Novel

別れの果てに - 04

吐き気がする。

地下で見た生々しい行為が、頭にこびり付いて離れない。

あのあとすぐ部屋に戻った私は、倒れるようにベッドに倒れ込んだ。

眠れば忘れるんじゃないかと目をつむるが、瞼の裏に絡みつく二人の姿がまざまざと蘇ってくる。そのたび胸がつっかえて、寝ていても気分が良くなることはなかった。

結局、一時間ほど寝転んでも症状がおさまることはなく、外で新鮮な空気を吸えば少しは改善するかもしれないと思った私はベッドを抜け出した。

甲板に出ると、陽はとっくに暮れていた。

代わりに、半分に欠けた月と無数に煌めく星々が闇夜を淡く照らしている。

空も海も落ち着いた静けさを湛えているが、大人数の荒くれ者を乗せたモビーディック号の甲板はそうもいかない。酒盛りをする隊員たちがそこかしこで溢れ返り、静けさなんてどこ吹く風。至る所でどんちゃん騒ぎを起こし夜の海を賑わせていた。

「おー! 名前! おまえも一緒にどうだ!」

名前じゃねぇか! 一緒に飲もうぜ」

皆の邪魔にならないように甲板の端を歩いていると、私に気付いた隊員たちが声を掛けてくれる。

「ん、ごめん。ちょっと風に当たりに来ただけなの」

「なら無理は言えねぇなぁ! 今度飲もうぜ!」

「ありがとう、また誘ってね」

「おう!」

声を掛けてくれた隊員に手を振って、ひと気のない場所を探して移動する。

後甲板の辺りまで来ると、随分静かになった。遠くから聞こえてくる喧騒も、打ち寄せる波が穏やかに掻き消してくれる。

やっと落ち着ける場所を見つけた私は、欄干にもたれて息をついた。

日中は暖かかったけれど、陽が落ちると少々肌寒さを感じる。部屋を出るときに羽織った白いシャツが、風に煽られパタパタとはためいていた。

本当なら、今日が八年目の記念日だった。

もしかして、マルコが声を掛けてくれるかも。

そんな風に期待していたけれど、彼はナースを抱いていた。

「ふふ……」

私は何にしがみついていたんだろう。

自分の愚かさが可笑しくて、ついを声を上げて笑ってしまった。

「……名前か?」

ふと波の音に紛れて、声がした。

聞こえた方向に目を凝らすと、樽の影にいた人物がすっと立ち上がり、こちらにやって来る。

「イゾウ……」

「一人か? こんなところでどうした」

暗がりから出てきたのは十六番隊隊長のイゾウだった。イゾウは私の顔を見ると、驚いたように形の良い眉を少し上げていた。

「ちょっと風に当たりたかったの。……イゾウこそ、どうしたの?」

「おれは、コレだよ」

ひょいっと両手に下げていた酒瓶と杯を掲げて見せてくれる。彼の和服の袖が蝶々みたいにひらひらと風になびく。

「あっちで隊の奴らと飲んでいたが、静かに飲みたくなってな」

イゾウは杯の中身を飲み干すと、トクトクとまた優雅に酒を注ぐ。そんな風に和服姿で小粋に酒を注がれると、ここが海賊船だということをつい忘れそうになる。

絵になるその姿を見つめていると、満杯になった杯をイゾウがずいっと差し出してきた。

「ほら、名前も飲めよ」

「私はいいよ。そんな気分じゃないし……」

「いいから飲めよ」

いつになく強引なイゾウ。

普段は一度断れば二度は勧めてこないのに、どうしたというんだろう。

狼狽えながら杯の中でゆらゆら揺れる液体とイゾウを交互に見つめていると、ふぅ、と細く息を吐き、イゾウが「すまねぇ」と謝ってきた。

「……ちょっと、動揺しちまった」

「え?」

意味が分からず首を傾げると、酒瓶と杯を欄干の上に置いてイゾウが私に手を伸ばす。

「泣いてる」

目元を親指で拭われて、私は声を失った。

自分が泣いてたなんて、これっぽっちも気付いていなかった。一体いつ泣いてしまったんだろう私は……

「……何が、あったんだ?」

イゾウが穏やかな声で尋ねる。

私はとっさに俯き、涙を拭った。

「……あ、別になんでもないの。これは……その、自分でも泣いてたことに気付いてなかったくらいだし、ホント気にしないで」

変なとこ見せちゃってごめんね、と誤魔化すように笑うと、イゾウは気遣わしげな視線を寄越すが、私がその視線から逃げるように目を伏せると、彼はそれ以上何も訊かず「そうか」とだけ呟いた。

そして、

「そういや、髪、切ったんだな」

ふわりと私の頭を撫でて、話題を変えてくれた。きっと話したがらない私の様子を察してくれたんだろう。

イゾウのこういう所がたまらなく好きだ。

私とマルコが別れたことは、当然彼の耳にも届いているだろう。それに、鋭い彼のことだ。きっと涙の理由も見当はついているはず。だけど決して無理には訊きださず、かといって突き放しもしない。

イゾウの外見は女性的で、見る者を圧倒する美貌の持ち主だけれど、こんなときは男性的で深い包容力を感じる。長年共にいてもイゾウはどこかミステリアスで孤高で年齢も不詳だけれど、凄くモテる人だということはわかった。

