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あの日には戻れない - 03

その日から、私はマルコの寝室で過ごすことになった。

仕事もしばらく休むように言われ、食事もマルコが運んでくれる日が続いた。私が突然姿を消したことに仲間が心配するかもしれないが、それは船医のマルコが上手く誤魔化してくれるそうだ。おそらく、倒れたことを理由に病が見つかったとでも言ってくれるのだろう。みんなを騙すようで心苦しく思うが、今は誰にも会いたくない。

その点、マルコの寝室は最適だった。

手前の部屋に客は訪れるが、寝室に入って来る者は一人もいない。話し声も聞こえないから無闇に身構えることもない。自室にいた時は扉の外から声がするたび、身体がビクついていたから。この寝室が静かなのは、他の部屋より壁が分厚いせいだろう。そういえば、初めて見せてもらったときに聞いていた。隊長会議に使用していた部屋を改装したんだと。

そのお陰で私は人に怯えることもなく、穏やかに日々を過ごせていた。

「食欲が戻ってきてるようで、安心したよい」

「うん、ありがとう」

「少し量を増やそうかい?」

「まだこれで十分だよ」

食事は毎食マルコが運んでくれ、一緒に食べてくれる。実のところ、食欲はまだあまり戻ってはいない。けれど、マルコが私の様子を気に掛けながら一緒に食べてくれるから、三食ちゃんと食べるようになったのだ。

「部屋に足りないものはないか?」

夕食のあと、食器をトレイに片付けながら尋ねるマルコに、私はクスッと笑って答える。

「それも、十分だよ」

私がこの寝室を使わせて貰ってから、スッキリとしていた部屋には色んなものが増えた。食事のためのテーブルや椅子、二人掛けのソファ、そして私のための衣装ケース。ここへきてすぐに上陸した島で、全部マルコが買ってきてくれたのだ。着替えのほとんども、彼が揃えてくれたものだった。精神衛生上、部屋に戻るのは避けてほしいと荷物を取りに行くのを反対されたから。それでもお願いして夜更けに一度、彼の付き添い付きで自室に戻ったけれどさほど持ち出せず、日用品や娯楽品など足りないものはマルコが用意してくれたのだ。

「必要なものがあれば、遠慮せずに言えよい」

ひたすら私を甘えさせるマルコに苦笑する。彼のおかげで随分日常を取り戻すことができている。だけどまだ人に会うのは怖い。外に出るのも怖い。マルコは無理する必要はないというが、このまま閉じ籠ったままでいいのか考えてしまう。ここを出て犯人を探した方がいいんじゃないか。

せめて自室に戻った方がいいんじゃないか。

そんなことを考えるが、再び襲われたらと思うと、部屋に戻る選択肢なんて取れるはずがない。でもここにいると、ますます彼に依存してしまいそうな自分が怖かった。

今だってこんなに甘えているのに。

ここを出て行ける日は来るのだろうか……

手渡された紅茶を飲みながらつらつら考えていると、段々頭が重くなってくる。もう少し考えたいが、思考が散り散りになっていく。手の中のカップが二重に見え始め、私は考えることを諦めた。残っていた紅茶を飲み干し、テーブルにカップを置く。

「……ごめん、マルコ、眠くなってきちゃった」

「ああ、ゆっくり寝ろよい」

私がベッドに入ると、マルコは頭を優しく撫で、手を握ってくれる。あの日から、マルコは私が眠りに付くまで、いつもこうしてそばにいてくれるのだ。そのおかげなのか、温かな体温を手のひらに感じながら目を閉じると、怖かったのが嘘のようにすんなりと、私は眠りに落ちるのだった。

──寝る前につらつら考えたのがいけなかったのだろうか。その日の夜半、私はふと目が覚めてしまった。

真っ暗で静かな部屋。眠る直前まであったマルコの影はなく、温もりを失った右手は毛布の中にあっても、ひんやりと冷たく感じた。

妙な時刻に起きてしまった。再び眠ろうと瞼を閉じるが、眠れない。立ち直ってきたと感じていたが、暗闇の中に一人だと途端に心細くなる。不安で堪らない。ここが安全な場所だとわかっていても、今にもあの扉が開き、知らない男が入ってきそうだった。

私は躊躇いながらも立ち上がり、手前の部屋へ向かう。繋がる部屋、下から漏れる灯りに誘われるように。

──チャ、と静かな音が響く。こんな時間だ、灯りを消し忘れただけで部屋の主はきっと寝ている。起こすつもりはなく、顔を見て安心したかっただけ。だから、音を立てないようにそっとドアノブを引いた。けれど、ソファで眠っていた彼はそんな微かな物音でさえ目を開けた。

