Novel
お酒に弱い隊長 - 02
夜になり、宴会の幕が開ける。
錨を下ろしたモビーディックの甲板にはたくさんの料理とお酒があふれかえり、煌めく星々の下、陽気な音楽と笑い声が響いていた。
お酒が飲めない私は宴会に参加するものの、料理を少し楽しんだあとは給仕を手伝うことが多い。特に頼まれた訳ではないが、みんな飲みたいだろうと勝手にやっていることだ。こういう作業も嫌いじゃない。普段接触のない隊員や隊長たちと交流出来るのは新鮮で楽しいし、意外な一面を垣間見ることができるから。
確か、イゾウ隊長と初めて会話を交わしたのも宴の席だった。食器を下げながら、彼の空いていたグラスにお酒を注ぐと「ありがとう」って優しく微笑まれて、それまで怖くて近寄りがたい存在だと思っていたから随分驚いた。そのあと十六番隊に異動になって、ある日の宴の夜、甲板で酔っ払って眠るイゾウ隊長を見つけた時には更に驚いたものだ。宴の席ではいつも顔色ひとつ変えずに飲んでいたから。てっきりザルだと思っていたのに、酒瓶を抱えてスヤスヤ眠る姿はあどけなくて可愛かった。
当時を思い出して頬を緩めていると、突然わぁ、と場内が沸いた。イゾウ隊長がいる方角からだ。彼は先ほど宴の席へやってきて、マルコ隊長、ジョズ隊長、ハルタ隊長と軽く飲みながらダーツで勝負している。誰が持ち込んだのか、壁にかけたボードの指定ポイントにダーツを投げ、外した人が大ジョッキに注がれたお酒を一気飲みするというもの。
酒豪の人たちとそんな勝負をするなんて、と最初こそハラハラ見ていたが、心配は無用だった。例えダーツといえど、的を射ることにかけてイゾウ隊長の右に出る者はいないようだ。マルコ隊長の腕も相当なものだけど、イゾウ隊長には敵わない。的を外すのはほとんどジョズ隊長。次にハルタ隊長で、たまにマルコ隊長が外すくらい。イゾウ隊長は、まさに百発百中。今の喚声も、彼が三本同時に投げたダーツが、それぞれ別々の指定ポイントに命中したから生まれたものだ。
この調子なら飲まされることはないだろう。安心して話す機会をこっそり窺っていると、ふいにイゾウ隊長がこちらを見た。バチっと視線がぶつかり、私は思いっきり逸らしてしまう。自分でもわざとらしく思うほどだったが、致し方ない。
だって、顔が一気に熱をもったから。きっとまた、熟れたトマトみたいな色になってることだろう。
深呼吸しても動悸はおさまらないし、とにかく一度落ち着かないと話もできそうにない。
私は空いたお皿を集め、その場を離れることにした。
食堂にお皿を返しに行くと、厨房からひょこっと顔を出したサッチ隊長が「いつもありがとな」と、笑顔を向けてくれる。顔が赤いことを心配されたが、追求されれば余計に赤くなりそうなので、私はそそくさと食堂を出た。
しばらく甲板を歩き、人気のない場所で立ち止まる。火照る頬をひんやりと撫でる潮風が気持ちいい。静かな波の音は心を鎮めてくれるが、イゾウ隊長は頭から消えてくれない。
意識しすぎているのはわかってる。いくら恋愛経験が乏しくても、たかが頬にキスされただけでこんなにも動揺するなんて自分でもおかしいと思う。でも、どうしても、イゾウ隊長が頭から離れてくれない。あの低い声も、指先のなめらかな感触も、唇の温度も。苦しくて、切なくて、今まで感じたことの無い感情が押し寄せてくる。考えれば考えるほど、胸の奥がぎゅっと締め付けられてしまう。
「どうしたらいいんだろう……」
一人呟いても、答えは返ってこない。
夜空を仰ぐと月があんまり綺麗で、なぜか泣きたくなった。
それからしばらく時間を潰して宴会場に戻ると、ダーツは既に終了していた。今度はカードゲームで盛り上がっている。マルコ隊長は輪の中でカードを捨てているが、イゾウ隊長の姿はない。周囲にもいない。キョロキョロしていると、私に気付いたマルコ隊長がカードを置いて歩み寄ってきた。
「イゾウと話せたかい」
「いえ、話そうと思って捜しているんですが……」
周りを見回しながら答えると、マルコ隊長が情報をくれた。イゾウ隊長はあのあと連続で的を外し、立て続けにジョッキの中身を飲み干したそうだ。その後、席を離れたと。
あの調子なら負け知らずだと思っていたが、飲みながらプレイしていたし、やはりお酒が入ると集中力が鈍るのだろう。酔っているなら早く捜索に行かなくては。
「じゃあ、私はイゾウ隊長を捜しに行きますね」
