Novel
ビッチな彼女 - 04
「こいよ」
自分の身体を洗い流したイゾウが湯船を跨ぎ、こちらを向いて手を差し出す。
「……う、ん、ありがと」
大きな湯船。手を取って湯の中へ入ると、思いのほか深さがあった。脚を伸ばして浸かるイゾウの膝の上に座らされると、ちょうどいい高さになり安心した。イゾウのことだから絶対熱いと思っていた湯加減もいい具合だった。ぬるめ好きな私に合わせてくれたのかもしれない。……だけど、なんで向かい合わせなんだろう。顔近いし、まだビンビンに勃ってるイゾウのモノが股間に当たって……っていうより、私から生えてるみたいですっごく卑猥なんだけど。
ちょっと恥ずかしくなって目線を上げると、イゾウは長い髪をかきあげて一つに束ねているところだった。それを見ていると、私はふとあることに気が付いた。
「ねえ、こんなとこに傷痕なんてあったの?」
「うん?」
「ここ、だよ」
目の前の、きりっとした眉の右眉尻部分に指先を当てる。小さな傷だけど、引き攣ったような痕があったのだ。
「ああ、ガキの頃の傷だ」
「へぇ、知らなかった。綺麗な顔なのに勿体ないね」
「お前な、男のおれがそんなもん気にすると思うのか」
「気にならないの? でもさっぱり気付かなかったな、化粧してない顔も何度も見てるはずなのに」
「そりゃあ、お前はおれに興味がないからな」
イゾウはため息混じりにパシャン、と髪から降ろした手を湯につけた。跳ねた飛沫が顔に掛かり、片目をつむる。偶然かと思ったけど、跳弾を計算して敵に弾丸を浴びせる彼のこと。絶対、わざとに決まってる。こんなのお茶の子さいさいだろう。その露骨に呆れた顔が何よりの証拠だ。
そもそも前髪で隠れてる場所だし、目線の高さが違うから仕方ない気もするんだけど。
「じゃあ、その背中の刺青も興味がないから知らなかったっていうの?」
さっき、イゾウが先に湯船に入ったときに見えた。声が出そうなほど驚いたものの、何となく聞ける雰囲気ではなかったから控えたが、今ならいいだろう。
「気になるのか?」
「そりゃあね」
だって、てっきりマルコみたいな刺青が彫られていると思っていたら全然違うんだもん。無駄に脱ぎたがる他の男共と違い、イゾウの体を見たことない理由が分かった気がした。
「これは、おれがおでん様の家臣だった頃に彫ったもんだよ」
彼がおでんさんと共にモビーに乗船したことは知っている。おでんさんがロジャーの船に乗り、そのあとモビーには戻らずワノ国へ帰ったことも噂で聞いた。
だけど……
「それを残してるってことは、イゾウはいつかおでんさんの元へ……ワノ国へ戻るつもりなの?」
問い掛けると、イゾウは視線を伏せて少し考えた。
「……まだわからないが、いつかはそうなるだろうな」
浴室に響く静かな声に、ズキッ、と胸が痛む。
イゾウとは一緒に航海を続けていくものだと思っていた。色んな場所を巡り、色んなことを共有していくと。この先も、ずっと当たり前のように。
「故郷には、弟も、同志たちもいるからな」
そう、なのか……と心の中で呟く。
私はイゾウの女性関係だけでなく、彼に帰る場所があることも、同志がいたことも、弟がいたことさえ知らなかった。
そのことにショックを受けているのは何故だろう。
きっと、昨日までの私なら弟がいたことを聞いても、『イゾウに似て美人なんだろうね』なんて軽口で済ませていたと思う。故郷に戻ることを聞いても『えー、寂しいじゃん』などと笑いながら答えていたはずだ。
なのに、骨が喉の奥に引っ掛かってるみたいに彼の言葉を上手く飲み込めない。
肌を合わせた相手に特別な感情を抱いたことなんて、今まで一度もなかったのに。
