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大切なもの - 06

「……エース?」

思わず聞き返すと、サッチは頷く。

「でも不確かだからあとはお前で確認してくれ。あー、あとおれから聞いたとは言うなよ」

面倒ごとはごめんだからな、と言い残し、エビピラフを平らげたサッチは厨房の中に消えて行った。

……エースだったのか。

確かに名前とエースは仲がいい。

同じ隊の隊長と隊員として、二人一緒に居る所は当たり前のように目にしていた。

…………それに、エースが名前に秘めた想いを抱いているのも知っている。

本人は隠してるようだが、名前を見るエースの目を見ていればすぐにわかることだ。

だからあの日、若く一途なエースが暴走しないよう娼館に誘ったのだが、あの野郎────

食堂をざっと見渡すが、エースはいない。

さっき山盛りの料理を頬張る姿は見たが、平らげて出て行ったのだろう。

代わりに二番隊の奴らがいた。

そいつらに居所を尋ねると、エースは昼食後いつも船尾にいると言った。

そこで同じ隊の奴らと駄弁っているらしい。

教えてくれたそいつらに礼を言い、食堂を出る。

その足で船尾に向かうと、徐々に聞こえてくる笑い声。その中心に、エースはいた。

午後の柔らかな陽射しの中、空樽の上にどかりと座りこむエースは、周りを仲間たちに取り囲まれながら、マグカップの中の茶だかコーヒーだかを飲みながら楽しげに笑っている。

人の気も知らないで、いい気なもんだよい。

ひょっとすると、輪の中に名前も混じっているんじゃないかと期待するが、姿はなかった。

名前がいないなら遠慮することはない。

和やかなその雰囲気を切り裂くように、おれはズカズカと足を踏み入れた。

「話がある、エース。ついてきてくれ」

場が水を打ったように静まり返り、視線が集まる。

大勢の見物人に囲まれて話す内容でもない。

ひと気のない場所に移動するかとエースを呼びだすと、エースは笑顔を消しておれを見上げた。

「……マルコか。ああ、わかったよ」

どこか憮然とした態度。

睨まれている気さえした。

なんでお前に睨まれなきゃいけない、と苛つきを抑えていると、マグカップの中身を飲み干したエースが樽から立ち上がった。

「どこ行きゃいいんだよ」

怠そうに歩きながら、エースがおれの横をすり抜ける。

その時、ふわりと香りがした。

あの日の。

名前の首筋についていた匂いが、エースから。

瞬間、

カッと、頭に血が昇る。

気付いた時には、拳を叩き付けていた。

覇気を纏わせた拳を、エースの顔面に思いっきり。

モロに食らったエースが、派手に吹っ飛ぶ。

トレードマークのテンガロンハットがヒラヒラと足元に落ちる中、奴の体は積まれた木箱をなぎ倒していく。その衝撃で木箱がいくつか粉砕し、砕けた木片がうつ伏せに倒れるエースの上にパラパラと降り注いだ。

「……っ、いってェな!……、いきなりなにすんだよっ……!!」

口端から流れる血を手の甲で乱暴に拭い、エースが片膝をつく。

呆気に取られる二番隊の奴らを全員下がらせると、おれは悠々と吹っ飛ばされたエースの元へ歩いて行く。

そして、冷たく見下ろす。

「……お前ェ、名前に何した」

「っ、何、って……」

「二週間前だよい。名前から酒とお前ェの匂いがした。名前に何したんだよい!」

「……あァ、なんだ、そのことかよ」

エースは立ち上がると、血に塗れた口端を吊り上げ、鼻で笑う。

人の女に自分の匂いをつけといて、なに笑ってやがる。殺してやろうか。

もう一度拳を握り込むと、エースはおれのその手をガッと掴み、船に乗った頃のような、敵意剥き出しの鋭い目つきを向けてきた。

「────したのは、アンタだろ」

「はっ、なに言ってる。離せよい」

ぐぐっと、手首を押さえ付けてくるエースの手を振り解く。

今度こそ勢いよく拳を振り上げるが、放たれたエースの言葉に、ピタリと腕が止まる。

「……名前は見たんだよ。アンタが女とホテルに入っていくのを」

……なん、だって……?

……名前が見た……?