酔っ払ってまた寝てるかもしれませんし、と使命感に駆られた私が口にすると、マルコ隊長は何故か苦笑を浮かべた。なんで笑うんだろう。変なことを言ったつもりはないんだけど。
「いや、気にするな」
疑問符を浮かべる私の背中を、大きな手がポンと押す。そのまま行ってこいと笑顔で手を振るマルコ隊長にペコっとお辞儀して、私は再び宴の場を離れた。
いつもの場所にいなければ部屋まで行くつもりだった。しかし、イゾウ隊長はこの間と同じ場所で寝ていた。毎度のことながら、ここで寝るなら部屋まで戻ればいいのに。そう思いつつ、やはりその寝顔に見とれてしまう。
……本当に綺麗な顔だ。切れ長の瞳は閉じられると目尻が少し垂れていて、薄く開いた唇がなんとも色っぽい。呼吸に合わせてゆっくり上下する喉仏も、襟ぐりから覗く白い肌も見ているだけでドキドキする。
イゾウ隊長の寝顔をこうして盗み見ることは、私の密やかな楽しみでもあった。普段厳しい顔をしている彼の、こんな無防備な姿を間近で見られるのはきっと私だけだから。
声を掛ける前にもっとじっくり見たくて近付く。起こさないよう静かにしゃがみ込んだその瞬間、彼の瞼がパチリと開いた。
「ひゃぁっ!」
驚きすぎて喉の奥から変な声が漏れる。だって心の準備はまだ出来てない。黒い瞳に射抜かれた私はここに来た理由も忘れ、反射的に逃げを打つ。が、それは叶わなかった。イゾウ隊長の腕が素早く腰に回り、私を引き寄せたから。目の前には彼の顔。その近さに、息を飲んだ。
「つかまえた」
唇が耳たぶに触れ、低く甘い声が吹き込まれる。ドクン、と心臓が大きな音を立てる。
「な、なんで……」
「逃げられると、つかまえたくなるだろ」
クスッと笑う彼の顔が甘えるように私の肩に乗る。吐息が首筋をくすぐり、身体が震えてしまう。
「っ、は、離してください……」
掠れる声で懇願するが、イゾウ隊長は離してくれない。それどころか、逆にぎゅうっと強く抱き締めてくる。
「離したら、名前はまた逃げちまうだろ」
図星を指されて狼狽える。いや、逃げるつもりは毛頭ない。謝りに来た。だけど彼の手が離れた途端、私の身体は心情に反して一目散に逃げてしまうだろう。イゾウ隊長の匂いとか、体温とか、とにかくもう全部が近すぎて、どうすればいいのかわからない。
「もう、来ないと思ってた」
ぽつりとこぼれ落ちる声。寂しげなその響きにそんなことはないと言おうとしたが、二度も逃げた身としては否定のしようもなかった。
「……すみませんでした」
私は謝罪の言葉を告げる。
「どうして、名前が謝るんだ?」
「倉庫で助けていただいたのに、私逃げてしまって……」
ここへ来た理由。倉庫で片付けもせず飛び出したことをお詫びすると、イゾウ隊長は「そのことか」と呟き「悪いのはおれだ」と零した。
「名前が逃げたくなる真似をしちまったからな」
自嘲気味に笑うイゾウ隊長に、きゅっと胸が締め付けられた。私を抱く腕の力が緩む。そっと見上げれば、彼の瞳が間近にあった。夜と同じ色の、深く黒い瞳。思わずその瞳に吸い込まれると、薄い唇がわずかに持ち上がった。
「やっと、おれの顔を見たな」
ふっと微笑み、髪を撫でられる。見透かすような言葉にドキリとして、私はまた俯いた。
「なぁ、名前」
しばらく髪を梳いていた指先が、そっと滑っていく。髪から耳、そして首筋から輪郭をなぞり、顎を持ち上げる。
「おれにキスされて、いやだったか?」
至近距離で覗き込まれ、私はその瞳から目が離せない。イゾウ隊長の顔が視界いっぱいに映り、喉の奥がきゅっとしまる。嫌なわけがない。イゾウ隊長にキスされて、嫌なわけがなかった。
でも、酔ってしただけのことなら。
戯れにしたことなら。
「……どうして、あんなことをしたんですか? もし酔ってしたことなら……」
「酔ってねぇよ」
言葉を遮り、イゾウ隊長が強く否定する。
「あいにく、酒には強いんだ」
加えられた言葉に、頭の中がこんがらがる。
──え? どういうこと? 酔っ払って眠るからいつも私が捜しに行ってたんじゃ……?
「名前が起こしに来てくれるから、わざと酔って寝たふりしてた」
ニッと少年のような笑みでそんな告白をされる。
「まあ、あの日は名前を待ってる間に本気で眠っちまったけどな」
と、笑って続けられても私の衝撃は相当なものだった。本気で冗談を言ってるのだと疑りの目を向けるが、立て続けに飲んだと聞いた割に、今も酔ってる感じはしない。
それじゃあ、まさか、本当に……?
