Novel
その唇で、名前を呼んで - 03
「久しぶりじゃな、エース。元気でやっとるか」
山頂付近の森、頑丈そうな建物の隣に並ぶ小屋が二つ。入り口の扉はどちらもないが、一方は不格好で、もう一方はしっかりと建てられている。
おじいちゃんは、そのしっかりとした小屋の中にいる子供に声を掛けた。
「なんだよ、ジジイ。ルフィならいま昼飯獲りに行ってるぜ」
「今日はお前に用があってきたんじゃ。こいつの面倒をルフィと二人でみてやれ」
「は? どっから連れてきたんだよ、その猫」
「海賊の元におった猫じゃ。性根を叩き直さんといかんからここへ連れてきた」
『海賊』と聞き、それまで私に鋭く向けられていたエースという子供の瞳が、わずかに丸くなる。海賊に何か思い入れや事情があるのだろうか。
言われてみれば、手元のナイフで削っている木の塊は髑髏の形に見える。マルコみたいに器用だなと再びマルコのことを思い浮かべていると、目線が急に低くなった。小屋の前に降ろされたのだ。
思わず振り返ると、おじいちゃんはニカッと白い歯を見せて「ちゃんと改心するんじゃよ」と私の頭をぐりぐり撫でた。
そして、エースという子供に「これ土産じゃ」と煎餅を袋ごと投げて渡すと、「じゃあ、ワシ急ぐから」と正義のマントを翻し、さっさと山道を降りて行ってしまう。
「おい、待て! クソジジイ!!」
子供がものすごい剣幕で叫ぶが、遠ざかるおじいちゃんの背中から返ってきたのは「ルフィにもよろしく言っといてくれ」と、まるで温泉にでも浸かりながら話しているような呑気な声だけだった。
もう一度子供が鬼気迫る声で叫ぶが、おじいちゃんは「これ以上遅れるとセンゴクがうるさいんでの」と振り向きもせず、片手をヒラヒラさせながら傾斜を下っていった。
突然、知らない子供と二人っきりになる私。
まさか、今日からここで生きていかなきゃならないのだろうか。
「……何だって、おれがこんなヤツ」
置き去りにされた私にチラリと目をやり、子供が舌打ちする。だけど、私だってとほほだ。憎い海軍の元から離れられたのは幸いだが、現在地もわからない。そのうえ、山にいる。マルコがいる海ではなく、山に。
山には獰猛な獣がたくさん棲んでいる。現にここまで登ってくる間にも唸り声や、腹を空かせた獣の気配を感じていた。おじいちゃんと一緒にいたから襲われることはなかったが、私が一匹でうろつけばすぐに誰かの腹の中だ。
港町には戻れない。
かといって歓迎されていないことをひしひしと感じる彼の小屋に立ち入ることもできず、私はその場でただじっと佇んでいた。
子供は舌打ちしたあと一言も発さず、手元のナイフを動かしている。風がそよぎ、木の葉と毛並みを揺らす。生ぬるい風だと思っていたら重苦しい雨雲が垂れ込め、すぐにぽつぽつ落ちてきた雨粒が土と草を濡らし始めた。
「……いつまでそこにいるんだよ。入っていいからこいよ」
段々と雨足が強くなってきた頃、子供が声を掛けてくれた。渋々といった風情だけど、声に反応して私が近付いても嫌な顔はしない。それどころか、小屋に入ると、文字は読めないが『仁義』と書かれたTシャツでさっと身体を拭ってくれた。
エースという少年。最初は怖いと思ったけれど、根は優しいのかもしれない。
「なァお前、海賊の元にいたって本当かよ?」
髑髏を彫る作業に戻ったエースが話し掛けてくる。私は彼の傍でくり抜かれてパラパラ落ちる木片を目で追いながら「そうだよ」と答えるが、彼の耳には「にゃー」としか聞こえていないだろう。それでもエースは話を続けた。
「おれはさ、十七歳になったら海へ出て海賊になるんだ。自由に、悔いのないように生きるためにな」
目線は手元のナイフに向けられたままだが、意志の強そうな瞳は真剣そのものだ。今まで私がマルコと共に見てきた島の子供たちの目付きとは全く違う。その黒い瞳にはこの世の様々なものを映してきたのだろう。闇も光も全て。
海は過酷で恐ろしい。だけど彼は──エースは、きっと名のある海賊になるんだろうなと、そんな予感がした。
