Novel
お酒に弱い隊長 - 01
夜も更けたモビーディック号の甲板はさながら宴会場のようだ。
いつもながら盛況だなぁと見渡していると、ふとイゾウ隊長の姿が消えていことに気が付いた。どこへ行ったんだろう。さっきまでみんなと飲んでいたはずなのに。
しばらく待っても帰ってこない。
ということは、おそらく……
私はやれやれ、と思いながら立ち上がると、馬鹿騒ぎしている男達の間をすり抜けて彼の捜索を始めた。
イゾウ隊長はその風貌からべらぼうにお酒に強そうに見えるが、実は弱い。放っておくとすぐにその辺で寝てしまうのだ。ゆえに隊の中で唯一お酒を飲まない私が介抱役に回っているのだが……さて、今日はどこにいるのやら。といっても、だいたい目星はついている。船内に続く階段の踊り場か、その手前の扉付近。大抵どちらかにいるはずだ。
……ほら、やっぱり。予想は的中。イゾウ隊長は船内へ続く扉の近くで眠っていた。木箱に背中を預けながら座ったままの姿勢で。ここで寝るなら部屋まであと少し。戻って眠ればいいのに、何度諌めてもこれなんだから。私はため息まじりに座り込み、イゾウ隊長に声を掛ける。しかし、目は覚さない。いつもは一度呼び掛ければ起きるのにどうしたものか。思案しながら寝顔を眺めれば、その美貌につい見入ってしまう。
切れ長の瞼に品よく通った鼻梁、紅が似合う薄い唇に細い顎のライン。本当に整った顔立ちをしている。月の光を弾く艶々の黒髪も色っぽく肩にかかり、眠っていれば女性に間違われることもあるだろう。だけど、普段の彼は女性に間違われるどころか、男性よりも男性らしい。黒い瞳は鋭い光を放ち、纏う雰囲気もどこか威圧的で近寄りがたさを醸し出している。
さすがは泣く子も黙る白ひげ海賊団の隊長だ。だが、こんな無防備な姿を見ると可愛らしく思うから不思議。いつまでも眺めていたくなる気持ちを抑え、そっと肩に触れる。すると、ピクリと揺れた瞼がうっすらと開いた。まだ半分夢の中にいるような瞳が、ぼんやりと私を映し出す。
「イゾウ隊長?」
呼び掛けてみるが、まどろんだ眼差しが見つめてくるだけ。返事はない。いくら酔っているとはいえ、そんなに見つめられると恥ずかしくなってしまう。ただでさえ端麗な容姿をしていらっしゃるのに。起き抜けの熱っぽい瞳で見つめられれば鼓動が跳ね上がってしまうのは、もはや自然の摂理というものではないだろうか。海賊とはいえ、私も年頃の女。人並みの感性は持っているのだから。
「こんな場所でお休みになると、風邪を引いちゃいますよ」
これ以上見つめられれば、私の心臓がもたない。コホン、と咳払いをこぼし、胸なんて高鳴っていませんが? と平静を装った表情を貼り付けて言うと、紅を引いた唇がゆっくりと弧を描いた。
「かわいいな、お前は」
……へ? 今なんとおっしゃいましたか?
聞き間違いでなければ『かわいい』と聞こえたような。いやいや、おそらく空耳だ。まさか、美の化身であるイゾウ隊長が凡人中の凡人である私に『かわいい』なんて言うはずがないだろう。何か別のワードを聞き間違えてしまったんだな。ここは波の音がさざめいてるし、酔っ払いの喧騒も聞こえてくるから。
懸命に自分を納得させるが、どんどん顔が熱を持つ。勘違いかもしれないのに意識するのがひどく恥ずかしい。視線を逸らすと、ふいに大きな手が頬に触れた。ひんやりとした指先が、頬から輪郭を滑り落ちていく。
「……っ!」
ビクッと身体が揺れた。混乱する頭を必死に落ち着かせようとするが、上手くいかない。頭の芯が痺れ、目の前がクラクラする。ああ、もう。この人は自分の寝起きの色っぽさを分かっていないんだ。こんなことされては、心臓がいくつあっても足りないのに。起こしに来るたび惑わされる色香に慣れてきたとはいえ、それにも限度がある。
ドキドキとうるさい心臓を抑えながら固まっていると、いつの間にか視界いっぱいに広がる彼の端正な顔。甘い香油の香りと共に、柔らかな感触が右頬を掠めた。
何が起きたのか、一瞬理解できなかった。
船内のざわめきが嘘みたいに消え、静寂が訪れる。鼓動の震えしか感じないなか、スローモーションのように彼の顔が離れていく。
鼓膜に残るのは、小さなリップ音と、クスリと笑う彼の声。そこでようやく、頬にキスされたのだと理解した。途端に全身の血液が沸騰する。右頬を押さえながら訳もわからず立ち上がると、私は逃げるようにその場を走り去った。
あれからどうやって部屋に戻ったのか覚えていない。気付いた時にはベッドに潜り込み、頭から毛布を被っていた。
「……はぁ」
無意識にこぼれるため息。
顔は熱いし、頭はボーッとする。
まるで発熱しているようだった。
「さっきの……」
キス、だよね。
イゾウ隊長の唇が触れた右頬に指先を当てると、ドクンドクンと鼓動が脈打つ。