「……名前? どうした? 何かあったのか」

頭を軽く持ち上げ、瞬く瞳がこちらを向く。

初めて開かれた寝室側からの扉にひどく驚いている様子だった。

「起こしてごめんなさい。……その、目が覚めたら真っ暗で、怖くなっちゃって……」

言いながら自己嫌悪に陥る。まるで悪夢を見て怯える子供みたいだ。情けない。私はぎゅっと手のひらを握りしめた。

マルコは私の言葉を聞きながら身体を起こし、手に持っていた書類をソファの前に広がるテーブルに置いた。そこにも書類が積まれている。ペンも転がっていた。きっと眠る寸前まで仕事を続け、目を通しながら寝てしまったんだろう。深夜に疲れて眠っているところを起こしてしまい、深い罪悪感に包まれる。

「あの……でも、もう大丈夫なの。マルコの顔見たら安心したから。寝てたのにごめんね、おやすみなさい」

早口に告げて、私は再び部屋へ戻った。何をやっているんだろう、私は。自分のことでいっぱいで、忘れていた。彼は多忙な人だ。仕事量が減るはずもない。私に時間を費やしてくれている分、睡眠を削って仕事をしていたのだ。しかも私がベッドを占領しているせいで、彼は身体に合わない狭苦しいソファで寝ていた。脚のほとんどがはみ出していて、どう見ても疲れなんが取れない光景だった。私がここへ来てからずっとそんな生活をしていたなんて。それなのに私より早く起きて朝食を運び、一緒に食べてくれて……

名前……?」

閉めたはずの扉が開き、暗闇に淡い光が差し込む。部屋に入ってきたマルコは立ち尽くしている私をそっとベッドに座らせ、枕元の灯りをつけた。それからグラスに水を注ぎ、手渡してくれる。いつの間にか、こうして世話を焼かれることも、当たり前になってしまっている。

「まだ早いし、休んだほうがいい」

受け取ったグラスに口をつけると、マルコが優しくベッドに入るよう促してくる。

名前が眠るまでここにいるから」

「……だったら、マルコも」

思わず言葉が漏れた。

「一緒に寝てほしい」

自分でも驚くほど自然に出たその言葉に内心戸惑ったが、それが本心であることに違いはなかった。知ってしまった以上、あのソファでマルコを休ませるのはもう無理だ。私がソファで眠れるなら交代したいが、誰がいつ訪れるかわからない手前の部屋で眠ることはできない。何よりマルコが許してくれないだろう。彼のベッドは大人二人で眠るにはやや窮屈だが、ソファに比べればずっと快適だ。脚も伸ばせる。いい考えだと思ったけれど、マルコは一瞬驚いた表情を見せたあと、すぐに首を振った。

「それはできねェよい」

「どうして?」

「どうしてって……」

硬い面持ちで言葉を選ぶ彼に、私は先回りをする。

「私と寝るのが嫌なのはわかってるよ。今更だけど私、マルコがどこで寝てるのかよく考えてなくて……でも、マルコがあのソファで寝てるのに私だけベッドで寝るわけにはいかない。だから……」

「おれのことは気にしなくていい。それに、名前と寝るのが嫌なわけじゃねェ。名前と寝れねェだけだ」

言葉を遮ってまで言われるが、よくわからない。同じ意味だと思うが、何かの謎掛けだろうか。それとも哲学的な話なのか。いずれにせよ、私には通じていない。混乱しつつ訊き返してみるが、同じ言葉が繰り返されるだけだった。私と寝るのが嫌じゃないと言われたことに胸を撫で下ろすが、だったらなぜ拒むのかわからない。

「嫌じゃないならどうして一緒に寝られないの? マルコは優しいから私にベッドを譲ってくれてるかもしれないけど、私は……」

「言っただろ、誰にでも優しいわけじゃねェって。おれはお前と一緒に寝て自分を抑える自信はねェよい」

再び言葉を遮られるが、今度の意味はさすがに理解した。倒れてここへきた日、確かに聞いた言葉だ。珍しく狼狽えていた裏にそんな思いがあったなんて、私は全く気付いていなかった。

