Novel

あの日には戻れない - 01

──ああ、夜がまたやってくる。

天井に吊るされたランプの影が、ゆらりと揺れる。膝を抱えてベッドに座り込んだ私は、冷たいシーツにくるまり、ひたすら息を殺して閉ざされた扉を見つめた──

名前

朝、仕事の時間になり部屋を出る。重い身体を引きずりながら隊員たちの列に紛れて廊下の隅を歩いていると、不意に声を掛けられた。同時に肩を叩かれ『ひっ』と悲鳴が漏れそうになる。よく知るその声にどうにか口はつぐむが、身体の反応は抑えられない。ビクッと肩が跳ねてしまった。

「……どうかしたのか?」

ドクン、ドクン、と鼓動が激しく鳴り響く。落ち着け、落ち着けと呪文のように繰り返すが、動悸は治まらない。荒い呼吸を必死に抑え、動揺を悟られないよう平静を装って私は振り向いた。

「……ううん、ごめんね。眠くてぼんやりしてたから、ちょっと驚いただけ」

声を掛けてきたのは、私が所属する隊の隊長であるマルコだった。本来なら敬称をつけるべきだが、彼が隊長に上がる前から懇意にしているため、敬称なしで呼ばせてもらっている。そんな彼に努めて普段通りに振る舞うが、彼は眉をひそめ、顔を覗き込んできた。

「顔色が良くねェな。眠れなかったのか?」

心配そうに伸ばされた手が、ゆっくりと頬に近付いてくる。

「……大丈夫、だよ」

その手から逃れるように一歩下がり、私はやんわりと避けた。自然に行動したつもりだけど、あからさまだったかもしれない。空を掻いた手のひらを見て、彼は訝しげな視線を寄越した。

「……本当に? 何か様子が変だよい」

「平気だよ。ところでどうしたの?」

詮索されたくなくて、話題を変える。マルコは不満そうな顔付きだが、就業時間まであと少ししかない。普段は仕事の時間に余裕を持って部屋を出るが、今朝はみんなが起き出した頃に少しうとうとしてしまい、遅れたのだ。今日はこのあと訓練が待っている。隊長の彼はみんなに指示を出すため、落ち着いて話をしている暇はないだろう。

用件を尋ねると、彼は釈然としない様子を見せながらも話を切り出した。

「昨日は部屋にくると思ってたんだが、こなかっただろい。眠れてるならそれでいいが違うようだしな。何かあったのか?」

「……別に、何もないよ」

「でも三日もこないなんて珍しいじゃねェか。今日はくるんだろい」

「う、ん……どうかな。少し体調も悪いし、行かないかも」

夜、マルコの部屋へ行くのは、昔からの習慣だった。夕食後に部屋へ行くと、紅茶好きの私のためにマルコが淹れてくれるのだ。彼の部屋にはポットが置いてあるから。熱い紅茶に強めのお酒を少し垂らして飲むと、寝付きの悪い私でも朝までぐっすりと眠れる。最初の頃は毎晩食堂まで淹れに行っていたが、夜の食堂はお酒を楽しむ人が大勢いる。酔った仲間に話しかけられるうちに眠気が吹き飛び、つい寝不足に……と繰り返すうち、見兼ねたマルコが誘ってくれた。

それ以来毎晩のように甘えていたのに、数日顔を出さないから心配してくれているんだろう。本当に面倒見がいい。だけどその気遣いが、今は少し煩わしい。

「体調が良くねェなら、今日の訓練は休んどけよい」

「うん、でも、訓練はしておかないと」

「……そうか。まぁ、無理だけはするな。気分が悪くなったらすぐ言えよい」

「わかった」

──そう返事をしたのに、私はこのあと訓練の途中で倒れてしまった。

強烈な眩暈に襲われた瞬間、手足の重みに引っ張られるように地面に吸い寄せられ、視界が暗転したのだ。

原因は自分でもわかっている。

マルコの部屋に行かなかったこの三日間、私はほとんど眠っていなかったから……

目が覚めて、最初に見たのは見慣れぬ天井だった。次に中身の詰まった大きな本棚。横たわっているベッドシーツは海のように青く、脇に置いてあるナイトテーブルの上には分厚い本が数冊積まれていた。

すっきりとした、飾り気のない部屋だ。

てっきり医務室に運ばれていると思っていたが、ここはどこだろう。見覚えがあるような気もするが……と考えている最中、不意にガチャリとドアノブが音を立てた。ギクッと全身が強張る。身体に掛けられていた毛布を硬く握り締め、私は息を詰めた。