だけど、彼のキスが上手いことや、触れる手が優しいこと。普段は冷たい印象の瞳が、求めるときは熱く変わること。少しだけ意地悪になることや、終わった後は甘くなること。見たことない彼の一面をたくさん知ってしまったせいだろうか。それを全部自分だけのものにしてしまいたい、だなんて……バカげてる。
彼には好きな人がいるのに。
「……イゾウは、故郷に戻りたいの?」
先のことを考えれば考えるほど心が重くなっていく。私は頭の中の霧を振り払うように尋ねた。
「どうだろな……。ただ、九里の海岸に白い砂浜があって、そこから眺める夕日が見事なんだ。あの景色はもう一度この目で見たいと思ってる」
いつか、お前にも見せてやりたいよ。
そう続ける彼の口元には穏やかな笑みが浮かんでいる。遠く離れた故郷の景色を思い描いているんだろう。
でも、本当にそれを見せたい相手は私じゃないはずだ。
彼が本当に見せたい人は……
ぎゅっと胸が締め付けられる。
だめだ、私……。
なんでイゾウと寝てしまったんだろう。
寝なければ、こんな感情知らないままでいられたのに。
「…………ごめん、イゾウ。話の途中だけど私なんだかのぼせちゃったみたい。先に出るね」
ザバっと湯船から立ち上がる。もつれそうな足で浴室を出ると、イゾウがすぐにあとを追ってきた。
「大丈夫か?」
身を屈めて顔を覗き込んでくる。とっさに私は顔を逸らした。あからさまに避けている態度だけど、目を合わせたら感情が爆発してひどいことになるのは間違いないから。
「平気だよ……」
声を絞り出すが、イゾウはその声を掻き消すように低く唸った。
「そうは見えない。拭いてやるから壁にもたれてろ」
備え付けの棚からバスタオルを取り出し、宣言通り身体を拭いてくれる。なんでこんな時まで優しいんだろう。顔をそっと拭かれると、ふわふわのバスタオルからイゾウと同じ香りがして切なさが込み上げた。
「いい、自分で拭ける」
「遠慮するな、おれが無理させたんだから」
「いいから、構わないでよ……っ!」
せっかく抑えた感情がコントロールを失ってしまう。力任せにバスタオルを引ったくる私にイゾウは一瞬驚き、眉尻を下げた。
「……構われるのは、迷惑か?」
違う、迷惑なんかじゃない。
でもこれ以上優しくされたら私はきっと……
「……イゾウ、好きな人いるんでしょ。こういうのは私じゃなくその人にしなよ」
言いながら、自分の心がひび割れていくようだった。傷付くなら言わなきゃいいのにわざわざ言葉にする自分は本当にバカだ。
しばらく黙って私を見つめていたイゾウは、やがて胸に溜まった空気を抜くように息を吐きだした。
「……そうだな」
短く答え、新たに取り出したバスタオルを腰に巻き付け横を通り過ぎて行く。
彼の起こした風が濡れた素肌に触れ、ひやりと体温を下げる。
イゾウが出て行く間、伏せていた私の目にはずっと彼の着物が映っていた。昨夜、私が脱がしたせいでシワだらけになってしまった藤色の着物。
これを脱がさなければ今も下らない下ネタを飛ばしてイゾウと笑い合っていたはずなのに……
それを思うと、彼と関係を持ったことを後悔せずにはいられなかった。
溺れた時のように鼻の奥が痛む。痛みを抑えるためにバスタオルを顔に押し付けると、イゾウの香りが鼻腔いっぱいに広がりいっそう切なさが込み上げた。
脱衣所を出ると、部屋は綺麗に整えられていた。
ぐちゃぐちゃに乱れていた布団のシーツは真新しく取り替えられ、口移しで飲ませてくれた水のグラスも、昨晩から放置されていた座卓の上の酒瓶も片付けられている。脱ぎ散らかした私の衣服まで畳まれ、部屋はさっきまで情交を重ねていたのが嘘のようにサッパリと片付いていた。