「こんな事態がなきゃ言うつもりもなかったことだ。おれについては気にしなくていい。とにかく、名前はもう少し眠れ」

深く息を継ぎ、マルコは私をベッドに寝かせる。彼の大きな手はいつも通り優しく、けれど少し躊躇いがちに頭を撫でた。普段はすぐに繋いでくれる長い指先は、シーツの上で繋ぐのを迷っている。その指先に、そっと触れた。

「それでもいい」

重ねた指先が、微かに動く。

「だめだ、聞いただろい。おれはお前を……」

「いいの。それでもいいから、私はマルコと寝たい」

指先を絡ませると、張り出した喉仏が大きく上下した。揺れる瞳がこちらに向けられる。微かに険しい表情を浮かべたまま、彼は唇を引き結んでいる。

「まだ怖いと思う。でもマルコならいいの。……ううん。マルコじゃなきゃいやだ」

男に犯され怯えながらこの部屋に匿われているくせに、何を言っているんだろうと自分でも思う。だけど、この身体に焼き付いた男の感触を消し去って欲しかった。肌に残る体温を塗り替えて欲しかった。

「……どうなるか、わかって言ってるんだな」

細めた瞳の中に、彼の深い葛藤が宿っている。言葉にならない迷いと決意が交錯している。

「わかってる、マルコがいいの」

再びはっきりと意思表示すると、彼の唇から熱い吐息が漏れた。

「後悔するかもしれねェよい」

「しないよ、絶対に」

言い切る私にマルコの表情から迷いが消えた。

枕元のランプの光が、静かに落とされていく。真っ暗にはならず、お互いの顔が見える程度の淡い明かりが室内を包み込む。マルコは恋人のように繋いだままの手を引き寄せ、その甲にそっと口づけた。

「怖くなったら、言ってくれ」

最後の逃げ道を作ってくれた彼が、ゆっくりと覆い被さってくる。怖くないと言えば嘘になる。けれど、唇が近付くにつれて鼓動が加速するのは、単なる恐怖心からだけではなかった。

見つめ合ったまま、唇が重なり合う。マルコの唇は柔らかくて、優しくて、温かい。頬に添えられた手も、肌の上を滑る唇も、ただただ優しく、触れ合う素肌に嫌悪感も不快感もひとつも感じなかった。

私はマルコの首に自ら腕を巻きつけ、彼を受け入れた。

翌朝は、私が先に目が覚めた。

外はまだ薄暗い。夜明けまでもう少し時間があるのだろう。部屋の中は、明け方の澄んだ空気と静寂が漂っていた。一人で眠っていた時は、明け方に目覚めて怯えていたこともあるが、すぐ隣にある体温と、繋がれたままの手の温もりが私を安心させた。

カーテンの隙間から淡く漏れた光が、金色の髪と穏やかな寝顔を優しく照らしている。彼の寝顔を見るのは初めてだった。こんな顔で眠るのか。普段は決して見られない無防備なその表情に、ついつい頬が緩んでしまう。

「……かわいい」

思わず心の声が漏れ、見つめていた瞼がピクリと揺れる。「あっ」と口をつぐむも、すでに遅い。ゆるりと開いた瞳が私を映し出し、柔らかく微笑んでいた。

「おはよう」

掠れた声で囁き、長い指が髪に優しく差し込まれる。今までとは明らかに違う触れ方と雰囲気。その色っぽさに昨夜の情事を思い出して恥ずかしくなる。挨拶を返しながらさり気なく距離を取ろうとするが、彼の腕の中に引き寄せられ、私は「ひゃっ」と小さな声をあげた。

「よく眠れたか?」

自分よりも高い体温と鼓動の響きを感じながらこくりと頷く。すると、すぐに「身体は大丈夫か?」と心配そうな声が落ちてきた。確かに、身体のことも心配してくれていると思う。だけど、真に知りたいのは身体の内側、心の方だろう。

昨夜、彼は本当に優しかった。気遣う言葉や、触れる指先、撫でる手のひらも全部。

始終優しく触れてくれた温もりを思い返し、腕の中から彼を見上げる。

「大丈夫だよ、マルコが優しかったから怖くもなかったし」

微笑みながら答えると、マルコは安心したように息をついた。だいじなものを守るように、ぎゅっと抱きしめてくる腕に、頬を寄せる。

まさかマルコとこんな関係になる日がくるなんて思いもしなかったが、彼の腕の中は不思議なくらい心が落ち着いた。

私を襲った犯人はわかってないし、マルコ以外の人は今も怖いまま。それでも彼がそばにいてくれることが、私にとって大きな支えになっていたのは確かだった。