「……にしても、ルフィのヤツ遅ェな。ちょっと見にいってやるか」
ナイフを鞘に戻しながらエースが立ち上がる。雨の中、傘もささず森へ入っていく彼のあとを、私もトコトコついていく。主がいない小屋に残ることは出来ないから。でも、ついてきたことをすぐに後悔した。その辺の草やキノコが踏み荒らされている。大きな獣が近くにいる証拠だ。エースもピリピリしているのが見てとれる。
獣の気配を探るが、雨のせいで五感がかなり鈍っている。匂いが嗅ぎ取れず、頼りの耳も容赦ない雨音に邪魔されてしまう。だけど、前を行くエースは何かに気付いたように突然「ルフィ!」と血の気の引いた声で叫ぶと、やにわに茂みの中へ駆けていった。その瞬間、生々しく何かを引き裂く音と雨音に掻き消されそうな悲鳴のような声が辺りに響いた。
私も慌ててあとを追いかけると、そこには鋭い爪を赤く染めた巨大な熊と、血を流して倒れている少年。そして、その少年を守るように熊の前に立ちはだかるエースの姿があった。
「ルフィ! しっかりしろ! ルフィ!!」
少年はピクリとも反応しない。雨粒に打たれる小さな体から流れる血液が、ぬかるんだ泥の上に広がっていくだけだ。傷は決して浅くない。
「グルルルル……」
熊が牙を剥き、威嚇しながらエースを見おろす。このままだとエースも危険だ。けれど彼は逃げようとしなかった。自分の何倍もある巨大な熊と対峙したまま、一歩も引かない。
「よくも、ルフィを……!」
エースが低く唸る。彼の怒りは凄まじく、小さな体から発せられる白い靄が不気味に立ち昇っている。ゆらゆらと、彼の内なる炎が激しく燃えあがろうとしているのが感じられた。
「グオオオオ」
熊の咆哮が荒々しく響き渡り、右腕を大きく振りかぶった。巨大な爪が頭上からエースに向かって振り下ろされる。エースはその爪から素早く身をかわして回避した。しかし、熊はそのまま倒れている少年に向かって再び爪を振り上げた。
だめだ……少年が殺されてしまう。
「っ、やめろ!! ルフィに手を出すなー!!」
叫び声と同時に、エースの体から何かが湧き上がった。それは目には見えない力だった。けれど確かに何かが解き放たれ、熊は右腕を振り上げたまま白目を剥く。硬直した巨体がずうんと音を立て、地面に倒れ込んだ。口からはぶくぶくと泡を吹いている。
この光景には見覚えがある。モビーで見た時と同じだ。覇気──そう呼ばれていた力だ。
「ルフィ!」
エースは少年の傍に駆け寄り身を屈めた。胸はかすかに上下しているが、危険な状態に変わりはない。血がドクドク出ている。マルコがいたら治してくれるのに……
「ルフィ、大丈夫か!? いま運んでやる」
エースの声は震えていた。ルフィの身体を抱え上げ、来た道を急いで戻る。私は私にできることを考え、ここへ来る途中で見つけたものを口に咥え、急いでエースのあとを追った。
「タダン! 開けてくれ! ルフィが……!」
小屋の隣に建っていた頑丈そうな建物の前でエースが叫ぶ。扉が勢いよく開かれ、中から現れた大柄な女性の瞳が、血まみれのルフィの身体に釘付けになった。その顔がさっと青ざめる。
「なんてこった……何があったんだい……!」
「それはあとだ、早くルフィを治療してやらねェと!」
ルフィをそっと床に寝かせると、エースは棚に向かいガチャガチャと音を立てながら必死に何かを探していた。
「傷薬はどこだ! ここにあっただろ!?」
焦りで声を震わすエースに、大柄な女性は額に汗を浮かべ、首を横に振った。
「すまねぇが、ちょうど切らしてるんだ。薬草も使い切っててな……」
「なんで両方切らしてんだよ!」
「しかたねぇだろ! こっちにも色々あるんだよ」
「おれが探してくる! ダダンはルフィをみててくれ」
入口で二人の会話を聞いていた私は、走り出そうとするエースの傍に駆け寄ると、口に咥えていたものを彼の前に置いた。
「お前、これ……」