イゾウはその部屋の中、いつもの佇まいで立っている。髪は下ろしているけれど、和服姿で姿勢よく背筋が伸びていて。だけど、いつどこで会っても向けてくれた笑顔は浮かんでいない。バスタオル姿で出てきた私を堅い表情で捉え、何も言わずに背を向ける。
「あの……」
後ろ姿に問い掛けると、話す前に鋭く声が上がった。
「服はそこだ。着替えたら出て行ってくれ」
「…………わかった」
棘の詰まった言葉が弾丸のように左胸を撃ち抜く。今朝言われた時とは比べ物にならないほどの痛みだった。でも、もう食い下がることは出来ない。私は言葉を飲み込み、俯いたまま綺麗に畳まれた衣服に手を伸ばす。
「悪かったな」
かすかな衣擦れの音が響く重苦しい空気の中、背を向けたままのイゾウが静かな口調で告げた。
「おれと寝たことを後悔してるなら、忘れてくれ」
顔を上げると、窓から差し込む朝日が彼の背中と片付いた部屋を眩しく照らしている。その光景に余計に胸が塞がってしまう。
「……イゾウこそ、後悔してるんでしょ」
この部屋を見れば一目瞭然だった。
私が脱衣所で打ちのめされている間に、彼は私の痕跡を消すように部屋を片付けていたのだ。どう思っているかなんて、確かめなくても分かってる。
「ああ、悔いてるよ」
当然だ。彼には好きな人がいるのだから。欲望に負けて私と行為したが、先程の言葉で夢から醒めたのだろう。分かっていた。分かっていたが、実際耳にすると、息をするのもいやになるくらい胸が苦しい。油断すると涙が浮かびそうで、身支度を整えた私は足速に扉へ向かった。
扉の前に立ち、ノブに手を掛ける。
この部屋を出れば、二度とイゾウと仕事以外で話すことはないのだろう。
笑って、飲んで、勝負して。そんな気楽な関係はもう終わってしまうのだ。
最後に一度、振り返る。
彼の背中にさよならを告げるために。
だけど、彼はこちらを向いていた。
そして私を見ると、その唇が動いた。
「……お前との関係を壊したくないから、ずっと我慢してきたのにな」
独り言のように彼が呟く。
私は意味が分からず、黒い瞳を見つめたまま「え……」と声を上げた。
「結局こうなるなら、死ぬほど我慢してでもお前を抱くんじゃなかったよ」
続けて発せられた言葉に頭が混乱する。
……イゾウは何を言っているんだろう。
結局こうなるなら?
抱くんじゃなかった?
理解が追いつかない。
「……ま、まって、イゾウ、それはどういう意味……?」
ドアノブから手を離し、身体を彼に向ける。
「わからないか?」
考えもしなかった可能性に気が付いて息を呑む。心臓が早鐘を打ち、頭の中では「まさか」と「でも」が浮かんでは消えを繰り返している。
「……だって、イゾウには好きな人がいるんでしょ。だから私と寝たことを後悔してるんじゃ……」
震える声で伝えると、イゾウはふっと笑った。
「おれは、惚れた女しか抱かねぇよ」
きっぱりと、私の目を見て彼は断言した。
「っ……」
目頭が熱くなる。視界が潤み、彼の言葉に耐えきれなくなった涙がぽろっと頬を伝っていく。
「……泣くほど、迷惑だったか?」
眉を下げたイゾウが寂しげに笑う。
私はぶんぶんと首を横に振って否定する。
「だったら、どうして泣いてる」
きゅっと喉が締まり、言葉にならない。
この気持ちを自覚した瞬間に失恋したと思っていた。
それなのに────
止まらない涙を必死で拭っていると、傍にやって来たイゾウが親指の腹で雫を拭ってくれる。優しく、撫ぜるように。
「……お前に泣かれると、どうしていいか分からねぇよ」