「……うん、前の島でバッサリやっちゃった」

「随分と思い切ったねぇ。雰囲気も全然違うから知った時は驚いたよ」

「切って、染めて、ウェーブ当てたんだ。ずっと長かったから、いい気分転換になったよ」

マルコを忘れるために、切った髪。

忘れることは出来なかったけど、気晴らしになったのは確かだった。

「よく、似合ってる」

「ほんと?」

「ああ。個人的には長い黒髪も好きだったが、その髪型も髪色も名前の雰囲気に合ってる。可愛いよ」

にこりと微笑むイゾウの方がよっぽど綺麗だけれど、褒められて喜ぶ単純な私。

たとえそれがお世辞でも、自分より綺麗な人に可愛いと言って貰えるのは純粋に嬉しかった。

「そういえばイゾウも黒髪だよね。下ろしたりしないの? 私、イゾウが髪下ろしてるところ見たことないや」

「寝る時と風呂以外は結えたままだからな。見せようか?」

「いいの?」

「ああ」

目を細めて頷いたイゾウが、髪を結っている紐をするっと外してくれる。そのまま髪に指を差し入れてほぐすと、黒髪がぱさりと広がり落ちた。と、同時に香油だろうか? ふわっと、とってもいい香りが立ち込める。深いけど甘すぎない上品な香り。イゾウにぴったりだと思った。

そして何より、仄かな月明かりの下で艶やかな黒髪を靡かせるイゾウの姿は、神秘的で、エキゾチックで、なんていうか、すごく、すごく……

「……綺麗……」

無意識に、そんな言葉が口をついてしまうほど美しかった。

「男に言う台詞じゃねぇな」

くつりと笑うイゾウが、風に流される髪を掻き上げる。それもまた切り取られた絵画のように美しい。こういうのを艶美とでもいうのだろうか。上手い言葉は見つからないが、とにかくとても素敵で。

「……触ってもいい?」

「あぁ、いいよ」

月光に照らされてつやつやと輝く黒髪があまりにも綺麗で、この手に触れてみたくなった。

了承してくれたイゾウにお礼を告げ、ゆっくりと手を伸ばす。

肩先から胸に落ちる髪を一房手に取り、親指で撫ぜる。丁寧に手入れされているんだろう。しっとりと、だけどサラサラと細い髪が指の間をすり抜けていく。絹糸のような、なめらかな手触りが心地いい。

ああ、きっと……

彼もこんな気持ちだったんだ。

私の髪が好きだった、マルコ。

いつも私の髪に触れていた、マルコ。

だけど、私の髪を愛おしそうに撫でていたマルコはもういない。

彼はその手でナースを抱き、彼女の黒髪に口づけていた。

「……っ、」

……だめ、だめだ。

思い出すな……

必死で考えまいと頭を振るが、耐えきれなかった。

ナースの細腰を掴み背後から彼女を抱いていたマルコの姿が浮かんでしまう。

重なる二人の映像が瞼に蘇った瞬間、

ぽろっ、と涙が頬を伝った。

「……名前…?」

「っ、ぁ……ごめっ……」

……最悪だ。

髪を触らせて貰っている最中に泣くなんて。

しかも自分から頼んでおいて。

折角話題を変えてくれたのに、これではイゾウが困ってしまうではないか。

なんて情けないんだろう……私は。

つまらないことで泣いて他隊の隊長に迷惑かけるなんて、副隊長の名が聞いて呆れる。

これ以上無様な姿を晒したくなくて、顔を逸らして立ち去ろうとした時だった。

滲む視界が翳り、広い胸の中に、私はいた。

「……いいから」

耳元で囁れる、優しい声。

「このまま泣けばいい。こうすりゃおれには見えないから」

頭と背中に回された腕に、力が込もる。

温かい腕と胸が私を包み込んでくれる。

「……ごめん……なさい」

目の前で泣かれたイゾウは気まずい思いをしてるに違いない。なのに彼は「謝ることじゃねぇよ」と、弱い私を強く抱きしめてくれる。

「……なぁ、名前。あんまり一人で思い詰めるな。お前が人に弱いところを見せられる奴じゃねぇのは分かってる。だけど、我慢なんてしなくていい。辛い時は泣けばいいし、苦しい時は叫べばいい。耐える必要なんてどこにもねぇんだよ」

「……っ」

「だからさっきみたいに自分で気付かない内に泣いちまうんだ、心がもう限界だって訴えてんだよ」

優しい声音に頭を撫でられ、ぱたぱたと涙が落ちてしまう。

確かにイゾウの言う通りなのかも知れない。

心が、もう限界なんだ。

マルコが女遊びをするようになってから、一人で我慢して、長いこと溜め込んで……

マルコを責めたことはなかったし、誰かに相談することもなかった。……出来なかった。仲の良いナースでもいれば女同士話せたかもしれないが、生憎そんな人はいない。他は皆男ばかり。心の内の弱さを晒すなんて、私には出来なかった。一人で抱えるしかなかった。

泣かないのだってそう。人前で簡単に涙を見せる女が、海賊船で強くなれるワケがない。私は強く在りたかった。オヤジを支える為に。マルコと肩を並べる為に。だから人前で泣くもんかと決め、マルコの前でも決して泣かなかった。弱い心を見せたくなかった。

それにもう、涙が似合う可愛い年でもないのだ。

なのに、こんなにも涙が溢れてしまうなんて。

「っ……ぅ……」

噛み殺せない嗚咽が漏れる。

そんな私の頭や背中を、幼子をあやすように撫でてくれる優しいイゾウ。

……もしも一人で悩まずにマルコと話し合っていれば、今とは違う未来が待っていたのだろうか。

考えても、答えは出ない。

ただ一つ確かなことは、すでに手遅れだということだけ。

マルコには、もう彼女がいる。

私の場所は、どこにもないのだ。

イゾウの背中に両手を回し、自らしがみつく。

拭いもしない涙が薄紫色の上質な生地に吸い込まれていく。イゾウは着物が濡れるのも厭わず、泣き止むまでその温かな腕で私を抱き締めてくれた。

イゾウの胸は、酷く落ち着いた。