エースは目を見開き、驚いた表情を浮かべる。だがすぐにその瞳は真剣になり、私からそれを受け取った。いくつあっても困らないだろうと思い、とってきたもの。マルコが毎晩の読み聞かせと共に繰り返し見せて教えてくれた、『薬になる植物大百科』百三十六項に載っていた薬草だ。この辺りは野草が豊富で他にも薬になる草はあったが、外傷にはこれが一番効くはずだ。
「エース! 早くしてやんな、これ以上血が流れたら本気で洒落にならねェ!」
「ああ、わかってる!」
やり取りを見ていたダダンの声に短く答え、エースはルフィの元へ駆け寄った。彼は急いで傷口を確認し、素早く薬草を揉んでその汁と葉を傷口に塗り込む。少し粘り気のある汁が傷口に薄い膜を張り、出血を抑えていく。
「大丈夫だ、ルフィ。これで少しは楽になるはずだ」
ルフィがかすかに目を開け、細く途切れそうな声で「エース……」と呼ぶ。エースはルフィの手をぎゅっと握り、力強く頷いた。
「おれがいる。絶対に助けるからな」
その言葉に反応するように、ルフィの呼吸は徐々に穏やかになっていった。葉に含まれる鎮静作用が効き始めたのだろう。私はほっと胸を撫で下ろす。エースも、苦しげに歪んでいたルフィの顔が安らかなものに変わったことに安堵したようだった。ダダンもその様子を見て、ふっとため息をつく。
「ひとまず、これで安心だな」
危機は脱した。ルフィはもう大丈夫だろう。エースとダダン。二人の表情に安堵の色が滲んだことを確認して、私は静かにその場を離れた。
開きっぱなしになっていた扉から外へ出ると、さっきまで降り続いていた雨はすっかり止んでいた。湿った土と草が、どこか落ち着く匂いを放っている。雲の切れ間から柔らかな光が差し込み、地面に溜まった雨粒をキラキラと反射させていた。葉に残る雫がぽた、ぽた、と静かな音を響かせる中、私はひとり深く息をつく。何か大きなことが終わったあとのような、不思議な心地だった。マルコも人を治療したあとは、いつもこんな気持ちになっているのだろうか。
「おい」
ふと、背後から声が聞こえた。振り返ると、そこにはエースが立っていた。少し疲れた顔をしているが、その瞳には安堵が浮かんだままだ。
「ありがとな。お前が持ってきてくれた薬草、すげェ助かった」
エースはそう言って、そばかすの散った頬をわずかに緩ませた。それから、手にしていた小さな包みを差し出してくる。
「これ、ダダンからだ。お前にお礼だってさ」
エースが包みを広げると、中から現れたものに私は思わず喉を鳴らす。見るだけでも涎が出てきてしまう。猫にとってなによりのご馳走、魚だった。
「おれにはこれだ。昼メシまだなんだろってダダンがくれた。ルフィは見ててやるからお前と食ってこいってさ」
エースはもうひとつの包みを解いて大きなパンを取りだす。私が魚にかぶりつくのを見て、エースもパンをかじった。雨上がりの空には、微かな虹が七色に輝いている。エースはあっという間にパンを平らげると、その頼りなげな虹を見つめながら、ぽつりと話し始めた。
「……ルフィはさ、誰にでも好かれるんだ。ジジイもダダンも、みんなルフィが大好きだ。でも……おれにはそんなヤツいねェ。ルフィがいなくなったら、おれはまたひとりだった…」
エースの瞳が悲しげに歪む。……ああ、そうか。エースにとってのルフィは、私にとってのマルコと同じ存在なのだ。ひとりぼっちだった私を拾ってくれ、ずっとそばにいてくれた大切な存在。マルコとはぐれてから、私はずっと彼を求め続けている。エースも同じように、ルフィを失うことを恐れているのだろう。
「……怖かった。ルフィまで…サボみたいにいなくなるんじゃねェかって……」
巨大な熊と対峙したときの姿からは想像もつかないほど、弱々しく告げられた言葉に胸が締め付けられる。エースは目を伏せ、唇を噛み締めている。わずかに肩も震えていた。サボというのが誰かはわからないが、エースはすでに大切な人を失っているのだ。まだこんなに小さな子供なのに……
