Novel
あの日には戻れない - 02
どれくらいの間、泣いていただろう。
マルコはその間、私の背中をずっと撫で続けてくれていた。広い胸の中は心地良く、この三日間ピンと張りつめていた神経が、ゆっくりとほぐれていくようだった。
「落ち着いたかい?」
「うん……ありがとう」
やがて涙が止まり身体を離そうとするけれど、腕の力はゆるまない。振り解くわけにもいかなくて身を預けたままじっとしていると、静かに告げられる。
「相手に、心当たりはないかい。なにか気付いたこととか」
その声にはわずかに緊張が滲んでいて、私を気遣ってくれているのがひしひしと伝わってきた。
彼の言葉に頭の中を巡らせてみるが、ひとりも浮かんでこない。海賊とはいえ、みんな陽気で気のいい者ばかりだ。島へ降りても女に無体を働く者もおらず、見当もつかない。
相手の姿をほんの少しでも見ていれば良かったが、気付いた時にはすでに拘束され、目隠しされていて、室内が明るいのか暗いのかさえわからなかった。
ただ、熟れた果実のような濃厚で甘ったるい香りがしたのを覚えている。とろとろと全身に塗りつけられたそれは、恐怖で渇いた身体に甘く染み込んだ。正常な思考を奪い、官能を刺激する毒のように……
おそらく媚薬の類いだと思うが、マルコには言えるはずがなかった。私はそのせいで、顔もわからない男に何度も絶頂させられ、失神するほど乱れてしまったのだから。
カタカタと、彼の上着を掴んだままの指先が小刻みに震え出す。忌まわしい記憶を拭い去るように、私は頭を振った。
「……ごめん、わからない」
「そうか、嫌なことを訊いて悪かった」
微かな震えを感じたのか、抱き締める腕の力が強くなる。
「マルコ、お願いがあるの」
「うん?」
「……このことは、誰にも言わないで欲しい。オヤジにも、他の誰にも」
「ああ、わかったよい」
力強く頷いて、ようやく身体を離してくれた。体温がすうっと消え、心細くなってしまう。あの日以来、人に触れられることが怖かったのに。
「……ごめん、シャツが……」
指先を離すと、マルコの上着は私が掴んでいた部分がしわくちゃになっていた。胸元に大きな染みまでできている。色が変わるほど濃い、涙の跡が。
「ん? ああ、気にするなよい」
「でも……」
「平気だよい、着替えりゃいいだけだ」
ポンポンとあやすように私の頭を撫でて立ち上がり、彼はクロゼットらしき場所に向かっていく。その様子をじっと眺めていると、扉の前で立ち止まったマルコがふいにこちらを向いた。
「そんなに見つめられちゃ、着替えにくいよい」
「ご、ごめん……」
慌てて目をそらすと、マルコが服を取り出し、着替え始める音が静かに響いてきた。
普段、シャツは開け放しているのに着替えを見られるのは照れくさいのか……とぼんやり視線を逸らしたまま考えていると、ふと思い至ってしまった。今朝は開いていたはずの上着のボタンが留められていたことに。
マルコのことだ、きっと私の今朝の態度と、手首の痕跡から何があったのか察したに違いない。その上で私を思いやり、素肌を隠してくれているんだろう。彼の細やかな気遣いに、居たたまれなくなった。
「ごめんね、マルコ……」
「気にするなって言っただろい」
ベッドに戻ってきたマルコが微笑みかけてくれる。着替えた白いシャツのボタンは、やはり上の方まで留められていて、なんとも言えないものが胸に広がっていく。
もう一度お詫びした訳は、ただシャツを汚してしまったことだけではないけれど、私はそれをうまく言葉に乗せることはできなかった。
「……マルコは、優しいね」
代わりにそう口にすると、彼の表情が一瞬揺らいだ。戸惑いを見せながら狼狽え気味に視線を外す。
「別に、誰にでもってわけじゃねェよい」
「え?」
「いや、なんでもねェ……」
