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愛していると言ってくれ - 10

名前と話したあと、船はすぐ島に到着した。

久々の上陸にクルーたちは大はしゃぎで陸へ降りて行く。

おれはいくつかやらなきゃいけない仕事があって、先にそれをこなしていると、買い出しを終えたエースが部屋へ来ておれを飲み屋に誘った。

先に名前を誘ったが、断られたらしい。

名前が誘いに乗らなかったことに内心ホッとするが、そういえば仕事だと言っていたなと思い出す。

もし、仕事がなければエースの誘いに応じていたんだろうか。

さっきの睦まじい様子を見れば、それもあり得そうで……

そう考えると、また胸の中に得体の知れないモヤが広がり、とてもエースと酒を交わす気分にはなれなかった。

飲みに行った先で名前の話を聞かされるのも嫌で、エースには仕事だと断りを入れ、本当に山積みの書類を片付けるべくおれは事務机に向かった。

陽が落ちて、船番以外のクルーがほとんどが島へ降りたせいか、いつになく静かな夜。

書類仕事に専念するのに、こんなに打って付けの夜はないはずだ。

なのに全く集中出来ない。

文字が頭に入ってこない。

原因は、わかっている。

……エースに向けていた名前の笑顔が、頭の中で何度も再生されるから。

────くそっ、

一体なんだってんだよい!

書類は数枚しか仕上げていないのに、時間だけは過ぎていく。心を乱されている内に夜は更け、もう深夜だ。

一向に捗らない書類を前にイライラは募るばかり。

いっそ、島へ降りて酒でも煽ろうか────

そう思い、ペンを投げ出した時だった。

ふと、静かな部屋に響く、小さなノック音。

誰だ…………?

こんな時分に。

名前か? いや、名前ならノックはしないし、そもそも今日は来れないと言っていた。

しかし、名前かと考えたとき一瞬胸が跳ねた自分に気付き、苦い息を吐く。

無意識に名前の訪問を期待しているのか、おれは……

壁の時計は丁度零時。

見張りが交代する時間だ。

どうせ、見張りを終えたクルーが奢って欲しさにおれを飲み屋へ誘いに来たんだろう。

そう考えたおれは椅子を回転させ、軽い気持ちで中へ促した。

……が、扉を開けた人物に面食らってしまう。

「お久しぶりね、マルコ。元気にしていたかしら?」

カツカツとヒールの足音を鳴らし、相変わらずのナース服姿で現れた女は、口元に弧を描きながら部屋に入ってくる。

そして目の前までくると、おもむろに胸元のファスナーを下ろし、下着のついていない乳房をぷるんと弾けさせ、おれに見せ付ける。女はそのままファスナーを裾まで下ろしナース服をはだけさせると、おれの膝に跨った。

「…………おい、突然押しかけて来て、いきなり何やってんだよい。下着はどうした」

「あら、喜んでくれないの? 前はこうして胸を触るのが好きだったくせに」

「うるせェよい。昔のことを掘り返すんじゃねェ。お前ェはいまサッチと付き合ってんだろが」

「……やだ、まだ聞いてないのね? 別れたのよ、私たち。身体の相性がイマイチだったの。何度か抱かれたけど、マルコとは比べ物にならなかったわ」

「はあ?」

女の言葉に鼻白む。

あれだけ好きだ好きだと言って、あっさりおれを捨てて乗り換えたくせに。

身体の相性が合わないくらいで別れるか、普通。

「だから……ね、マルコ」

女は妖艶に微笑んで、

「私たち、付き合わない?」

紅い唇をそっと寄せ、おれのそれに重ねた。

愛していた。

そう、愛していたんだ。

いつかサッチの元から戻ってきて欲しいと願っていた。

…………でも今は、心が全く動かない。

馴染んでいた唇も。

好きだった女の香りも。

今は違和感しか感じない。

おれの脳裏に浮かぶのは…………

はにかむように微笑む、名前

花のように甘い香りがする、名前

おれのキスに恥ずかしそうに応える、名前

…………そう、お前じゃない。

口付けしたまま離れない女の肩を掴んで押し返そうとした時だった。

────コン、

と、入り口の方から鳴る、小さな物音。

同時に感じた人の気配にぎくりとして。

咄嗟に視線を移したおれは、一瞬息が止まった。

「…………ッ、……」

なんで…………?

なんでここにいる……?

仕事だって言っただろい。

来れないって言っただろい。

なんで、そこにいるんだよい…………

なんで、そんなに……

今にも泣き出しそうな顔してるんだよい。

「……あの……私、ごめんな、さっ、……お二人の邪魔する、つもりじゃなかったんです、すみません……っ」

扉の前で立ち尽くしていたそいつは、ひどく取り乱しながら頭を下げると部屋を飛び出して行った。

────バタン、

と、閉まる扉の音に、ハッとする。

まて、

まってくれ…………

「…………っ、名前……!!」

おれは膝に乗っかる女を払い退け、名前を追いかける。

今にも雫が落ちそうなほど目を潤ませて、キスしているおれと女をじっと見ていた名前……

なんだって、あんな場面見られちまうんだよい!

