Novel
あの日には戻れない - 04
今までと関係が変わっても、マルコの態度は変わらず優しかった。
食事を運び、共に食べ、同じベッドで眠る。
夜にはもちろんそういう行為もしたけれど、マルコはいつだって愛情深く、私を怖がらせることはなかった。
時には襲われた恐怖がフラッシュバックのように蘇ることもあったが、そのたびマルコは私を抱きしめ、震えが止まるまで優しく包み込んでくれた。彼の献身的な支えのおかげであの時の恐怖は徐々に薄れていっている。犯人のことも次第に頭から離れ、私は心に余裕を取り戻していた。
「……書類を?」
「うん、手伝わせてほしいの。気持ちも落ち着いてきたし、マルコが忙しくしてるのにいつまでも私だけぼんやりしてる訳にはいかないよ。外の仕事はまだできないけど、書類ならこの部屋でも手伝えると思って」
今まで以上に時間を費やしてくれるマルコの負担を少しでも軽くしたくて、私はそう申し出た。彼が寝る間を割いて仕事をしている姿を見てから、ずっと考えていたことだ。夜を共にするようになってからも、私が寝たあとベッドを抜け出し、仕事していたのを知っていたから。
「名前の気持ちはありがたいが、無理に働く必要はねェよい。今はまだゆっくり休め」
「でもマルコ、私に時間を使ってくれる分、寝る時間を削って仕事してるでしょ。そんなのいつか身体を壊しちゃうよ。だから、少しでもいいから手伝わせてほしい」
マルコは少し困ったように眉をひそめながらも、私の顔をじっと見つめた。
「名前が心配することじゃねェよい。おれは、お前がそばにいてくれるだけで十分だ」
「ありがとう……でも、私も何かマルコの役に立ちたいの。お願い」
私の言葉にマルコは視線を落として考え込んだ。実際、私が手伝ったところで彼の負担は大して減らないだろう。慣れない仕事に逆に迷惑を掛けてしまうかもしれない。それでも彼のために何かしたかった。
「……わかった。ただし、無理は禁物だよい。疲れたらすぐに休むこと。約束できるかい?」
「うん、約束する。無理はしない」
気持ちを汲んでくれたことに感謝して、私は無理はしないと約束しながらも、できる限り頑張ろうと決めた。何より、少しでもマルコの助けになれることが嬉しかった。だが、いざ始めてみると、簡単な書類ですらミスが多く、結局私は彼に負担を強いてしまうのだ。
それでも、彼の空いている時間に少しずつやり方を教わり、難しい書類もひとりで徐々にこなせるようになっていった。
今までマルコが忙しい日中は、部屋でぼんやりと過ごしていた。たまに本棚から借りた本をパラパラめくることはあったが、彼の本はどれも難しく、心の傷が癒えるにつれやることがなくなっていたのだ。その意味でも書類仕事を任せてもらえたのは、私にとってもありがたいことだった。
「だいぶん慣れてきたな」
「マルコが教えてくれたおかげだよ」
「名前の飲み込みが早いんだよい」
「マルコの教え方が上手なんだよ」
二人で褒め合っているみたいで、なんだか照れくさい。だけど、彼の言葉が嬉しくて私は微笑んで続けた。
「これで仕事に戻っても、書類の手伝いができるね」
マルコに迷惑掛けてばかりいたけれど、難しい書類の処理を覚えたおかげで、仕事に復帰したら少しでも役に立てると思ったのだ。彼もきっと喜んでくれるだろう。そう期待するが、マルコの反応は少し違った。彼はほんの一瞬表情を曇らせ、それまで私を優しく見つめていた視線をふっと逸らした。
「……どうしたの?」
「ああ、いや。そうだな、助かるよい」
探るように向けた眼差しを吹き飛ばすように、マルコはにこっと微笑んでくれた。だけど、やっぱり何か変だ。どうしたんだろう。彼の笑顔がぎこちなく見える。いつもとは違う。まるで無理やり作ったようだった。
「どうかしたの……?」
こんなことは初めてだ。戸惑いながら問い掛けるが、マルコは作り笑顔を崩さないまま「なんでもないよい」と軽く首を振った。そして「それより、次はこの書類を頼んでもいいかい?」と、書類を数枚差し出してきた。
……なんだろう? 唐突に話題を変えられた気がする。訝しんで理由を尋ねようかと考えたが、やっぱりやめておいた。マルコは隊長だし、仕事のことは彼の方が詳しい。きっと、私には言えない何かがあるんだろう。もしかしたら、私はまだ完全には戦力として見られてないのかもしれない。それなら、もっと頑張らなくては。そう気持ちを切り替えて書類を受け取ると、私は目の前の仕事に集中した。
その後のマルコは普段と変わらず、あの時の違和感はやはり私には言えない仕事のことだったんだろう、と次第に思うようになっていた。気にしすぎていただけだ。あんなことがあったせいで敏感になりすぎているんだろう。相変わらず気遣ってくれるマルコとの穏やかな日々に、微かに芽生えた違和感のことなど私は忘れかけていた。
