Novel

大切なもの - 07

それは、二週間ぶりに聞く名前の……

おれが泣かせた恋人の、声だった。

「ねぇ、なにしてるの……」

背後の声に振り返ると、さっき下がらせた二番隊員の肩越しに名前がいた。

エースを心配した隊員が、名前をここへ連れてきたんだろう。

隊員はすぐに下がり、名前は戸惑いの表情を浮かべながら、こちらへ歩いてくる。

エースは名前に気付くと、ふっと覇気を消した。名前を気絶させないためだろう。拳の力も抜き、さっきまでおれに向けていた鋭い目付きと同じとは思えないほどの柔らかな瞳で、名前を見る。

名前は向かい合って立つおれとエースの隣までくると、ポケットから出したハンカチをエースに差し出し、おれの方を見る。

「……どうして、エースを殴ったの?」

真っ直ぐにおれを見る名前の顔を直視できず、俯いてしまう。

どんな顔して名前を見ればいいかわからなかった。

「……あー、あのさ、名前

おれが応えずにいると、ハンカチを受け取ったエースが言い難そうに告げる。

「……実はあの日のこと、全部マルコに話しちまったんだ……それで、ちょっと争った。言わないって約束したのに、悪かった。ごめんな、名前

ハンカチを傷に当てながら謝るエースに、名前はゆるゆると首を振る。

「いいの。いつか話さなきゃいけないと思ってたことだから、エースは気にしないで」

「……そうか。だったら、二人で話せよ。おれはもう仕事に戻るから」

はっきりと名前が告げると、エースは床に落ちたままになっていたテンガロンハットを拾い上げ、軽く叩いて深く被る。

「……ありがとう、エース。巻き込んじゃってごめんね。こんな傷まで作らせて……」

「いいんだ。これはおれも納得してる。それより、何かあったらすぐ言えよ。さっきは殴り損ねたけど、今度こそマルコを殴ってやるから」

エースはそう言い残すと、おれを一瞥して何事もなかったかのように去って行く。

静まり返る船尾。

遠くの方からクルーの騒ぎ声はするが、ここは波と風の音しかしない。

名前に謝らなければと思うものの、どう切り出せばいいかの分からなかった。

名前も押し黙ったまま。

流れる沈黙が、怖い。

何か話さなくてはと気だけが逸る。

なのに言葉は浮かんでこない。

かといって、名前から決定的な話をされるのはもっと怖くて、焦燥感に駆られたおれが必死で絞り出したのは。

「………………これ、ありがとよい。まだ持ってくれてたんだねい」

名前に会ったら話す口実にしようと懐に忍ばせていた、貝殻のケースの話だった。

間抜けにも、今じゃねェだろ感満載の、そんな会話しかできない自分を呪いながら貝殻のケースを渡す。すると、ケースを受け取った名前は「すぐに戻るね」と言い残し、どこかへ駆けて行ってしまった。

「……待って、エース」

名前が向かった先はエースの元だった。

エースが振り返ると、名前はケースの中の軟膏を指につけ、奴の口端の傷に塗り込んだ。

エースは間近に迫る名前に戸惑いながらも、背伸びして自分に薬を塗る名前を優しげな目で見つめている。

そんな二人の様子を、おれは遠くから複雑な気持ちで眺めていた。

やがて薬を塗り終えると、ケースをポケットに仕舞った名前に、エースが何かを話しだした。

表情は真剣そのものだ。

何を話しているんだろう。

まさか、『マルコなんかやめておれと付き合えよ』なんて言ってるんじゃないだろうか……

不安を掻き立てられる。

エースはこの船に乗船して以来、一途に名前を想い、報われないと知りつつ娼館にすら行かなかった。

一方でおれは、名前と付き合いながらバレなきゃ平気だと娼館に通い、好き放題遊んできた。

エースの方が名前を大切にするに決まっている。

……それでも、いやだ。

名前を誰にもやりたくない。

名前がおれの元から去るなんて、考えたくもない。

名前を裏切り、泣かせたのは自分なのに、名前を失うかも知れないと思うと、足元が崩れ落ちたように立っていられなくなる。

名前がいなくなるなんて、おれには無理だ。

名前が必要なんだ。

名前がいない世界でおれは生きられない。

眠れない。腹も空かない。息もできない。

おれが愚かだった。

他の女なんてもういらない。

名前しか欲しくない。

二度と裏切らない。

約束する。

だから、どうか。

おれを捨てないでくれ……

祈りながら、天を仰いだ。

果てしなく広がる空は、おれの胸中とは裏腹に、泣きたくなるくらい澄んだ青色をしていた。

ゆっくりと足音が近付いてくる。

名前が戻ってきた。

まだ顔を見れず足元に視線を落とすが、エースと交わした会話の内容が気になるおれは、堪らずに名前に問い掛ける。

「……エースに、何て言われたんだい」

「え?」

「いまエースに何か言われただろい。おれなんかやめとけって……そう言われたかい……」

俯いたまま訊くと、名前は言い淀みながら「うん……」と呟く。

「……マルコに嫌気がさしたら、おれのとこへ来いよ、待ってるからって……」

エースにそう言われたと、名前は気まずそうに答えた。

やはりそうだったのかと、おれは激しく動揺する。

名前がエースの元へ行くなんて、いやだ。むりだ。絶対だめだ。

そんなの耐えられない。

このまま名前に捨てられたら、おれはきっと死んでしまう。

だから恥も外聞もかなぐり捨て、地面に頭を擦り付けてでも名前に許しを乞おうとした。

誰に見られても構わない。

失いたくない

その一心で、名前の足元に跪いた。

「……名前、おれが悪かった。許してくれ……どうか、このとおりだ」

床に手を付き、ぐっと頭を下げる。

だが地面に付いた手を名前に取られ、土下座は叶わなかった。

「っ、やめて、マルコ。そんなことしないで」

「でも、おれはお前を傷付けた……」

やっと名前の顔を間近で見る。

二週間振りに見た名前は少しやつれた気がした。でも綺麗で……可憐で……おれの大好きな名前の顔だった。

その顔が、哀しげに歪んでいる。

「……そうだね。辛かった……」

「謝らせてくれ」

「…………うん。だけど、そんなことされても嬉しくないよ。それより、少し話がしたい」

名前はそう言うと、仕事に戻ったクルーが増えてきた船尾を移動して、おれを自分の部屋に連れて行った。