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その唇で、名前を呼んで - 01
「お前、一人かい?」
誰もが気にも留めず素通りしていく中で、その人は足を止めてくれた。
冷たい雨が降る日だった。
凍えるような寒さに震えながら飢えた身体を丸め、このまま死ぬんだろうと全てを諦めて道端にうずくまっていた私。
もうどのくらいそうしていたのかもわからない。
そんな私に、その人はそっと傘を差し伸べてくれた。
「寒かっただろい」
そう言って腰に巻いていた青い布を引き抜くと、その人は私の頭を拭い、ふわりと首に巻いてくれた。そして「ちょっと待ってろ」と、傘を置いたままどこかへ行き、すぐに戻ってきたその手には温そうな飲み物が握られていた。
「これで、少しはあったまるだろい」
膝が濡れるのも厭わず屈み込むと、それを私に飲ませてくれる。ひとくち、またひとくちと、私は喉を鳴らして飲み込んでいく。
少し熱かったけれど、それはとても温かかった。じんわりと、喉元からおなかを温め、ぬくもりを身体中に運んでくれた。
涙がこぼれそうになった。
「……悪ィな、連れて行ってやりたいがそれは出来ねェんだ」
私が飲み終えるのを優しい眼差しで見守っていたその人が、静かに告げる。
「おれの家は海賊船でな、敵船に襲われることもあるし、命を失う危険もある。自分の身は自分で守らなきゃ生きていけねェ世界だ。そんな場所にお前みたいな小せェ奴は連れていけねェからな」
大きな手でそっと私の頭を撫でると、その人はもう一度「悪ィな」と目を伏せ、立ち上がった。
見上げる私から視線を逸らし、その人は歩き始める。雑踏の中に消えていく、大きな背中。雨の音が心臓の音に変わる。遠ざかる背中に向かって、私は声を上げた。
待って、行かないで、置いていかないで。
声にならない叫びが、心から込み上げた。
景色が歪んで見えるのは、雨のせいか涙のせいか。
あなたが立ち止まらなければ、このまま静かに終わると思っていた。だけど、知ってしまった。
優しさを、ぬくもりを、温かさを。
──もう、ひとりぼっちはいやだ。
しかし、力の限り叫んだその声は、雨音に掻き消されてしまう。けぶる視界に、その人の姿はもう映らない。しばらくひとり立ち尽くす。
濡れた地面をぼんやり見つめていると、青い布が風になびいて視界に入ってくる。行ってしまったあの人が首に巻いてくれたもの。私はその布に頬を寄せ、再びうずくまった。
身体を丸めて目を閉じる。
ずっとひとりでそうしてきたように。
傘に打たれる雨音が、徐々に大きくなっていく。雨足が強くなってきたんだろう。
その中に、ジャリッと土を踏みしめる音が混じった。
「……やっぱ、置いてけねェよな」
頭上に落ちてくる声。
驚いて目を開けた。その瞬間、ふわりと身体が宙に浮いた。
「一緒にくるかい?」
その人が、静かに問いかける。
優しい視線が私を柔らかく包み込む。
「さっきも言った通り過酷な世界だ。それでも、ついてくるかい?」
温かな腕の中。
汚れることも構わず、私を抱き上げてくれたその人の胸の中で、私は「行く」と声を上げた。
何度も何度も。
ただ死を待つばかりだったゴミのような私を拾い上げてくれたぬくもりに、ぎゅっとしがみついた。
「ははっ、わかった、わかったから。そんなにしがみ付かなくても、もう置いてったりしねェよい」
爪が食い込むほど強くしがみついているのにその人は引き剥がそうともせず、ひどく優しい目をして私の頭をぐりぐりと撫でてくれた。それから、「じゃあ、行くか」と、私を抱えたまま傘を差して歩き出した。
しばらく行くと、雨の匂いに潮の香りが混ざり始める。