だけどそれから数日もしないうち、再び妙な違和感に襲われることになる。
昼食を終えたあと、難しい書類を数枚終わらせて一息ついた私は、ふと甘いものがほしくなったのだ。しばらくそんな気持ちにならなかったけれど、気持ちが落ち着いてきている証拠だろう。マルコは仕事に戻っているから声は掛けられない。どこかに置いてないかな…と戸棚を探そうとして、そういえばと思い出した。
「確か、チョコレートがあったはずだ」
以前、私が倒れた日に怪我をさせたことを気にしたあの時の隊員が、お見舞いにチョコレートをくれていたのだ。私が悪いのだからそんな気を使わなくてもいいのに、律儀に届けてくれたんだろう。それを医務室にはいない私の代わりにマルコが預かり、棚に入れておくと言っていたはずなのに、探しても見当たらない。
「あれ、ここに入れたって言ってたのに……」
どうしてないんだろう。違う場所だったかな? と隣の棚も開けて確認してみるが見つからない。他の場所にあるかもしれないが、さすがにこれ以上探し回るのは気が引けた。マルコが戻ってきたら聞けばいいか──そう考えながら、私は仕事に戻った。
夕食の時間になると、ちょうどそのタイミングでマルコが食事を持って部屋に戻ってきた。忙しいはずなのに、彼は毎回時間通りに食事を運んでくれる。その気遣いに感謝し、軽く会話をしながら共に食事をとる。食べ終えたあと、私はふと先ほどの疑問を思い出し、彼に投げ掛けた。
「そういえば、お見舞いでもらったチョコレートってどこに置いてくれたんだっけ? さっき食べたくなって探したんだけど見つからなくて」
私の言葉に、マルコはいつも通り優しく微笑んで答えてくれた。
「ああ、あれなら捨てたよい」と。
「えっ」と思わず食器を片付ける手が止まり、私はその場で固まってしまった。笑顔でさらりと口にした彼の言葉に頭がついていかない。
そんな私をよそに、マルコはゆったりと棚まで歩いていき、引き出しから何かを取り出して戻ってくる。
「代わりに新しいものを買っておいたから、あれはもう必要ないだろい」
優しい笑顔のまま、彼は手にしていたものを差し出した。綺麗なパッケージに包まれているチョコレートだ。お見舞いのチョコレートを捨てて新しいチョコレートを買ったということだろうか。意味がわからない。なぜそんなことをする必要があるのだろう。
「え、でも……どうして捨てちゃったの?」
胸の中に広がる不安が抑えきれず、私は思い切って問い掛けた。言葉に詰まり掛けたが、なんとか絞り出す。
「少し古くなってたんだよい。そんなもの、名前には食べさせられないだろい」
穏やかな声音で、まるで当然のように言う。その態度と言葉に胸の奥で何かがざわめく。
チョコレートがそんなに早く痛むだろうか。マルコが間違うはずはない、と思いたいが何かが引っ掛かる。どうしてこんなことでモヤモヤするんだろう。問い返そうとするけれど、疑問が喉にへばりついたようにうまく出てこない。
「そんな顔するなよい。足りないならいくつでも買ってやるから」
わざとなのか、マルコははぐらかすようにそう言って私の頭を軽く撫でた。そして、固まったまま差し出されたものを受け取らない私にふっと笑みをこぼすと、パッケージを開け、チョコレートを一粒取り出した。それを私の唇に優しく押し当てる。
「ほら、名前、口開けろよい。食べたかったんだろ?」
それは柔らかな響きだったけど、抗えない力があった。言われるがまま、私は口を開く。そっと押し込まれたチョコレートが舌の上でどろりと溶け出し、甘さがじわじわと口内に広がっていく。だけど、その甘さは胸の不安をかき消してくれるものではなかった。むしろ、甘さと一緒に不安が深く浸透してくるような気がした。指先についたチョコレートを、マルコがペロリと舐める。「甘ェな」と静かに囁き、私の頬に手を伸ばしてくる。
「おれにも、もっと味わわせてくれるかい」
なめらかな余韻を鼓膜に残したまま、彼の唇が私のものに重なった。隙間から侵入する熱い舌が、チョコレートをどろどろに溶かしていく。口いっぱいに甘さが溢れ、二人の唾液と溶けたチョコレートが混ざり合いながら、喉を滑り落ちていく。
甘さを求める舌に翻弄され、頭の芯がじんと痺れてくる。背中に回された手がそっと背筋をなぞるたび、腰の辺りが震えてしまう。ふらつく足が床を離れ、私はいつの間にかベッドに運ばれていた。気が付けば、上着を脱ぎ捨てた彼の瞳に、真っ直ぐ見下ろされていた。
「お前が必要とするものはなんでもおれが用意する。だから、他の男が関わったものには触れないでくれ」
低く告げられた言葉が、静寂の中に溶け込む。愛情なのか、それとも別の感情なのか。答えを見つけられない私は、焼け付くような彼の視線に捕らえられたまま、再び甘い螺旋の渦に飲まれていった。