いつも堂々として、何事にも取り乱さないイゾウの瞳が頼りなげに揺れている。初めて見るその弱々しい姿に愛しさが増す。私はたまらず彼に抱きついた。
「……っ、好き、……イゾウが……好き……」
溢れる感情が口からこぼれる。すると、顔をうずめた胸の奥の心臓がドクッと大きく脈打った。そして、どんどん加速していく。その音に胸が苦しくなる。イゾウの気持ちが鼓動を通じて痛いほど伝わってくる。どうしようもないくらい彼が愛おしい。
「……名前……本当か?」
腕をそっと背中に回しながらも、声音には戸惑いの色が混じっていた。それはきっと、以前交わした会話を覚えているからだろう。
『寝た相手を好きになることはないのか?』
『ない、ない、あり得ない。たかがセックスで気持ちが動くわけないじゃん』
明け透けに話しすぎた自分の迂闊さを悔やみながら、私は温かい胸から顔を上げる。
「……本当、だよ。イゾウが好き」
「だけど、お前は……」
「……うん、自分でも驚いてる。けど、イゾウがいつかワノ国に帰るかもしれない、とか、本当は好きな人に夕日を見せたいんだろうな、って思うと、どうしようもない気持ちがいっぱい溢れてきて、イゾウを離したくなくなっちゃった……」
「……っ、お前は、本当に……」
ぎゅっ、と強く抱かれる。
すっぽりと逞しい胸の中に閉じ込められると、多幸感に包まれ彼の香りが胸いっぱいに広がった。二度と味わえないと思っていた切なく甘い香り。せっかく止まった涙が浮かびそうになると、そっと頬を両手で挟まれキスされる。
「んっ、……」
大きな手が後頭部に回り、舌が咥内を縦横無尽に奪い尽くす。ホントにキスが上手。ぞわりと何かが戻ってきそうな予感がした頃、唇が離れ再び強く抱きしめられる。……と、ピッタリくっ付いた彼の身体の一部には、ある変化が。
「ね、ねえ、当たってるんだけど……」
「……当たり前だろ。お前が腕の中にいるのに制御できるわけがねぇ」
「でも、さっき二回も……」
「おれが何年我慢したと思ってるんだ。たった二度程度で満足できるか。まして気持ちまで通じたんだ、金輪際他の男を思いださねぇくらいお前をめちゃくちゃに抱きたくて堪らねぇよ」
大凡執着とは無縁そうなイゾウからこんな嫉妬じみた台詞が出るなんて。情熱的な言葉もグッとくる。もし、最初から口説かれていたらどうなっていたんだろう。
「私も、イゾウにめちゃくちゃに抱かれたい」
首元にしがみつくと、イゾウは「だから、お前は……」と言葉を詰まらせて私を抱え上げる。そして、履いていたサンダルをポイポイと投げられて、私はまたもや艶めかしい紅色の布団に舞い戻るのだった。
余裕のない表情で私を見下ろすイゾウ。
噛み付くように再び口付けられて……
……それから、一体何度したんだろう?
布団の上で二回目をしてるうちに外が騒がしくなってきて「お前の声を聞いてもいいのはこの先おれだけだ」、なんて赤面ものの台詞を真顔で言うイゾウに挿入されたままお風呂場に連行されて、そこでまた二回。
……いや、布団の分もだから三回か。
計四回、もう四十八手を網羅したんじゃないかってくらい色んな体位で責め尽くされた私は半分以上意識が飛んでいた。
そんな私を浴槽の中で抱き締めながら、イゾウがそっと耳元で囁く。
「いつか、一緒に夕日を見に行こうな」と。
弟にも紹介したい、と抱き締める腕の力をいっそう強く込められ、幸福に満たされた胸が淡く高鳴る。声は掠れてもう出ないけど、鼓動を通してこの喜びはきっと彼にも届いていることだろう。
ふわふわと砂糖菓子のような意識の中で私は微笑み、ゆっくりと微睡んでいく。
イゾウの肩に寄り添い、夕日を眺める光景を瞼の裏に浮かべながら。
