Novel
あの日には戻れない - 05
あの夜以来、私とマルコの日常は何事もなく過ぎていた。
彼はいつも通り優しく、私に何ひとつ不自由はさせない。チョコレートの一件は少し驚いたが、そのあとは変わらない穏やかな日々が戻っていた。
……いや、あの日以来、さらに優しくなったかも知れない。
最近では、自分の方がたくさんこなしているはずなのに、書類仕事で疲れただろうと、毎晩手のひらにマッサージまでしてくれるようになった。本当に色々と世話を焼いてくれる。なんでも先回りして気遣ってくれる彼に、私はますます甘えがちになっていた。だけど、そんな自分が少し怖くなる。マルコがいないと何もできなくなるんじゃないかという不安が、心の奥にずっと潜んでいた。
ふと、書類に落としていた視線を上げると、丸窓の外に広がる海が目に入った。どこまでも続く青い海は、透き通る晴天と溶け合い、境界線が見えないほど美しい。ぼんやり見ていると、時折飛沫が上がり、波の音や潮の香りまで漂ってくるようだった。
新世界では季節の変化は感じられないけれど、ここへきてからもう三ヶ月以上が過ぎている。マルコのおかげで、心身共に回復してきた。フラッシュバックも最近は起きない。
周りの様子も気になるし、私はそろそろ自分の部屋に戻るべきじゃないかと迷い始めていた。
そのことは以前からも考え、何度か口にしたこともある。しかし、そのたびマルコに「犯人がわかるまでここにいればいい」と言われ、その言葉に甘えていたのだ。
だが、この広い船の中で、私を襲った犯人を見つけるのは不可能に近い。隔絶された大海原で、欲求を抱えた者は多くいる。動機などあってないようなものだ。誰もが犯人と思えない一方で、誰が犯人でもおかしくない。まして、ここは海賊船。ルールはあっても、倫理に欠ける者が多くいる。二度と起こらぬようしっかりと自衛すれば、きっと大丈夫だ。男だらけの船で気を緩めていた自分にも責任があるのだから。
やはり自分の部屋に戻ろう。悩んだ末にそう結論を出した私は、その結果を今晩彼に話すことにした。
夕食後の和やかな雰囲気の中、「少し話があるの」と切り出すと、マルコは「どうした?」と、優しく訊き返してくれる。
「あのね、そろそろ自分の部屋に戻ろうと思うんだ。マルコのおかげでだいぶん落ち着いてきたし、私さえしっかりしていればもうあんなことは──」
しかし、それを彼に伝えようとした瞬間、穏やかに流れていた空気がピリッと一変する。まるで、先日のチョコレートの一件があった時のような緊張感が部屋に走った。
「ダメだよい」
低く重い声に言葉を遮られ、私はハッと顔を上げた。それまで優しく笑っていた表情は消え、代わりに鋭い眼差しが私を射抜く。力強い腕に引き寄せられ、思わず息を飲んだ。逃げ出そうとする心を見透かすように、彼の腕が強く抱きしめてくる。
「で、でも、いつまでもマルコに迷惑掛けるわけにもいかないし……」
「迷惑じゃねェって何度も言ってるだろい」
「だけど……」
「これからはいつでもそばにいると約束しただろい。おれに約束を破らせないでくれ」
私を守るための言葉が、強い抱擁が、今は逃げ場のない優しい檻のように感じられた。彼の腕は私をしっかりと包み込み、微かな抵抗さえ許してくれない。返そうとした言葉は喉の奥で消え、彼の静かな執着だけが私を縛り付けていく。安心感をくれていたはずの腕が、今は全身に絡まる鎖のようだった。
「この話はもう終わりだよい。名前は何も考えずここにいればいい」
その言葉に反論の余地はなかった。いや、できなかったのだ。唇を彼のもので塞がれてしまったから。彼はそのまま私をベッドへ連れて行き、ゆっくりと押し倒す。きちんと話したいのに、じっと見つめる瞳に縫い止められたように、唇も身体も動かない。覆い被さる彼に抗えず、私はただ受け入れるほかなかった。