どうして、キスなんか……
先ほどの感触を思い出すだけで、心臓が口から飛び出しそうだ。深呼吸しても、うまく息ができない。
『かわいいな、お前は』
耳の奥で蘇るイゾウ隊長の声。カァっと、顔がまた熱くなるのを感じた。
ああ、だめだ……
今夜は眠れそうにない。
もう一度深いため息をつくと、私は寝返りを打ち、熱い顔を枕に埋めた。
イゾウ隊長は女性にモテると思う。
あの容姿だし、隊長だし、大人だし、余裕も色気もある。女性が放っておくわけないのだ。実際、島で声を掛けられているところを何度も見た。本人は面倒くさそうにあしらっていたが、とにかくモテることは間違いない。なのになぜ、私にあんなことをしたんだろうか。
お陰であの日以来、イゾウ隊長のことばかり考えている。モップ掛けの間も、武器庫の弾薬を数えているときも、食事中も、入浴中も。ベッドの中で眠りかけても、彼が頭の中にぬっと現れて、途端にぱっちり目が覚めてしまう。そのせいでこのところあまり眠れず、困っている。
「……というわけなんです。どうしたらいいと思いますか?」
「いや、知らねェよい」
マルコ隊長に相談すると、あっさり返されてしまった。ちょっと冷たすぎやしないだろうか。モテる人には分からない悩みかも知れないが、私は真剣なのに。
まあそうは言っても、突然部屋に飛び込んで来た私を邪険にせず、ペンを置いて話を聞いてくれる辺り充分優しいとは思うけど。それでも、もう少し親身になってくれてもいいじゃないか。
ぶぅ、と膨れっ面をすると、マルコ隊長は呆れたように小さく笑った。
先ほど隊務が終わり、使用した備品を倉庫にしまっていると、端っこに積まれていた木箱がバランスを崩し、ぐらりと傾くのが見えた。危ない、と思った時には既に遅く、木箱が私に向かってなだれ込んできたのだ。
咄嗟に避けようとするが間に合わない。ぎゅっと目を瞑って頭を庇うと、誰かに抱き寄せられる感覚がした。背中に回る力強い腕と、香油の香り。木箱が倒れる音が止んで、腕の隙間からそっと見上げれば、至近距離に端正な顔──イゾウ隊長だった。
彼に抱き締められている。そう認識した瞬間、心臓が止まりそうだった。そして『大丈夫か?』と、鼓膜を震わす低い声に限界を迎えた私の心臓と顔面が同時にボンッ、と大爆発を起こし、感謝の言葉も忘れて先日同様、脱兎の如く逃げ出した私はマルコ隊長の部屋へ転がり込み、ここ数日の苦悩を打ち明けているという次第だ。
「適当に言わないで下さいよう。本気で悩んでるんです。このままじゃ仕事もまともに出来ません」
「そう言われてもねい」
「どうしたらいいですか? 今だって、お礼も言えず、木箱も片付けず、逃げ出してきちゃったんです」
「戻って、礼を言って、片付ければいいんじゃねェか」
「それが出来ないから悩んでるんです!」
膨れっ面のまま見上げれば、マルコ隊長がため息を吐きながらこめかみをカリカリ掻いていた。
「私だって年頃の女なんです」
「そりゃあ、見たらわかるが」
「恋愛経験もないですし」
「まあ、そうだろうねい……」
「こんな気持ちになったのは初めてなんです」
「そんなこと、おれに言っても仕方ねェだろい」
「わかってますよ! でも他に相談できる人もいないんです……助けて下さいよう」
自分でも何を言っているんだろうと思う。マルコ隊長もこの上なく困惑してるのが見て取れる。だけど誰かに聞いて欲しい。この悶々とした行き場のない感情を吐き出してしまいたい。
「私、一番隊に戻ってきたらダメですか?」
半べそかきながら、上目遣いで言う。十六番隊に移って約一年。その前は一番隊にいた。異動の理由は聞かされていないが、今の状態のままイゾウ隊長と一緒に仕事をする自信がない。迷惑を掛けるくらいならいっそ元の隊に戻れないかと願い出るが、「それは無理だよい」と即答される。
「名前の気持ちもわかるが、移隊にはまず隊長の許可が必要だからねい」
「やっぱりダメですか……」
こんなことで移隊できるほど甘くないのは分かっていたが、それでも残念だ。
しゅん、と項垂れるとポンと頭の上に大きな手が乗った。
「イゾウは許可を出さねェだろうし、とにかく一度話してみたらどうだい、今晩の宴の時にでも」
……そうだった。今夜、また宴があるんだった。なんだってこんなに宴が多いんだ。文句を言いたくなるが、船長筆頭みんなお酒好きだから仕方ないか。海に囲まれた船上で一生逃げ続けることは出来ないし、確かに話す機会を作った方がいいかもしれない。何よりもまず倉庫の件を謝らなければならないだろう。気は進まない。まったく進まないが「そうしてみます……」と伝えると、マルコ隊長はニッと笑い、私の頭をわしゃわしゃ撫でた。
まるで犬になった気分を味わいながら、私はその手を心地よく思っていた。