「起きたのか」

扉から覗いた顔に、ほっと指先の力が抜ける。

「マルコ……」

「具合はどうだい」

「もう、大丈夫」

優しい声音に答え、ゆっくりと身体を起こす。頭は少し重いが、気分は悪くない。

私は部屋をキョロキョロと見回しながら問いかけた。

「ここにはマルコが運んでくれたの? 誰かの部屋?」

「ああ、おれの部屋だよい」

寝室の、と付け加えられて納得する。見たことがあると思ったのはそのせいだ。

マルコの部屋は来客が多く、それでは気が休まらないだろうと、オヤジが奥の部屋を船大工に改装させて寝室にしたそうだ。一度見せてもらったことはあるが、その時にはなかった本棚と、シーツの色が変わっていて気が付かなかった。普段は部屋にお邪魔しても、寝室には立ち入らないから。

「心配したよい」

いつもの余裕はなく、マルコが眉根を寄せて私を見る。膝が崩れて視界が暗くなる刹那、遠くから走ってくる彼の姿が目に焼き付いている。

「ごめんね、マルコ。倒れて迷惑掛けた上にベッドまで占領しちゃうなんて……」

「気にすることじゃねェよい。それより倒れた理由は、睡眠不足による過労だ。飯もまともに食ってねェんだろい」

「……」

船医であるマルコに診断されては黙る他ない。睡眠が足りてないことは自分でも承知している。その理由も、食事がとれない理由も。

「何があったんだ?」

今朝よりも断定的な口調で問われてしまう。答えるわけにはいかなくて黙り込むと、ベッドの端に腰掛けたマルコが覗き込んでくる。

名前

視線から逃げるようにうつむいた頭に伸びてくる、大きな手。髪を撫でられ、ビクッと肩が跳ねた。その瞬間マルコは動きを止め、手を離して私を撫でるのをやめた。

「倒れる前のこと、覚えてるかい?」

「…………」

「模擬戦中だ。名前が倒れた時、組み合ってた相手の獲物がほんの少し腕を掠めた。それで手当をしたんだよい。名前が気を失ってる間にな」

ぎくりとして、腕を見る。模擬戦では緊張感や精度を上げるため、実弾や実際の刃を使用することがある。今日の演習が正にそれだった。

視線を下ろした先、長袖シャツの生地に指二本分ほどの小さな裂け目がある。衣服の上から触れると、薄いガーゼが貼られているのがわかった。触れると同時にピリッと鋭い痛みが走るが、痛みなんかどうでもいい。一気に喉が干上がり、心臓が嫌な音を立てる。

「傷は手首の少し上だったから、袖を捲って処置したんだが」

頭から氷水を掛けられたみたいだった。全身が冷たくなる。ドク、ドク、と鼓動が耳奥で鳴り響く。

袖を捲って、彼は何を見た?

顔を上げることもできず、私はじとりと汗ばむ手でシャツの袖を握り締めた。

「……それは、合意の行為かい?」

「っ!」

たくし上げられて露わになった手首には、縄で縛られたような赤黒い痕が色濃く残っていた。その痕を、じっと見つめる瞳。拘束されてできた痕なのは誰の目にも明らかだった。

「離して……!」

凍り付いていた私は彼の手から自分の腕を引ったくり、乱暴に袖を戻す。

「その様子だと、違うみたいだな」

「…………」

顔を伏せたまま、私は唇を噛み締めた。

痕を隠すため、手首にはずっとサポーターを巻いていた。なのに、今朝は眠ってしまったせいでつけ忘れたのだ。後悔しても遅い。嘘をついて誤魔化す技量もない私の様子に、マルコは察したようだった。

秘密を知られてしまった、彼に。

誰にも知られないように気をつけていた秘密を。

「相手は、誰だ」

マルコの声は普段の声音ではなかった。感情をぐっと抑えたような低い声。そんな声で問われても、答えられない。答えることはできない。相手が誰かなんて、私も知らない。

だって、私は強姦されたのだから。

信頼できる仲間しかいない船の中で、家族のように慕っている誰かに、私は犯された。自室で、眠っている時に。

いつ忍び込んだのかわからない。ただ気が付くと、手首を頭上で拘束され、両足は膝を立たせて開いたまま閉じられないよう棒か何かで固定されていた。目隠しまでされて、抵抗しようにも身体は動かず、パニックで叫ぼうにも、口もテープのようなもので塞がれていた。