夜が深まるにつれて、その行為は激しさを増していった。彼のぬくもりは安らぎを与えてくれるはずなのに、耳元に感じる息遣いに、なぜか胸が騒ぐ。何か大切なことを思い出しそうになるたび、敏感な箇所を揺さぶる律動に意識を奪われ、思考は靄の中へ消えてゆく。尽きることなく求められ、奥深くまで彼の熱が染み込んでいくようだった。その夜、マルコは一晩中私を離さなかった。
一夜明け、私が目を覚ました頃はもう昼近くになっていた。隣にマルコの姿はなかったが、身体の中に彼の熱がまだ燻っているようだった。ふらつきながら起き上がり、ふと香ばしい匂いに視線を向ける。テーブルの上に朝食が用意されていた。柔らかそうなパンとスープ。それに、サラダとカクテルフルーツが私の席の前に整えられている。
近くにはペンと小さなメモも置いてあり、そこにはこう書かれていた。
『昨夜は無理をさせて悪かった。書類のことは気にせず今日はゆっくり休んでくれ』
マルコらしい几帳面な文字が、静かな気遣いと優しさを伝えていた。彼は優しい。そう、優しい。でも、昨夜のことがどうしても引っかかる。心配するにしても、なぜあんなに強引だったのか理解できない。
椅子に座り朝食を前にしても、そのことが胸の中に重くのしかかっていた。マルコの優しい言葉とぬくもりに安らぎを感じる一方で、彼の行動が私の心に不安の影を落としていた。
「はぁ……」
思わずため息をつく。普段一緒に食べてくれるマルコがいないからか、昨夜のことが胸につっかえているからか、あまり食欲が湧かない。小さくちぎったパンをスープで胃に流しながら、これからのことを考える。心配してくれるのは嬉しい。ありがたくも思う。けれど、どうしてあんなに部屋に戻ることに反対するのかわからない。自分さえしっかりしていれば二度と襲われることはないはずなのに。むしろ、今度襲われたら、相手を逃さず捕まえてやろうという覚悟さえあるのに。
そんなことを悩んでいるうち、ふと思いついた。私が少しずつ外に出て行き、平気な様子を見せればマルコも納得してくれるかも知れないと。まずはこれを下げにいくのが良さそうだ。そう考え、軽く食べ終えた食器を持って立ち上がった。普段はマルコが下げてくれるから外には出ないが、今はいない。それに、午前中の彼はほとんど医務室にいるから手前の部屋で止められることもないはずだ。
一歩踏み出す勇気を出して、私はドアノブに手を掛けた。しかし、ドアノブを捻ってもガチャガチャ音を立てるだけで、扉は開かない。鍵がかかっている。以前は開いていたはずの鍵が。鼓動が一気に騒ぎ出し、不安が胸を突く。咄嗟に扉を叩こうとするが、ふと気が付いて、その手を止める。
おそらく、彼が手前の部屋を空けるから鍵を掛けて行ったのだろう。それが私を守るためのものか、ここに閉じ込めるためのものなのかわからない。少し前なら私を守るためだと間違いなく答えられた。だけど今は、その答えが揺らいでいる。
私は部屋を出ることを諦めて、仕方なく食器をテーブルに戻した。動揺しながら行動したせいか、食器を戻す際、メモと一緒に置かれていたペンに食器をぶつけてしまった。カチン、と軽い音を立ててテーブルを飛び出したペンは、床をコロコロと転がっていく。「あっ」と声を上げた時には、ペンは扉の隙間をすり抜け、マルコのクロゼットの中へと消えていった。
「どうしよう……」
ペンが転がり込んだクロゼットを見つめながら、しばらく悩む。勝手に開けるのは気が引けるが、このまま放置するのも躊躇われる。下着を漁るわけではないし、ペンを取り出すくらいマルコは許してくれるだろう。自分にそう言い聞かせて、私はクロゼットのドアノブに触れた。
当たり前だが、手前に繋がる部屋とは違い、こちらはすんなりと開いた。中は薄暗い空間が広がり、壁に沿ってマルコの洋服や私物が整然と並んでいる。その中には私が以前涙で汚してしまった紫色のシャツも掛けられていた。あの日のマルコの優しさが蘇り、今とは違う状況に少しだけ胸が締め付けられる。
