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その唇で、名前を呼んで - 02

「ほれ、目を覚まさんか」

ふいに耳元から大きな声が届き、意識が戻る。

まぶたを開けば、見知らぬ白髪のおじいちゃんが私の顔を覗き込んでいた。

一体誰だろう、この人は……

混乱する頭で、私は状況を探った。

確か、夜の散歩に出かけたあと、マルコから貰った青い布が強風に飛ばされた。そしてそれを掴もうとした瞬間に海軍の攻撃を受け、私は海の底へと沈んだはずだ。

それなら、ここは天国。このおじいちゃんは神様だろうか。と、わりと真剣に考えたが、目の前の人物はどれだけ凝視しても神様には見えなかった。

髪は短く刈り込まれているし、髭も想像よりもずっと短い。左目の横にはそれはそれは深い傷跡があるし、右手にはかじりかけの煎餅を持っている。まだ一度もお目にかかったことはないが、そんな神様はいないだろう。

「お前、どこからきた? なぜ海にいたんじゃ? 身体は平気か?」

私が目を覚ましたことに、わずかに息をついたおじいちゃんが質問で攻めてくる。でも私はそれどころではないのだ。生きているとわかった今、心の中はマルコで埋め尽くされている。

マルコたちがあの程度の攻撃でやられるわけはないが、自分が海に沈んだあとどうなったのかさっぱりわからない。マルコは今も絶対に私を捜しているはずだ。早く戻って安心させたいのに、ここがどこかもわからない。

「おい、聞いとるのか?」

私が周囲を注意深く観察する中、視界の端でおじいちゃんの眉間には深い縦皺が次々と生まれていく。

「だから、お前はどこからきた? なぜ海に……」

再びおじいちゃんが質問を繰り返していると、突然部屋の扉が開いた。姿を見せたのは若い男。男と共に室内に舞い込んだ少しひんやりとした風が、壁にかけてある白いコートの裾を微かに揺らした。その風から嗅ぎ慣れた香りがほのかに漂ってくる。潮の香りだ。ひょっとして、ここは海の上だろうか。

「あらら……何やってんの、ガープさん」

扉をくぐってきたのは、ひょろっとした背の高い男だった。間違いなくマルコの背丈よりも高い。長身すぎて顎の輪郭しか見えないほどだ。

その男は気怠そうな声を出しながら長い脚をゆっくりと──いや、だらだらと動かして部屋へと入ってくる。

「見てわかるじゃろ。この子と話しておるんじゃ」

「そりゃあ、まあ、わかりますけどね……。大丈夫ですか?」

「なにがじゃ?」

「だって……その子、猫でしょ」

張りのない風船みたいな声で指摘する男に、おじいちゃんは「は? なにを言っておるんじゃ?」と大木の幹のような太い首をゆっくりと傾げる。

男はしばらくその様子をじっと見つめ、「……ああ」と何かに気付いたように呟くと、呆れた表情で言葉を続けた。

「ついに、始まっちまったか」

はぁ、と男は残念そうにため息を吐く。

「……まあ、たまたま進路にいた白ひげ海賊団に手ェ出した挙句に大した戦果もなく、こっちばっか甚大な被害を被っちゃあ、ボケたくもなりますよねェ。センゴクさんにはまたどやされちまうし」

悪びれもなくそう言うと、男は手にしていたクリップボードを私のいる机に置いた。そして、おじいちゃんの肩を慰めるようにぽんぽんと叩く。その瞬間、バリバリと固い煎餅が砕けるような音が部屋中に響き渡った。

「なにを! この青二歳がっ!! わしはまだボケとらんわ!!」

額に青筋立てながら立ち上がったおじいちゃんが、男の頭に拳骨を叩き落とす。男に負けず劣らず背の高いおじいちゃんの大砲みたいな拳骨が、男の頭頂に激突する。ゴツッと鈍い音が響き「いってェー」と叫びながら男は頭を抱えて蹲まった。

「……はぁ、もう。なにすんですか、人がせっかくマジメに報告書を持ってきたってのに」

どこか気の抜けた口調で抗議して、男は蹲ったままおじいちゃんを見上げた。二人のやり取りに呆気に取られていた私だが、目線の高さが同じになってようやく気付く。男の顔に見覚えがあることを。

以前マルコが戦っていた海軍の人間だ。

すごく強かった。マルコと互角かそれ以上か。確か氷の能力を持っていたはずだ。

ガープという名にも聞き覚えがある。オヤジとマルコが会話している中で、何度かその名を耳にした。

「弟子のくせに失礼なこと言うからじゃ! 猫なことくらいわしもわかっとるわ。何を当たり前なこと抜かすんじゃと思っていたら、人をボケ老人扱いしおって。この猫は海で溺れておって、どこから現れたかも掴めん不思議な奴じゃから話しておっただけじゃ!」

「へぇ、って、あらら……その猫、不死鳥マルコの猫じゃないですか」

「なんじゃと」

「間違いないですよ。この間戦ったとき懐に抱えてたし」

くわっと目を見開いたおじいちゃんが太い腕を伸ばしてくる。思わず飛び退いた私は、毛を逆立てたまま寝かされていたクッションからピョンと床に飛び降りた。そして、男が閉め切らなかった扉から素早く脱出する。この人たちは海軍だ。マルコの敵だ。早くここから逃げなければ。