助けも呼べず、逃げることもできず、恐怖に怯える私を、男は犯した。

全身を撫で回し、ねっとりと舐め上げ、しゃぶって、吸って、指を突き立て、中を掻き回して……

泣いても、暴れても、男は一言も発さず荒い息を耳元に吐き出しながら、私の身体を貫いた。貪るような腰使いで、最奥を抉るように何度も何度も打ちつけた。そうして皮膚がただれそうなほど熱い白濁を私に浴びせ掛け、全身がベタベタになるまで男はその行為を繰り返したのだ。

耳に響く粘着音と、肌がぶつかり合う音。塞がれた唇から漏れるくぐもった悲鳴。永遠とも思える時間。頭がおかしくなるほどぐちゃぐちゃに犯され続け、もう何度目かわからない男の精を受け止めた時、そこで意識がぷっつりと途絶えた。

次に目を覚ました時は、全てが終わっていた。

身体は綺麗に清められ、シーツも清潔なものに取り替えられていた。男もどこかへ消えている。窓から差し込む陽光も清々しく、まるで昨夜のことは夢だったと思うほど、何事もないような爽やかな朝だった。

しかし、手足に残る戒めの痕と、全身に散らばる夥しい情交の痕が、昨夜の出来事は現実だと突き付けていた。

それからは、男が再び襲いにくるのではないかという恐怖が夜を覆い尽くした。私を犯した人物は船の中にいる。眠るとまた手足を縛られ、襲われるのではないか。その怯えが、その恐怖が、気が狂いそうになるほど心を縛りつけた。

食事も喉を通らない。ストレスと睡眠不足。四六時中緊張状態で神経をすり減らし、心身共に限界寸前だった。今に倒れるとわかっていながら、どうすることも、どうすればいいのかも、わからなかった。

「誰にやられたんだ?」

「……」

名前、答えてくれ」

「……しら、ない」

喉から出た声はかすれ、震えている。

悲しみやおぞましさが湧き上がり、胸が押し潰されそうだった。

「そいつを庇ってるのか」

「……ちがう。でも、マルコには関係ない」

「そうもいかねェよい」

「関係ないって言ってるでしょ、首を突っ込まないで」

名前……」

「いいから、放っておいてよ……!」

思わず叫んでしまい、激しく後悔した。最低だ。こんなのただのヒステリー。八つ当たりだ。マルコに怒りをぶつけても仕方ないのに。彼はなんにも悪くないのに。だけど心の中がぐちゃぐちゃに乱れ、歯止めが利かなかった。

名前

低く、落ち着いた声が名前を呼ぶ。自分勝手なひどい感情を暴走させたのに、マルコの態度はひとつも変わらない。穏やかな瞳を向け、私を優しく諭す。

「お前が苦しんでるのに、黙って見過ごすことはできねェよい。言いたくねェなら無理に話せとは言わねェ。でも一人で抱えたままじゃ、お前が壊れちまう。今だって倒れたばかりだろ」

「……」

「心配なんだよい」

そっと、マルコの手が私の頭に触れる。再び肩が跳ねたけれど、今度は離さず、大きな手は私の頭を撫で続けた。

「話せるところまででいい。おれにできることはなんでもしてやる。だから、話してくれ」

マルコはそう言ったきり、口を閉ざした。私の言葉を静かに待ってくれている。大きくて、温かい手は、ずっと私の頭を撫でている。優しく、労わるように。

「……相手は……わからない……」

どれくらい、静寂が流れただろう。

痛いほど静かな部屋で、私は独り言のようにぽつりと呟いた。

「気が付いたら、縛られてて……目隠しされてて……」

口に出した途端、身体を奪われた恐怖がまざまざと蘇ってくる。じわっと視界がぼやけ、下唇を噛む。こんなことで泣きたくないのに、瞳に熱が溜まっていく。溢れたがるものを堰き止めるけれど、あっけなくこぼれた雫が一粒、ぽた、とシーツに落ちた。

「っ……マルコ、……」

男の荒い息。全身をまさぐる手。身体中を這う舌。無理やり押し込まれる感覚。

ガタガタと身体が震え出す。

嫌だった。怖かった。苦しかった。辛かった……

「……っ、私、犯された…の……」

ぽたぽたと、震える指先に涙がこぼれ落ちる。抑えることもできず、声を殺して泣きじゃくる私をマルコがそっと抱き締めた。身体は彼を拒絶するように強張ったが、温かい手は背中を優しく撫でつけ、私を包み込んだ。彼の胸に額を擦り付けて、シャツを握る。マルコの胸の中で、私は涙が枯れ果てるまで泣き続けた。

その間、マルコは一言も発さず、ただずっと私の背中を撫で続けてくれた。

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