やがて目の前に広がったのは果てしない海だった。海面には巨大なクジラ型の船が悠然と浮かんでいる。
その人は迷うことなく地面を蹴って船上に飛び乗ると、どこかの部屋へ足早に向かい、ノックをして中へと入って行った。
「なァオヤジ、コイツをモビーに置いてやってもいいかい?」
部屋の中ほどまで入って行くと、その人は私を腕から下ろした。
広々とした部屋。天井は果てしないほど高く、壁の棚にはお酒の瓶が所狭しと並んでいる。
ふわふわの絨毯を踏みしめながらキョロキョロしていると、部屋の中央に山がそびえていた。いや、よく見ると山ではない。仰天するほど大きな人が、ソファにゆったりと身を預けていたのだ。
「ほう、随分かわいいのを連れてくるじゃねぇか」
「ずっと道端にうずくまってて、放って置けなかったんだよい」
「そんな理由で拾ってくるとはな。てめぇと重ねちまったか? マルコ」
「なっ! そんなわけねェだろい、オヤジっ! おれはただ、こんな小せェ奴がひとりだと可哀想だと思って……」
その人が口ごもると、大きな人は三日月のような白いヒゲを揺らして「グララララ」と豪快に笑いだした。その途端、部屋全体が地震のようにぐらぐらと揺れ動いた。まるで大きな人の笑い声に共鳴しているみたいに。
「お前がそうしたきゃ好きにしろ、マルコ。ただし、面倒はてめぇで見ろよ」
「もちろんだ、オヤジ。ありがとう」
マルコと呼ばれたその人が、嬉しそうに微笑む。
私も嬉しい。嬉しくてたまらない。
もう、ひとりぼっちの寂しい夜を過ごさなくてもいい。ここにいてもいいんだ……
喜びに埋め尽くされ、私はその人──マルコの足にガシッとしがみついた。
すると、マルコは「おっと」と、バランスを崩しながらも屈んで、視線を合わせてくれる。そうして私の頭を優しく撫でながら、ニッと笑った。
「おれはマルコってんだ。お前、名前は?」
私は答えられなかった。名前なんてなかったから。あったのかもしれないが、私は知らない。名前を呼ばれたことも、それに応えた記憶もないから。
黙りこくる私を見て、マルコは「名前、ねェのか」と、小さくこぼした。そして、すぐに「だったら、おれと同じだな」と、くしゃりと笑った。
「おれも名前なんてなかったからな。マルコってのは、オヤジが付けてくれた名だよい」
『オヤジ』と言われ、ソファの人が反応を示す。傾けていた瓢箪みたいな徳利から口元を放し、にやりと引き上げる。
「どうだ? おれの付けた名前は」
「最高に気に入ってるよい」
「グララララ、そりゃ良かった」
この世の全てを掴めそうなほどの大きな掌が、マルコの頭をぐりぐりと撫でる。マルコが私を撫でてくれる時みたいな、ひどく優しい目で。
「よしてくれよい、オヤジっ! おれはもうガキじゃねェんだから」
「ばか言うな、いくつになろうがお前はおれのガキだ。それは変わらねぇ」
荒々しい手付きは乱暴なようで、とても優しい。いとおしむように、慈しむように、恥ずかしがるマルコを撫でていた。
「……まったく、オヤジには敵わねェな」
拗ねた口調だったけれど、俯くその顔は嬉しそうで、目の縁がほんのり赤くなっている。あの大きな手は、マルコにたくさんの愛情を与えてきたのだろう。たった一言で、マルコを安心させてあげられるほどの愛情を。
大きなオヤジは嫌がるマルコの頭を掻き回して髪をぐしゃぐしゃにすると、ゆるりと私に視線を向けた。
「コイツの名前はお前が付けてやれよ、マルコ」
「おれが?」
「お前が連れてきたんだ。お前が付けるのが道理だろ」
「……ああ、そうだな」
目を細めたマルコが私の顔をじっと見つめてくる。
あまりにも真っ直ぐな視線。
ピンと背筋を伸ばし、私も彼をじっと見上げる。
「お前の名前か。なんだろうな……」