棚にも私物が置かれており、私の部屋のクロゼットよりも少し広く、ちょうど人が一人立ち入るのにぴったりな大きさだった。
足を踏み入れると、マルコの匂いがふわりと漂い、安心感に包まれながらも心の奥が微かに疼く。
ペンは手前の方には見当たらなかったが、少し奥へ入るとすぐに見つかった。けれど、拾い上げると同時に、ふと目に留まった小箱に取り乱しそうになる。私も全く同じものを持っているからだ。
一瞬、自分のものかと思ったが、自分の小箱は以前荷物を取りに行った時に持ってきてきちんとしまってあるし、今朝も確かめたばかりだ。その中には他の誰にも見せたくない、特別なものが入っている。
マルコは何を入れているんだろう……
私と同じように、誰にも見せたくないものを隠しているのだろうか。
静まり返ったクロゼットの中で、鼓動の音だけが耳の奥に響く。息を飲み、私はゆっくりと小箱に手を伸ばした。いけないことなのはわかっている。でも、どうしても、マルコが中に何を入れているのか知りたかった。
そっと小箱の蓋を開くと、中には大量の写真と、小瓶が二つ収められていた。私は小箱を手前の棚に置き、写真を一枚手に取る。見た瞬間、心臓が止まりそうになった。震える指で次の写真を見る。次も、その次も、ここに写っているのは全て私だった。甲板から海を眺めているもの、誰かと話しながら笑顔を浮かべているもの。島の風景と一緒に撮られているものもあった。全部、撮られた記憶のないものばかりだ。自分の呼吸が早く浅くなるのがわかる。
一体いつ撮られたのだろうか……
心を落ち着けながら写真を置き、今度は小瓶に視線を移した。ひとつの小瓶は無色透明の液体が入っているが、もうひとつはとろりとしたピンク色の液体が入っている。まるで甘い香りを秘めているかのようなそれに、私は手を伸ばした。
冷たいガラスの感触が指先に伝わり、少しぞくりとする。
持ち上げて軽く振ってみると、粘り気を帯びた液体が瓶の中で妖しくゆらりと揺れた。
これはなんだろうか?心に疑問が渦巻く。私は慎重に蓋を開け、ゆっくりと鼻先を近付ける。嗅いでみると、果実のような甘い香りが鼻腔に広がった。どこかで嗅いだことのある匂いだ。どこだっただろう。思考を巡らせると同時に、心臓がどくりと脈打ち、じわりと身体が熱くなった。
「それは、嗅ぐだけでも効果があるものだよい」
不意に聞こえた声に、びくりと身が竦んだ。その瞬間、手の中の小瓶がするりと滑り落ち、床に叩きつけられて割れる音が響く。
「……っ!」
辺りにむっと甘ったるい香りが立ち込める。足元にじわじわと広がるピンク色の液体に思わず後ずさると、背中に何かがぶつかった。咄嗟に振り返ると、そこにはマルコが立っていた。
静かに微笑んでいるが、その表情からは感情が読み取れない。無機質な笑顔が、かえって怖さを引き立てていた。
「あ、の……」
何か言わなきゃと思うのに言葉が出ない。私が小箱の中を見たことに気付いているはずなのに、マルコは動じる様子を見せない。冷静な笑顔を崩さないまま、ゆっくりと手を伸ばしてくる。その動きに、条件反射のように身体が硬直し、心臓がバクバク音を立てた。何をされるのかという緊張が、一気に高まる。しかし、彼の手はただ静かに小箱の蓋を閉めただけだった。カチリと小さな音が響き、私はほっと息をついた。だけどその安堵も束の間。床に散らばった破片を目にしてすぐに謝罪した。
「ご、ごめんなさい……!」
慌ててしゃがみ、破片を拾おうとしたその時。
「っ……!」
指先に鋭い痛みが走り、思わず手を引っ込める。指を見ると、じわりと血が滲んでいた。
「あ……」
「大丈夫か? 見せてみろ」
マルコが一歩近付き、私を見つめた。狭いクロゼットの中では彼の存在が一層大きく感じられる。辺りにまとわりつく濃厚な香りが頭をクラクラさせる。
