Novel
別れの果てに - 02
「名前」
マルコと別れてひと月経った頃。
隊務が終わり、部屋へ戻ろうとした私はマルコに呼び止められる。
『隊長』と『副隊長』
一番隊のあなたと私。
顔は何度も合わせているが、面と向き合うのは久し振りだった。
一瞬何用かと身構えるが、要件はただの伝達事項で話はすぐに済んだ。
けれど、話が終わってもマルコは立ち去る素振りを見せなくて。
「あー、……元気かい?」
後ろ頭を掻きながら、弱々しく問う。
元気なんてあるはずがない。
私がどれほどあなたを好きだったか……
あなたは知らないから、平気でそう訊けるんだろう。
ひと月やそこらで忘れられるような、そんな軽い想いじゃなかった。
今だって、忘れようと必死にもがいている最中だ。
なのに、あなたは簡単に私の心をかき乱す。
「おれは正直、名前が傍に居ねェとしんどいよい……」
平然と、嘘を吐かないでよ。
昨夜また島へ飛んだでしょ。
副隊長の私が知らないとでも思ってるの?
ズキン、と何度も経験した痛みが、胸にぶり返す。
……私も男なら良かった。
そうすれば、マルコのように女性を抱いて寝て、ぽっかりと空いてしまったこの空洞を一時でも埋めることが出来るのに。
寂しい……
目の前のマルコを見ていると楽しかった頃の思い出が蘇り、鼻の奥がツンと痛む。
だけどマルコの前では泣かない。
そんな女々しいこと、私はしない。
ぐっと唇を噛んで耐えると、マルコがゆっくりと距離を縮めてくる。
一歩、また一歩と近付く足音。
「名前……」
少し掠れた声。
大好きなマルコのハスキーボイス。
心がざわざわと騒ぐ。
近づかないで……
頭はそう訴えるのに、マルコを求める心が、身体が、私をその場に縫い止める。
目の前で立ち止まったマルコが、私に向かって手を伸ばす。
その様子をまるで他人事のようにぼんやり見ていると、ふわり、と大きな手が私の頬を優しく包んだ。
……暖かい。
たくさんの仲間を守ってきたマルコの手。
少し前までは確かに感じていた温もり。
本当はこの手を取りたい。
あなたの胸に戻りたい。
今でも……
私は、こんなにあなたが好きなのに。
けれど。
パンッ、と、渇いた音を響かせて、私は彼の手を振り払う。
突然手をはたかれて、目を見開くマルコ。
固まるあなたにすっと背を向けて、私は自室へと戻って行く。
頬に触れた手からふわりと鼻をかすめた香り。
女性の、匂い。
急速に頭の芯が冷えて、正気に戻った。
今、彼の手を取っても何も変わらない。
痛む胸を押さえながら、自分にそう言い聞かせた。
部屋に入って乱暴に扉を閉める。
瞬間、堰を切ったように涙があふれた。
戸棚から取り出したテキーラをグラスに注ぎ、一気に煽る。
喉が焼けるようだった。
これはマルコのお酒。私がストレートで飲めるものじゃない。
だけど、飲まずにいられなかった。
もう一度テキーラを注ぎ、グラスを持って鏡台の前に座る。
霞む視界の先に見えるのは、涙でぐしゃぐしゃな自分の顔。
ゴシゴシと、手の甲で乱暴に涙を拭うと、瞼が赤く腫れた。
いつだったか、マルコが綺麗だと褒めてくれた黒い瞳は今は真っ赤に充血している。
もう一口お酒を飲んで、一つに纏めていた髪をほどく。
パサリと背中に落ちる、真っ直ぐな黒髪。
これもマルコが綺麗だと褒めてくれたものだった。
彼はこの髪が好きで、二人でいるときはいつも髪に触れていた。
サラサラと撫で、髪に口づけていたマルコ。
戦闘には邪魔だし潮風で痛むから手入れは大変だったけれど、マルコが触るからずっと切らずにいた。
でも、もういい。
切ってしまおう。
マルコの趣味に合わす必要はもうないんだ。
ぐっ、とグラスを掴み中身を飲み干した。
マルコと別れてから、しばらくは自分でも驚くほどスッキリしていた。
明るく前向きになれて気分も晴れやかだった。
なのに、ひと月経った今
じわじわと精神的にくる。
もしあのまま付き合っていれば、来月八年目の記念日を迎えていた。
毎年その日は島へ降りて、二人でお祝いしていた。
マルコの背に乗って近くの島へ降り立ち、じゃれ合いながら朝まで一緒に過ごして……
けれどもう二度と、あの幻想的な蒼炎に包まれて空を飛ぶことは無いのだろう。
胸の奥からせり上がる悲しみに、目を閉じた。
頬を涙が零れ落ちていく。
「マルコ……」
痛む胸をぎゅっ、と抑えてその名を呼ぶと、走馬灯のようにマルコとの思い出が脳裏を駆け巡る。
オヤジを海賊王に導く為、私とマルコは常に最前線で戦い続け、共に死戦を幾度もくぐり抜けてきた。
傷を負っても治るあなただから特攻する事が多くて。でも、いくら再生するといっても、砲弾が、切先が、何度もあなたを貫くのを傍で見るのは辛かった。
だから……
『背中は名前に任せるよい』
あなたがそう言ってくれた時、嬉しくて嬉しくて、私は一人隠れて泣いた。
そして、あなたに告白を受け入れて貰えたときは、天にも昇る気持ちだった。
ずっと、ずっと、好きだった人。
私の全てで愛した人。
こんなに愛せる人に出会うことは、もう二度とないだろう。
「……ねぇ、マルコ……私、まだマルコが好きだよ……好きで、好きで…苦しいよ……」
涙と共に零れる言葉は、誰の耳にも届かずに静かに溶けていった。