自問しながら私の瞳を深く深く見つめ込むマルコ。心の中まで見つめられているような気がした。やがて時が止まったような静寂の中、マルコの唇がゆっくりと音を紡いだ。
「──名前」
それは、とても優しい響きだった。
マルコの唇から自然とこぼれ落ちるように紡がれた名前。耳に届いた瞬間じわりと溶け出し、全身を巡りながら温かな思いが満ちていく。
まるで、最初からその名前だったと錯覚するほどに、『名前』という名は私の奥深くに沁み込んでいった。
「今日から、お前の名前は名前だよい」
マルコが私に与えてくれた名前。
かけがえのない贈り物。
嬉しい。嬉しい。
泣き出したくなるくらい、嬉しい。
胸がいっぱいで何も言えなくて、私はマルコに飛びついた。
彼の首に腕を回して頭をぐりぐりと擦り付ける。マルコはそんな私を両手で受け止め、「気に入ったか?」と耳元で優しく笑った。
「いい名じゃねぇか」
喜ぶ私を見て、大きなオヤジが満足そうに再び部屋を震わせる。
マルコは得意げに「だろい」と私の頭を撫でて、また笑った。
こうして私を拾い、名前を付けてくれたマルコと船の暮らしが始まった。
マルコは忙しい人のようで、私にずっと構う余裕はなかったけれど、それでも時間が許す限り相手をしてくれた。
大きなオヤジと他愛ない話をするときも、食堂でご飯を食べるときも、仲間と馬鹿騒ぎしているときも。
マルコはいつも私をそばに置いて離さなかった。
時には彼が言っていた通り、海軍や他の海賊との戦いで危険な目にも遭ったが、そんな時でさえ彼は決して私をひとりにしなかった。
目の届かない場所に置くのは不安だと、私の身体を抱きかかえ、傷ひとつ付けないように守ってくれる。私はますますマルコに懐くばかりだった。
「まったく、マルコはとんだ女ったらしだな」
「違いねェ!」
「こんなガキさえ虜にしちまうんだからな」
仲間たちはマルコに引っ付き回る私の様子を見て、よく彼を冷やかした。そのたび、マルコは心外だと言わんばかりに反論する。
「おれは、こいつ一筋だよい」
「だから、そういうところだよ!」
「このたらしめ!」
そうして仲間たちの笑い声があがる中、彼の優しい手に頭を撫でられながら私は幸せに目を細めるのだ。
もちろん、彼の言葉を真に受けるほど馬鹿でもお気楽でもない。
でも、それで構わない。
彼が私を傍に置いてくれるなら、それだけで私は世界でいちばん幸せになれるのだから。
キラキラと輝く大海原を駆け巡り、仲間の笑い声に包まれ、マルコと過ごす時間。
そのどれもが、私に取ってかけがえのないものだった。
そんな日が、ずっと続くと信じていた。
その日は、朝から雨が降っていた。
冷たく降り続く雨は、昼頃には船体を揺らす激しい嵐に変わり、その影響でマルコはずっと甲板を駆け回りながら忙しく動き回っていた。
夜になってようやく海が少し穏やかになった頃、部屋に戻ってきて日常の業務やシャワーを済ませたマルコは、いつものように私に医学書を読み聞かせてくれた。
意味なんてひとつも分からないけれど、彼の膝に乗りながら、耳に心地よく響く彼の奏でる穏やかな声を聞くのが好きだった。
うっとりとその声に耳を傾けていると、流暢に読み上げていた呪文のような言葉が、徐々に辿々しいものになる。真上を見ると、普段でも眠そうなマルコのまぶたが今にもくっつきそうになっていた。
マルコの日常は極めてオーバーワークだ。
なのに、暇が出来ても休まず私の相手をしてくれる。それに加え、今日は嵐。豪雨に打たれ、暴風にさらされ、身体を酷使して疲れたんだろう。
だから本はいらないって言ったのに……
私はぴょん、と彼の膝から飛び降りると、ソファで船を漕ぐマルコをベッドに促した。