「あ、こら! 待て!」

背後からおじいちゃんが声をあげる。しかし、構わず部屋を飛び出た私は一瞬驚きに足が止まりかけた。なぜなら、部屋から続いているであろう廊下はなく、広がる甲板が目の前にあったからだ。

そこには、背中にカモメマークを付けた人がたくさんいた。みんな折れた柱や、破れた帆の修繕に精を出している。おそらくマルコたちに反撃された跡だろう。だが、それよりもなによりも、私は甲板の外に広がる光景に愕然とした。

見渡す限り、一面の海。

キラキラと、眩しいほどに輝く広大な海原。

……やはり、ここは海の上だった。

私は靴紐を結んでいた人のカモメマークを踏み台に欄干に飛び移り、目を凝らす。しかしモビーは見えない。逆側、船首、船尾、どこを見渡しても、モビーの影も、空を飛ぶマルコの姿も見つけられなかった。

絶望のどん底に突き落とされる。

私は前足から崩れ落ちた。

会いたい。マルコに会いたい。あの温かな胸に抱かれたい。

鳴きながら心の奥底で強く望んだとき、ふと、この先にマルコの気配を感じた。動物の第六感のようなものだろうか。船の影も形も見えないけれど真っ直ぐこの先、海のずっとずっと向こうに彼が佇んでいる気がする。彼もこちらを見て私を待ってる気がする。

一か八か、泳いで行ってみようか。泳ぎはマルコに教わったし、なんとかなるかも知れない。それに、私は海賊の猫だ。マルコたちに攻撃を仕掛けた憎い海軍の膝元にいるわけにはいかないのだ。

船尾の最先端に凛と立ち、冷たい海風を感じながら覚悟を決める。すうっと大きく息を吸い込み、私は海にダイブした。

マルコに会える希望と、たっぷりの酸素に満ちた胸を膨らませながら。

「バカもん! せっかく助けてやったのに海に飛び込む奴がおるか!」

いつまでも海面に届かないと思っていたら、おじいちゃんが私の首根っこを掴んでいた。

「離して! 私はマルコに会いに行くんだ!」

手足をバタつかせながらそう叫ぶが、私の口からは、にゃーにゃーと鳴き声しか出ない。

「海に落ちたらお前なぞ、一瞬で海王類の餌にされるわ」

「にゃー!!」

「どこへ行くつもりじゃった? 不死鳥の元か?」

「にゃー!にゃー!」

「それはだめじゃ、海賊はいかん」

「にゃっ!? にゃー!にゃーー!!」

降ろして欲しくてジタバタもがくが無駄だった。おじいちゃんは、にゃーにゃー喚き散らす私を抱えたまま元の部屋に戻り、扉を閉めた。この扉にはマルコの部屋にあったような、私専用の出入り口はない。こうされてしまえば、自力で脱出するのはもはや不可能だ。猫の手にドアノブはひねれない。

それなら外側から開いた拍子に逃げてやろうと企むが、おじいちゃんは部下たちに扉を開けないよう命じていた。その上、『扉を開けることを禁ずる。破る者は拳骨の刑に処す』と、筆で書いた看板を扉に立て掛ける徹底振りだった。

「にゃー」

「だめじゃ」

「にゃぁ」

「だめと言うておるじゃろ。猫撫で声を出しても海賊の元へは行かせん」

うるさく鳴いてもかわいく鳴いても、おじいちゃんは部屋から出してくれない。それでも食べ物や飲み物は用意してくれる。敵の施しなんて受けない!と最初は頑なに手を付けなかったが、空腹と本能には逆らえず、生きてマルコと会うために私は食べた。たまに勧めてくる煎餅には口を付けなかったが。

おじいちゃんと二人っきりの部屋。時々、氷の男だけが大した要件もなく平然と入り込んでくる。そのたび、私は脱兎のごとく逃げ出そうとするが、氷男のひんやりした手でひょいと捕らえられ、「じっとしときなさいよ」と小言を漏らされる。

でもそのあと自分もおじいちゃんに小言と拳骨を食らい、「いてェー、本当に容赦ねェなァ!」と、本気で痛がっているのかよくわからない声を上げるまでが、部屋の中で繰り広げられる一連の流れだった。

そんな日々が続いていたある日、船がどこかの島へ到着する。おじいちゃんは船内に海兵たちを残したまま、私を島へと連れ出した。

そこはのどかな港町で、水揚げされたばかりの新鮮な魚がたくさん並んでいた。それを見て、マルコがよく釣って食べさせてくれたことを思い出す。

今頃マルコはどうしているんだろうか。

会いたい。マルコに会いたくてたまらない……

彼の優しい笑顔を思い浮かべて耽っているうちに、いつの間にか港町の賑わいが遠ざかっていた。

おじいちゃんは街をさっさと素通りし、山道へと足を進めている。鳥のさえずりや獣の気配がするその道は、木々の間から差し込む陽光に照らされていた。