珍しく言葉を濁す彼に私は首を傾げる。一番隊の隊長として公平に皆を扱っているように見えるが、苦手な人でもいるのだろうか。少なくとも一番隊のみんなには優しいが。疑問を抱いて訊き返そうとした矢先、マルコが言葉を発した。
「名前、話の途中ですまねェが、ちょっと待っててくれるかい」
扉の方を見る様子に思わず頷くと、「悪いな」と謝りながら私の髪を軽く撫で、彼はさっと部屋を出て行った。
どうしたんだろう。隣の部屋に誰か来たんだろうか。それにしては物音はしなかったから急用を思い出したのかもしれない。彼は忙しい人だから。
しんと静まり返った部屋。コチコチと秒針が時を刻んでいく。
そういえば、いま何時だろうか。マルコと話す前は明るかった窓の外は、ほんのり薄暗くなっている。ランプの灯りがなければ、時計の針も見えにくかっただろう。時刻は夕方五時をまわった頃だった。一日の仕事が終わり、もうすぐ夕食が始まる時間だ。それが終われば再び夜がやってくる。抱えていたものを打ち明け、気分は少し落ち着いた。溺れていたような息苦しさも消えた。だけど夜はまだ怖い。眠るのも怖い。しかし、いつまでもここにいてはマルコの迷惑になるだけだ。
戻ってきたら部屋へ戻ろうと待つが、彼はなかなか帰ってこない。あれからもう三十分以上経っているのに。
扉に視線を向けて耳を澄ますが、相変わらず物音ひとつしない。マルコは隣の部屋にいるんだろうか。扉を開けて確かめたいが、他に誰かいるかもしれないと思うと覗く勇気さえ振るえないのは、人が怖いからだ。私を犯した人物は船の中にいる。何食わぬ顔で生活している。誰にも会いたくなんかなかった。
段々と真っ黒に塗りつぶされていく窓の外。不安がじわじわと足元から這い寄ってくる。秒針の進む音が心臓をチクチクと突き刺すようだった。呼吸が速まり、指先がひどく冷たくなっていく。心細さに押し潰され、居ても立っても居られなくなったそのとき、ようやく扉の軋んだ音がした。
「待たせて悪かったな、思ったより時間を食っちまっ……」
部屋に足を踏み入れたマルコは私を見るなり顔色を変え、急いでベッドに近付いてくる。
「名前……」
手にしていたものを、分厚い本を脇に寄せてナイトテーブルに置くと、優しい指先が頬を拭ってくれる。マルコが戻ってきた瞬間、ぽろぽろとこぼれてしまった涙を。
「どこか痛むか? 苦しいのか?」
矢継ぎ早に尋ねられるが、痛くはなかった。苦しくもなかった。涙の理由はただひとつ。不安と恐怖に苛まれる中、マルコの姿を見て安心感からあふれてしまったのだ。
ふるりと首を振って否定すると、ひどく心配そうに揺らいでいた瞳が憂いを帯び、腕の中にぎゅっと抱き締められた。身体はやはり強張ってしまうけれど、心は安堵に包まれる。
「ちょっと心細くなっちゃって……ごめんなさい」
「悪かった、一人にさせちまって」
「違うよ、私が人に会うのが怖くて隣の部屋に行けなかっただけだから」
強く抱き締められたまま、そっと背中を撫でられる。優しい体温が、凍りついた不安と恐怖を溶かしてくれる。ずっとこうされていたくなってしまう。
「ごめんね、もう大丈夫」
自分を戒めるように、温かい身体から離れる。安心して涙がこぼれるなんて、いい歳して幼子のようだ。気恥ずかしくなって苦笑いを返すと、彼は眉根を下げたまま、だけど瞳に安堵の色を浮かべ小さく頷いた。
「夕飯貰ってきたよい、少しでも食えそうかい」
先ほどナイトテーブルに置かれたトレイの上には、香りの良いスープや、柔らかそうなパン、小さな器に入ったカットフルーツなどが並んでいた。夕食というよりは朝食のような軽い食べもの。それに加えてガッツリした料理が数品あるのは、たぶんマルコの分だろう。
「……ありがとう」
「無理してまで食わなくてもいいが、少しでも腹にいれとけよい」