私は「にゃー」と鳴きながらエースの足元に身体を擦り寄せた。少しでも彼の慰めになればと、優しく彼の足に触れ、自分の温もりを分け与えようとした。そんな私の様子に、エースは驚いたように目を丸くする。
「……お前、言葉がわかるのか? 薬草持ってきてくれたり、不思議なヤツだな」
エースはそう言って、私の頭をぐりぐりと撫でてくれた。その温かい手が、マルコのことを思い出させる。マルコよりもずっとずっと小さな手。なのに、その手は同じように温かく、そして優しかった。思わず心がじんわりと温まり、尻尾がふりふりと揺れてしまう。彼を慰めるつもりが、知らないうちに私もエースの存在に救われていたのだ。鋭い瞳の奥に寂しさを宿した、強くて弱いこの少年に。
それからというもの、エースは私を傍に置いてくれるようになった。小屋で一緒に丸まって眠り、ルフィの看病をする。ルフィの傷が癒えてからは、私のことを彼に話し、自然と三人で過ごす時間が増えていった。
ルフィは見た目通りの元気な少年で、子犬のような無邪気さでエースに絶対の信頼を置いている。エースも背中に飛び乗ってくるルフィを文句を言いながらも優しく受け止めたりと、口数は少ないものの、ルフィに対する愛情を深く感じられた。
そうして過ごす中でも、エースは引っ付いてくるルフィを巧みにかわしながら時折私を静かな山奥へ連れて行ったりもした。
そこでエースはぽつぽつとサボのことや、自分の生い立ちについて語り始めるのだ。ルフィとサボと兄弟になったことや、兄としてルフィには話せない弱音、胸の内を少しずつ私に明かしてくれる。そのたびに、私もマルコに会いたい気持ちや、彼がどんなにかけがえのない存在だったかを一生懸命伝えた。
けれど、きっとエースには「にゃーにゃー」としか聞こえなかっただろう。それでも、不思議と彼には私の気持ちが伝わっているように思えた。
そんな日々を過ごしながら季節は巡り、月日は瞬く間に流れていった。
そして、エースが十七歳を迎えたとき、彼は私を海に誘ってくれた。
「一緒にくるか?」と。
その言葉は、マルコが私を拾ってくれたときと同じで、私は少し泣きそうになった。
エースとルフィと過ごす日々の中でも、決して忘れることはなかった存在。私を拾い、名前をくれた大好きなマルコ。『名前』と呼んでくれた優しい声音は、胸の奥に今でもしっかりと刻まれている。
エースと共に行けば、いつかマルコに会える気がする。海の彼方で、マルコが待っている気がするのだ。
ただ、もうすっかり大人になった私を、マルコはわかってくれるだろうか。そんな不安が胸をよぎる。それでも、この旅の果てに大好きな人が待っているはずだと信じている。マルコは必ず私を待っている、と。
「こいよ、会いたいヤツがいるんだろ?」
エースが優しく手を差し伸べてくれる。山奥での会話が、やはり彼の心には届いていたのだ。嬉しくなった私は彼の瞳を見つめ、何度も「行く」と答えた。あの日、マルコに告げたときと同じように。
「ああ、わかった」
『にゃあにゃあ』と必死に返事をする私に微笑み、エースが船に乗せてくれる。
空はどこまでも晴れ渡り、懐かしい海風が優しく毛並みを揺らしていく。私の胸は期待と希望に弾んでいた。
どれほどの歳月が流れても、私の心にはマルコがいる。何百回夜を重ねようと、彼を忘れることはなかった。
「頑張れよー、エース!! 元気でなー、猫!!」
ルフィが元気に手を振る中、エースは静かに船を漕ぎ出した。穏やかな風が帆を膨らませ、果てしなく広がる海を進んでいく。その青さは限りなく無限で、私の心は自然とマルコの元へ馳せていく。
──きっと、この先には彼がいる。
目を閉じると鮮やかに浮かぶのだ。
両腕を広げ、駆け寄る私をしっかりと抱き止めてくれるマルコの姿が。その胸に飛び込んで「ただいま」と告げる瞬間が。
どれだけ遠回りしても、どれだけ時間がかかっても、必ずたどり着く。だから待っていてね、マルコ。
もう一度、その唇で名前を呼んでもらうその日まで──私は進み続けるから。
