Novel
大切なもの - 02
静まり返った街並み。
人影はもう無い。
ホテルに女を一人残し、支払いを済ませて外へ出ると、辺りはすっかり闇色に包まれていた。
────遅くなっちまったな。
甘えたな女がなかなか離してくれず、思ったよりも時間が経っている。
急いで船へ戻ると、甲板は昼間の喧騒が嘘のように消えていた。
普段なら、深夜まで起きて騒いでる奴らも島へ降りているのか、部屋に着くまで誰にも会わなかった。
静かに部屋の扉を開ける。
薄っすらと明るい室内。
おれの為に、ベッドサイドのランプを消さずにいてくれたんだろう。
名前は寝ているようだった。
部屋の入り口からその姿を視認して、おれはシャワールームに向かう。
着ていた服を洗濯カゴに押し込んで、軽くシャワーを浴びる。
ホテルでもシャワーは浴びたが、こうしないと服にこびり付いた香水の匂いが、また体に染み付いているからな。
適当な服を寝巻きにしてベッドへ近付く。今度ははっきりと寝ている名前の姿が目に入る。
二人で眠るために買った大きなベッドの端で、一人背中を丸めて眠る名前。
おれの場所を半分あけて眠るその姿に、少し胸が痛む。
名前を起こさぬよう息をひそめてベッドに潜り込むが、体重でベッドが軋み、その音で名前が目を覚ました。
「……ん、おかえり。マルコ」
「あ、あぁ……ただいま、名前」
思わず、どもってしまう。
女の痕跡は消したはずなのに、うしろめたさで焦りが出てしまった。
「遅かったね、大丈夫だった?」
「ああ、問題はないよい。それより今日は悪かったな、約束してたのに行けなくて」
「……ううん、いいよ。オヤジの命令は絶対だもん。気にしないで」
にこ、っと名前は笑う。
今日は名前と島へ降りる予定だった。
だがおれはその約束を『オヤジから特命を受けた』と嘘を吐き、破ったのだ。
そんなおれに優しく笑いかける名前に、良心がチクリと痛む。
大抵の女は約束を破ると、怒って、拗ねて、口を利かなくなる。たとえ本当に仕事でも簡単には許して貰えず、アクセサリーやバッグやらをプレゼントするまで機嫌は直らねェ。
実際、名前の前に付き合った女たちには、色々と買わされたもんだ。
だが名前はおれが約束を何度キャンセルしても、文句ひとつ言ったことはない。
物をねだられたこともない。
おれの立場を理解し、尊重してくれている。
「今度埋め合わせするよい。欲しいものを考えておいてくれ。次のデートで買ってやるよい」
「いいよ、マルコ。欲しいものなんてないから気にしないで」
「一つくらいあるだろい? 洋服でもバッグでもピアスでもネックレスでも。高くてもいいから、遠慮するなよい」
「…………ううん、本当にないの。マルコからはたくさん貰ってるし。それに、私にはコレの他に欲しいものなんてないから」
名前はそう言って、左手の薬指に光る指輪を撫でる。
「……そうかい、なら美味いもんでも食いに行こうか」
「うん、それなら喜んで」
おれの贈った指輪以外は何も要らないという名前が愛おしい。
そっと抱き寄せると、名前特有の甘い香りが鼻腔をくすぐる。その香りをもっと嗅ぎたくて、首筋に顔を埋めると、名前はスッとおれから逃げるように距離を取った。
…………避けられた?
そんな気がして、今度はキスするために近付くが、唇が触れる前に名前はするりとおれの腕の中から抜け出した。
「……ごめんなさい、マルコ。さっき、なかなか寝付けなくてまだ眠いの……それに、今日は少し体調が悪いみたいだから、もう寝るね。おやすみなさい」
言い訳のように言葉を連ね、名前は背中を向けて寝転んだ。
確かに、些か元気がないように見える。
寝不足のせいか、目が晴れてるし瞳も充血している。
いや、だが……それよりも、なんだ?
今の香りは……?
キスしようとした時、甘い名前の香りに混じって微かに感じた男物の香水。
どこかで嗅いだ匂いだ。
それに、わずかにアルコールの匂いも感じた。
別に、名前が酒を飲むこと自体そんなに珍しくはないが、あくまでそれはおれが一緒にいるときの話だ。
それ以外で名前が酒を飲むことはない。
特別な事情があるにしても、必ずおれに一言告げるはず。
なのに、おれは知らない。
「…… 名前。酒、飲んだのかい? 」
「…………」
返事が返ってこない。
いつもなら、おれの問いかけにすぐ応える名前が言葉を返さない。
不安が広がる。
ここは野郎だらけの海賊船だ。
クルーは皆おれと名前が付き合ってるのは知ってるが、それでもあわよくばと狙ってる野郎は少なくねェ。
さすがに手を出す馬鹿はいねェと思うが、酒が絡めば話は別だ。
酒に飲まれて欲に負けた野郎が、名前を襲わない保障はどこにもない。
いくら名前が二番隊の戦闘員であっても、純粋な腕力では男に敵わないのだ。
だから万が一の為、おれがいない場所で野郎と酒は飲むなとキツく言い付けてある。
名前も承諾していた。
それを、破ったのか?
「…… 名前、答えろよい……まだ、寝ちゃいねェだろい」
低い声が出る。
約束を破っておきながら返事もしない名前に苛つき、覇気が少し洩れる。
その覇気を敏感に感じ取ったのか、名前の体が強張った。
「……ごめんなさい。……少しだけ、飲んだの」
「誰とだよい?」
胸騒ぎを抑えながら、男の正体が知りたくて即座に訊き返すが、名前は背を向けたまま、またも答えない。
だが、問い質した瞬間名前の肩がピクリと揺れたのを、おれは見逃さなかった。
────その男と、何かあった。
とっさに、そう直感した。
でなければ、名前がおれに隠し事などするはずがない。
「名前!!」
強く叫び、手を伸ばす。
振り向こうともしない名前の肩に手を掛け、無理やりおれに向き直らせる。
力任せに引っ張ると、肩を掴まれた痛みに歪む名前の顔が目に入って。
その顔に思わず手を放す。
なのに、手が離れた瞬間もう一度おれに背を向けようと体を捻る名前。
人をコケにするようなその態度に舌打ちしたおれは、仰向けになった名前の腹の上に間髪入れず跨った。