正直食欲はないが、また倒れてマルコに迷惑掛けるわけにはいかない。それでも少し迷っていると、食べないならあとで点滴を打つからと船医に宣告され、注射嫌いの私は一番喉を通りそうなスープに手を伸ばす。一口すくって飲むと、野菜のダシをたっぷり含んだコンソメの風味がふわりと広がった。温かなスープが胃に落ちていくのを心地よく感じながら、彼の優しさに感謝する。もしマルコがいなければ、私は食堂にも行けず、いまも部屋で一人扉を見つめて怯えていただろう。
「これからのことだが」
スープに手を付ける私を確認すると、マルコもベッドの端に腰掛け、食事をしながら話し始めた。
「しばらくの間、名前はこの部屋で過ごせばいいよい」
「え?」
「部屋に戻っても眠れねェだろい」
戸惑う私に、彼は続ける。
「おれは手前の部屋で寝るし、ここには誰も来させねェから」
確かにマルコが近くにいてくれるのは心強い。でもこれ以上迷惑は掛けたくはない。そもそも彼が戻ってきたら部屋に戻るつもりだったのに、食事まで運んでくれて一緒に食べてくれて……寝室まで借りるなんて、気が引けてしまう。
「マルコ、気持ちは嬉しいけど……」
「言ったろい、おれにできることならなんでもしてやるって。名前が少しでも安心できるなら、ここにいてくれ。いつまた襲われるかもわからねェ部屋に名前を戻すわけにはいかねェし、新しい部屋に移ったところでまた狙われるかもしれねェ。おれもその方が安心できるから」
真摯な瞳を向けられて、目を伏せる。言葉に詰まり、混ぜる必要のないスープを掻き混ぜていると、マルコはさらに口を開いた。
「もしおれに気遣ってるなら、そんなことは考えなくていい。名前の不安を拭うためならおれはなんでもする」
私の心の中を見透かしたように言われれば、もう拒むことは出来なかった。後者はもちろん彼の優しさだとわかっている。それでも、ただ純粋に私を思ってくれていることが伝わり、胸の奥がぐうっと熱くなってしまう。自分さえしっかりしていれば、こんな事態を招いたりしなかったのに。
私は心苦しさを感じながら、そっと顔を上げる。
「……ありがとう、マルコ。迷惑掛けてごめんね」
「迷惑だなんてこれっぽっちも思ってねェよい。これからはいつでもそばにいるから、遠慮せずに頼ってくれ」
温かな言葉に心が揺れ、瞼がじんと熱くなる。潤みそうになるのを堪えながら彼の瞳を見つめれば、再び抱き寄せられた。肩の力が抜ける。もう身体は強張らなかった。胸の中に包まれながら、ようやく心が穏やかになるのを感じた。ここにいればマルコが守ってくれる。一人で怯えなくてもいい。彼の厚意に甘える形になってしまったが、私はもうこの温もりを手放したくなかった。
食事を終えると、マルコが食器を片し紅茶を淹れてくれた。三日ぶりの紅茶。優しい香りに鼻先をくすぐられながらカップに口をつけると、ほわほわと身体がほぐれていく。安心したからか、加えたお酒のせいなのか、飲みながら会話をしていると、徐々に襲ってくる眠気。うとうとし始めると、手のひらに包んだカップをマルコがそっと外し、ナイトテーブルに戻してくれた。
「眠れるなら、眠るといい」
ずっと眠れてなかったんだろい、とベッドに座っていた私を寝かせ、肩まで毛布を掛けてくれる。眠い。けれど、怖い。この三日間で染み付いた恐怖は簡単に剥がれてくれそうにない。必死に眠気に抗っていると、マルコが頭を撫でてくれる。毛布の中で硬く握り締めていた拳をやんわりほどき、繋いでくれる。
「名前が眠るまでここにいるから」
「でも……仕事、まだあるんじゃ?」
「そんなことは心配しなくていい。ここには誰も来ないから安心して休め」
穏やかな声音と、安心する言葉。そして、手のひらから伝わる体温に、ぼんやりと意識が遠くなる。それを見計らったようにランプの灯りが調節され、安らかな心地に包まれていく。繋いだ手に力を込めると、きゅっと握り返してくれる彼の存在と暖かさを感じながら、私は静かに眠りの淵へと落ちていった。