信じられないと思いながら、どこか点と点が繋がったような気がした。何度諌めてもイゾウ隊長が部屋まで戻らない理由も、マルコ隊長が苦笑いを浮かべていた理由も。
イゾウ隊長がお酒に弱くないなら、彼と付き合いの長いマルコ隊長がそれを知らないはずがない。つまり、マルコ隊長も……
「……か、からかっていたんですか?」
「まさか」
「だったら、どうしてそんなこと……」
「そうでもしないと、名前はおれと二人っきりになってくれないだろ」
ぐっ、と言葉に詰まる。
やっぱりイゾウ隊長は私の態度を見抜いていたのだ。さっきの彼の言葉が、確信に変わる。
頬にキスされる前からずっと、十六番隊に移動する前から、私はイゾウ隊長の顔がまともに見れなくなっていた。多分、初めて微笑まれたときからずっと。目が合うだけでどうにかなりそうだった。でもそんなこと知られたくなくて、必死に平常心を装っていたのに全部バレていたなんて。きっと、寝顔を見つめていたことも気付いていたんだろう。あまりの恥ずかしさに、両手で顔を覆い隠す。
このまま消えてなくなりたい……
だけど、その手はあっけなくイゾウ隊長に奪われてしまう。
「答えてくれ、名前」
私の両手を片手で拘束したイゾウ隊長の顔が、再び近付いてくる。ひたりと見据えてくる瞳。鼓動がどんどん加速する。
「キスされて、いやだったか?」
吐息交じりの囁きに気が遠くなる。助けを求めようにも、周りには誰もいない。宴会場の方から騒めきが聞こえてくるだけだった。
「答えないなら、次はこっちにしようか?」
ふに、となめらかな指先が唇に触れる。ゆっくりとなぞりながら、距離を縮めてくる彼の顔。疑問系なのに質問じゃなかった。言わないならキスする気なんだ、彼は。このままじゃ本当に唇がくっくいてしまいそうで、私は慌てて口を開いた。
「……いや、じゃ…なかっ、……んッ!」
言い終わる前に、言葉ごとイゾウ隊長に飲み込まれる。何かを求めるように何度も唇を重ね、薄く開いた隙間から彼の舌が侵入してきた。
甘くて微かなお酒の香りが鼻腔を抜ける。柔らかな舌が歯をなぞり、私の舌を絡めとった。
「んぅ、っ……」
ぞくりとしたものが背中を駆け抜けていく。熱くて溶けそうな舌が口内で動くたび、頭の芯が痺れるようだった。逃げなきゃと思うのに、両手は掴まれたまま。抵抗しようにも、イゾウ隊長はビクともしなかった。
最後にちゅっ、と音を立てて唇が離れていく。
「っ、……ちゃんと、答えた、のに……」
酸欠で頭がクラクラする。涙の滲んだ瞳で見上げると、彼はクスリと笑って私の頭を撫でた。
「悪い、待ちきれなくてな」
「……ひどい、です」
「でも、ちゃんと言ってくれて嬉しかった」
イゾウ隊長は乱れた私の前髪を横に流し、おでこに軽く口付ける。
「このまま、押し倒してもいいか?」
「……っ!!」
頭はいまだ混乱を極め、正常な判断は出来ていない。だけど片隅とはいえ、ここは甲板。なにを言い出すんですか! と慌ててかぶりを振る。
「だ、だめです! だめに決まってます! こんな場所で……! そもそもキスだって初めてだったのに……!」
勢い余ってカミングアウトする私に、イゾウ隊長は「へぇ」と嬉しそうに眉と唇を持ち上げる。自重してくれるのかと思いきや、離れた唇を再び、ちゅっ、ちゅっ、と食むようにくっ付けてくる。
「嬉しいねぇ、初めてだったのか。そんなかわいいこと言われちゃ、抑えるのは厳しいな」
「やっ、ちが、そうじゃなくてっ、! んっ、こんな……っ、んっ、誰かに見られたら、んっ、どうするんですか!」
「見せつけてやればいいだろ。名前はおれのもんだ、ってな」
「な、なにを言ってるんですか……っ!!」
驚きで顔からボッと火を吹く。大人の男の人ってすごい。どうしてこんなことをサラリと言えるんだろう。私はキスでいっぱいいっぱいだし、イゾウ隊長とこんな展開になるなんて夢にも思ってなかったのに。このまま本当に押し倒されたらどうしよう。五月雨のようなキスを受けながらドギマギしていると、イゾウ隊長は意外にもあっさりと身を引いてくれた。
「まぁでも、さすがにこれ以上は無理だな。誰が見てるかわからねぇし」
くつくつと笑いながら、イゾウ隊長が私の背後に視線を向ける。誰もいなかったはずだけど、誰かいるのだろうか。つられて振り返るが、やはり人影はない。暗闇が広がっているだけだった。
「じゃあ、戻るか」
そう言って立ち上がると、イゾウ隊長は私を立たせ、手を握ったまま歩き出す。恋人のように繋がれた手にドキドキしながら後ろをついていくと、彼がふいに立ち止まり、「名前」と私の名を呼んだ。顔を上げると、彼のキスがそっと頬に触れた。その唇が、ゆっくりと耳元に寄せられる。
「続きは、部屋でな」
甘くとろけるような囁きに、私の頬は燃えるように熱くなるのだった。