よほど眠いんだろう、普段は私が眠るまで傍に付いてくれるマルコだが、今日は大人しくベッドに入った。そして横になると、脇で見つめる私の頭を優しく撫で、「悪ィな、続きは明日読んでやるよい」とすぐに寝息を立て始めた。
でも、すぐにぱちりと目を開けて「名前も、早く寝ろ、よ……」と、語尾の『い』も言えず力尽きて、今度こそ夢の世界へ旅立って行った。
優しいマルコ。
大好きだ。
私はしばらく彼の寝顔を眺めてから、そっと部屋を抜け出した。
廊下を抜けて外に出ると、雨はもう上がっていた。寒さは少しあったけれど、荒ぶっていた波風もだいぶん落ち着いている。これなら少し出歩いても平気だろう。
そう判断して、私は普段は行かない夜の散歩へ出掛けることにした。
部屋にいると、足音を忍ばせても敏感なマルコが目を覚ましてしまうから。
今日くらい彼をゆっくり寝かせてあげたかった。
いつもより、ずっとずっと静かな甲板。
見張りが数名高い位置から暗い海を照らしているだけで、他は誰も姿を見せない。みんな昼の嵐で疲れ果てているんだろう。早く休息についたようだ。
私も普段ならベッドに潜り込んでいる時刻。だが、今日は違う。嵐の船酔いで寝込んでいたせいで、まったく眠くならない。
本来なら船酔いは眠れるはずないのだが、マルコが煎じてくれた薬のおかげで気持ち悪さはすぐに消え、ほとんど昼寝をしていたようなものだったのだ。
けれど、明日もまた早い。
船縁を一周したら部屋に戻ろうと決めて、私はゆっくりと歩き始めた。
時折吹きつける冷たく湿った風が、首に巻かれている青い布をなびかせる。
あの日、マルコが巻いてくれたもの。あれ以来、スカーフみたいに巻いて肌身離さず身に付けている。
マルコはもっと可愛い色のものを買ってやると言うが、私はこれが良かった。
マルコとの大切な絆だから。
これを付けていれば、私もマルコみたいに空を自由に飛べたらいいのに……と、そんな馬鹿なことを考えている時だった。
ふと、海の闇に溶け込む影が見えた。
ゆらりと波間に揺られながら、静かに近づいてくるなにか。なんだろう? 欄干に登り、私は目を凝らした。視力はそれほど良くないが、夜目は利くのだ。
闇の中、次第に浮かび上がるシルエット。それは、モビーに匹敵するほどの巨大船だった。
カモメのような旗印──海軍だ。見張りの人はまだ気づいていない。
早く知らせに行かなきゃ! そう思い、踵を返そうとした瞬間、突風がいきなり船上を駆け抜けた。鋭い風が首元の布を一瞬でほどき、青い布が夜空にぶわっと舞い上がる。慌てて手を伸ばす。
だが、その直後、突然船が爆発した。砲撃を受けたのだ。音もなく、海軍から。
轟音が大気を震わせ、船体が激しく揺さぶられる。立っていられないほどの衝撃に、青い布に手を伸ばす間もなく、私は暗い海へと投げ出された。
冷たい海水が身体を飲み込む。凍える寒さが全身を締め付け、海面に叩きつけられた衝撃に息が詰まる。
痛みに耐えながら、必死にマルコに教わった泳ぎを思い出すけれど、手足がいうことをきいてくれない。
船体は炎に包まれ、砲弾が次々と降り注ぐ。轟音が空気を裂き、激しい揺れが海を震わせている。
今頃、マルコは私を探しているだろう。ここにいるよ、と伝えたいのに、声が出ない。
戻らなきゃ、マルコを悲しませてしまうのに。先に寝たことを、後悔させてしまうのに。けれど、冷たい波に押し流され、身体はどんどん船から遠ざかっていく。
視界がぼんやりと薄れていく中、掴み損ねた青い布が、赤く染まった夜空を舞うのが見えた。マルコから貰った大切なもの。あれを巻いてくれた時の、あの温かな笑顔が浮かび、そして消えていく。
必死に手を伸ばす。でも、届かない。
力を失った身体は闇に飲まれるように、暗く深い海の底へ静かに沈んでいった。
