などない。

俺は名前に誠実でありたかった。

とにかく顔を見て謝るんだ。

平身低頭謝って、許しを乞おう。

名前が許してくれなくても諦めるもんか。

最悪ナニをちょん切られたっていい。名前と出来なくなるのは死ぬほど辛いが、名前と出来ないならこんなモノ必要ない。俺は名前しか欲しくない。他の女なんかどうでもいい。だから、傍にいられるならそれでもいいと思った。

それほどの覚悟を持っていた。

そうして俺が船の真上にたどり着いたとき、ちょうど空を見上げている名前を見つけた。

二週間振りに見る名前の姿。

凛と立つその姿は綺麗で、美しくて、同時に自分の愚かさに苛まれる。

俺は船上で旋回して腹を括ると船に降り立った。

名前……』

すまねェ。許してくれ、俺は、俺は……

近付いてそう言いかけたとき、名前は笑った。

『おかえりなさい、マルコ』

って、いつも通りに。

いや、いつもより優しい気さえした。

俺は今朝、極度に取り乱していて、シャワーさえ浴びずに船に戻ってきてしまった。

そのため、服や体に染み付いた女の匂いがプンプンしていて、自分でも酷く匂うほどだった。

当然、名前も気付いている。

なのに名前は何事もなかったかのように微笑み、女を抱いて朝帰りした俺を受け入れたんだ。

俺はそのとき、はっきりと分かった。

ああ、そうか……

そうなのか。

もう、名前の中に俺への気持ちはないんだ。

だから、名前はたった一つの願いも聞いてくれなかった。

だから、名前は女を抱いた俺を見て笑えるんだ。

だから、名前は何一つ俺を責めないんだ。

だから、名前は、名前は、名前は……

パリン、と耳の奥で何かが壊れる音がした。

こんなに好きなのは、俺だけだった──

全てが、どうでも良くなった。

それから俺は女を抱いた。

何度も。何度も。飽きるほど。

相変わらず、名前は何も言わない。

わざと女の匂いをさせて帰るのに何も、だ。

諦めにも似た感覚に、渇いた笑みさえ浮かばない。

名前は、俺なんか見ちゃいねェ。

触らせてもくれなくなった。

『別れたい』

『……わかったよい』

七年の関係が終わるのは、至極簡単だった。