気持ちが焦る。

部屋を出てひと気のない廊下を走ると、少し先に名前の姿を見つけた。

名前は覚束ない足取りで、壁に手をつきがらフラフラと歩いている。

名前っ! 待ってくれ……!」

追いかけて、手首を掴む。

歩みは止めるが、振り向いてはくれない。

それでも構わず、名前の背中に向かって言った。

「聞いてくれ! 今のは誤解なんだ! あの女とは何でもないんだよい!」

名前とは身体だけの関係で、付き合ってるわけじゃない。なのになぜ追いかけてまで必死に釈明しているのか自分でも説明が付かない。

でも、伝えずにはいられなかった。

名前はおれの言葉に、力なく首を横に振る。

「………いいんです。私はとやかく言える立場ではありません……それより、早く戻ってあげてください。あの人、待っているんですよね」

「あいつのことはどうでもいいんだよい!」

急に現れて好き勝手に振る舞う女を思い出して忌々しげに顔を歪めると、名前はゆっくりと振り返って、おれを見る。

涙の筋が残るその顔に、無理やり作ったような笑顔を張り付けて。

「…………ダメですよ。好きな女性のことをそんな風に言うのは」

「……なっ、」

唐突に言われた言葉に、絶句する。

しかしすぐに正気に戻り否定しようとするが、ふっと哀しげに笑う名前の表情に釘付けになり、声が出せなかった。

「……私ね、本当は知ってたんです。マルコ隊長があの人を本気で好きだったこと。だから、あの人がサッチ隊長と付き合ったって聞いたとき、もしかしたら私にもチャンスがあるんじゃないかって思って、お酒を口実にマルコ隊長を誘ったんです。もし酔った勢いでも身体を繋げれば、マルコ隊長が私を見てくれるんじゃないかって、好きになって貰えるんじゃないかって、そんなずるいことを考えてました。…………でも、やっぱりダメですね……」

名前は、どこを見ているのかわからないような遠い目をする。

「そんなことをしても、マルコ隊長は私を見てくれなかった。船が島に着いても……私はどこにも連れて行って貰えなかった。人前で声を掛けることすら許されなかった……」

皮膚が切れてしまいそうなほど、ギュッと噛み締める唇から出る声は、聞くのが辛くなるほどに震えていた。

「…………最初はね、よかったんです。私、マルコ隊長のことが好きだったから……マルコ隊長に触れて貰えるのが嬉しくて、毎日泣きたいくらい幸せでした」

少しだけ微笑んだように見えた顔に、すうっと昏い翳りが差していく。

「……でも、いつからかな……? 身体を繋げても心は繋がらないんだって分かり始めて、それが段々苦しくなってきて……気持ちの噛み合わない関係を続けるのが、虚しくなってきて…………あの人の代わりに抱かれてるんだって思うと、自分が惨めで、情けなくて、辛くて仕方なかった。だから、丁度良かったんです。あの人も戻ってきたんですよね。……だったら、こんな関係……」

────もう、終わりにしましょう。

言葉をつまらせながら、だけどはっきりと名前は言い切った。

全然きちんと笑えてなんかいないのに、そんな泣きそうな顔してるのに、笑顔を懸命に作り、名前はこの歪な関係に終止符を打つ。

おれは、なんにも言えなかった。

全部名前の言う通りだ。

名前を島へ連れて行って喜ばそうなんて気持ちは、微塵もなかった。

一度だけ、名前から一緒に島に降りたいと言われた時も断った。

どうせ島に降りてもする事は船と一緒。

ホテルへ行ってやるだけだろ、と。

そう言った時、名前は哀しそうに俯いていた。

でも、おれは名前と二人でいる所を誰かに見られるのが嫌だった。

名前との関係を知られたくなくて周囲にひた隠し、それを名前にも強要していた。

日を追うごとに名前は元気をなくしていたのに。目に見えてわかっていたのに。

話を聞いて欲しいと名前に言われた時も、おれは聞かなかった。

優しい言葉の一つもかけてやらず、名前の気持ちに蓋をして、見えない振りをした。

ただ名前の身体を好きに抱き、突き放して、追い詰めた。

そんなおれが、いまさらなにを言う?

「もう、行きますね。仕事を抜けてきたので戻らないと……あの人とお幸せに……さようなら、マルコ隊長……」

別れは、こんなにも呆気ないものなのか……

名前は感情を押し殺したような声でさよならを告げると、おれの手をするりと離れ、薄暗い廊下の向こうに吸い込まれて行った。

名前の後ろ姿が暗闇に溶け、足音が完全に消え去っても、おれはしばらくその場所を動けず、ただ暗闇をぼんやり見つめていた。