「……で、でも、先にここを片付けなきゃ」
「いいから見せろよい。片付けはおれがあとでしておくから」
静かな声と共に手を掴まれ、心臓が跳ね上がった。彼の手は温かく、その体温が逆に私の緊張を煽る。彼は傷口をじっと見つめると、なんの躊躇いもなく血の滲んだ指先を口に含んだ。
「っ、ぁ……!」
なめらかな舌が指先を這う感触に、ぞくりとする。舐められているのは指先なのに、なぜか身体の奥深くを愛撫されているような感覚に襲われた。息が詰まり、震えそうになる身体を必死に抑えていると、マルコがふっと笑い、ゆっくりと口を離した。彼はそのまま私をクロゼットの外へ導き、ベッドに座らせる。そして、私の指先を再び軽く握りながら、慣れた手つきで手当を施してくれる。
消毒液が指先に垂らされる感覚に、ひやりとする。少し痛みを感じたが、マルコが青い炎で傷口を包み込んでくれたおかげで痛みはすぐに消えた。しかし、消えたのは痛みだけで、胸に渦巻く疑念と不安は消えてくれない。指先に包帯が巻かれるのを見ながら、膨れ上がる疑問を抑えきれなくなる。
「……マルコ、だったの?」
思わず漏れた問い掛け。彼の反応を確かめたくて、それでいて確かめたくない。違うと思いたいけれど、何度考えても、どうしてもひとつの答えに繋がってしまう。
あの箱を開けなければ、知らずにいられたのだろうか。あの小瓶から香った匂いを思い出さなければ、今も気付かずにいられたのだろうか。先ほど思い出してしまったあの香り。熟れた果実のような甘ったるい香り。
あれは、あの日私の全身に染みついた、忘れられない香りだった。
返事を求めてじっとマルコを見つめるが、彼は何も言わなかった。部屋に静寂が訪れる。彼の視線は包帯に落ちたままで、表情は見えない。答えるつもりはないのかもしれない。そう思った矢先、包帯を巻き終えた手をそっと離し、彼は私を見て微笑んだ。それはいつものように優しい笑みだったけれど、その微笑みが全てを物語っていた。言葉はなくとも、その静かな眼差しが全てを伝えていた。
……ああ、そうか。
そうだったのか。
胸の奥で複雑に絡んでいた疑念が、ひとつずつほどけていく感覚がした。彼があれほどまでに私を献身的に支えてくれたこと。チョコレートを捨てたこと。部屋に戻ることを頑なに拒んだこと。そして、優しいはずのマルコに抱いた不安。全てが一本の糸で繋がっていく。
「……そういうこと、だったんだね」
声に出してしまえば、全てを認めることになる気がして、胸が鉛のように重くなる。けれど、もう目を背けることはできない。マルコは、私の小箱の存在に気付いていたのだ。その中に何が入っているのかも、全て。
私が彼を見つめ続けたことも、写真に収め、手元に置いていたことも。
彼は、そんな私の執着を全て知っていた。そして、私と同じように彼もまた、私に執着していたのだ。
互いの秘めたる執着が、こうして形となって現れた──歪んだ形で。
「いつ気付いてくれるのか、ずっと待ってたよい」
その言葉に、胸の奥が軋む音がした。本当は心のどこかで気付いていたのかもしれない。彼に抱かれるたび、感じていた違和感を無理に押し込めていただけだった。見ないふりをしていた真実が、ここに現れた。もう、何も知らなかったあの日には戻れないのだ。
思い返せば、あの日の夜、紅茶を淹れてくれたマルコの様子はどこかおかしかった。今思えば、紅茶に睡眠薬か何かを混入させたのだろう。小箱の中にあったもうひとつの瓶。それが、きっとその薬だったのだ。
「もう、離さないよい」
マルコが優しく微笑み、そっと唇を重ねる。彼の瞳の中に自分が囚われているのを感じながら、私はゆっくりと目を閉じた。彼の執着が、私の執着と溶け合い、ひとつになっていく。それはきっと、ひどくいびつで歪んだ形をしているだろう。
けれど、それも確かに、ひとつの愛の形だった。