振り上げたままの拳が力をなくし、ストンと元の位置へと落ちていく。

焦るおれの脳内では、その日のことが再生されていた。

あの日、名前との約束をキャンセルして島へ降りたおれは、娼館へ行く前に酒が飲みたくて、まず酒場に向かった。

適当な店を選んで入ると、カウンターで女が一人飲んでいた。

綺麗な女だった。

明るめの茶色い髪は顎のラインで切り揃えられ、引き締まったウエストと程よい大きさの胸。長い睫毛に縁取られた大きな目は少し垂れ気味で、名前によく似ていた。

思わず女の隣に座り、口説いた。

普段ならしない。絶対にしない。

娼婦以外に手を出すのは、さすがに名前に申し訳ない。

だが、女の見た目がド真ん中で、魔が差したのだ。

女はすぐに誘いに乗ってきた。

落ち着いた見た目からは想像つかないほど甘えたがりな女は、その場でおれにしなだれかかり、触れたりキスしたりと戯れてきた。おれも満更じゃなかった。

名前に似た外見で、名前なら絶対にしない甘え方をする女に少し、いや、大分酔い痴れた。ホテルへ向かう道すがらも女の好きにさせ、腕を絡め何度もキスをせがむ女に応えていた。

…………つまり、それを名前に見られた。

嫌な汗がどっと噴き出す。

涼やかな海風が吹いているのに、シャツが背中にじっとりと纏わり付く。

「…………アンタ、言ってたよな。『知らなきゃ泣かない』って。なのに、なんであんな堂々と道端でイチャイチャしてキスしてるんだよ! ちっとは誰かに見られるとか考えろよ!! 名前、泣いてたんだぞ!」

拳を強く握り、怒りを顕にするエースの言葉が深く刺さる。

五年付き合って名前の泣き顔を見たのは、たった一度。

あの指輪を贈った時に、ポロリと綺麗に落ちた、あの涙だけだ…………

そんな名前が泣いていたことを知り、おれは今更ながら自分のしでかした行いに懺悔したくなった。

押し寄せる後悔が、胸をチリチリと焼いていく。

「……おれ、アンタが許せなくて、殴ろうとしたんだ。そしたら名前に止められた。慣れてるから大丈夫だって。アンタが娼婦買ってるのを名前は知ってた。でもアンタがあの日一緒に歩いてた女はどう見たって娼婦じゃねェし、キスまでしてたからちょっと驚いて泣いちゃっただけだって名前は……それよりお酒付き合ってエース、飲めばすぐに忘れられるから、って、涙ポロポロ溢れてんのに必死にその涙を堪えて、名前はアンタに貰った指輪をぎゅって握って笑って言うんだよ!!」

ガン、と鈍器で頭を殴られたような衝撃が走る。言葉も出ず、ただ、心臓だけがドクンドクンと大きな音を立てて軋んだ。

島から帰ると、名前はいつだっておれを優しく温かく迎え入れてくれた。

『おかえりなさい、マルコ』って

愛くるしい顔でにこっ、と笑っておれに抱きついてきた。

…………知っていたなんて、考えもしなかった。

「……だから、おれ言ったんだ。おれの部屋で飲もうって。泣き顔、誰にも見られたくないだろうから。でも、結局名前は飲もうとしなかった。アンタとの約束があるからやっぱりやめとくって。多分、酒に誘ったのもアンタに食ってかかりそうなおれを止めるためだったんだと思うよ。そんな名前におれが無理やり酒を飲ませたんだ。辛いんだったら飲めよって、マルコも好きなことしてるんだから、名前だけ我慢する必要はないんだって」

散々サッチと論じた話がでてくる。

サッチには反論したが、今は何も言えない。

言う資格すらない。

「……そんで飲み終わったあと、名前は自室に戻ったけど、寝る前にもう一度部屋に訪ねてきたんだ。もう大丈夫だから今日見たことはマルコに内緒にしてね、ってまた無理やり笑うんだよ。全然ちゃんと笑えてないのに、まだ、目が潤んでるのに……そうやって名前は強がるんだ。……堪らなくなって、つい抱き締めちまった。すぐに振り解かれたけどな……」

自分の右手を見つめて、エースはまぶしそうに目を細める。

その手に名前を抱き締めたんだろう。

「だから、アンタに一発殴られるのは我慢したけど、それ以上殴られる理由はねェ。次はこっちの番だ! 名前を泣かせやがって……っ、テメェだけは許さねェ!!」

覇王色の覇気が解放され、ビリビリと大気が振動する。

凄まじい闘気だが、いくらエースが本気で殴りかかってきても、簡単に避けられるくらいの実力差は、まだある。

でも、殴られてもいい気がした。

いや、いっそ殴ってくれ。

名前が受けた以上の痛みを、おれに与えてくれ。

エースは名前を抱き締めたその掌をぎゅっと握り、力を込める。

おれはただ突っ立って、エースの拳を真っ向から受けようと力を抜いた。

その時────

「なに、してるの……」

ピンと張り詰めた空気の中、柔らかな声が響いた。