Novel
愛していると言ってくれ - 03
あれから、一週間。
食堂での会話に聞き耳を立てていたクルーたちの間でサッチと女のことが噂になり、どこへ行っても二人の話が耳に入るようになった。
360度大パノラマの大海原にいては、つまらねェゴシップもすこぶる娯楽で。
どこか島にでも着けば、くだらない噂話なんかあっと言う間に吹き飛ぶが、生憎次の島までまだ二週間近くある。
しかも、噂話を聞いた奴らの中にはエースと同じ質問をおれに浴びせてくる奴らも大勢いて……表面上、軽くあしらってはいるが、胸中穏やかじゃない。
好奇心まじりの話題を振られる度に、不快で忌まわしい記憶が胸を占めていく。
甲板にいると嫌でも聞こえる耳障りな噂話から逃げるように、近頃おれは人の寄り付かない船尾に身を置いていた。
「……あ、あのっ、マルコ隊長!」
その日も書類仕事の合間に船尾で一服していると、ふと女の澄んだ声が背中を打った。
声で違うとわかるのに。
あの女はサッチとよろしくやっているのに。
それでも、一瞬あの女じゃないかと期待する自分に嫌気がさす。
苦々しいため息をつき、振り返り声の主を捉える。
潮風になびくグレージュ色の髪を押さえながら数歩先に立っているのは、ナースの名前だった。
名前は乗船二年目で、この船じゃまだまだ新米の部類。歳は確か二十歳やそこらのはずだ。近頃の若い女らしく、肩までの髪を緩めに巻いている名前は、他のナース連中のような妖艶さはないが、黒目がちの大きな瞳と、ふっくらしたピンクの唇が可愛い、と若いクルーたちからの人気は高い。
「どうした、何か用かい」
「あの、その…………」
自分から声を掛けてきたはずなのに、名前は俯いたまま落ち着かない様子で言い淀んでいる。
まさか、名前もあの噂話を耳にして、おれにあの女との関係を訊きに来たんじゃないだろうな。
それなら早く追い払おうと、もう一度問い掛けると、名前は覚悟を決めたように顔を上げた。
「今晩、空いてませんかっ!?」
「………………は?」
意表を突かれ、思わず聞き返してしまう。
名前はおれの反応に慌てて言葉を付け足した。
「あの、実は、マルコ隊長が前に好きだと仰っていた銘柄のお酒が手に入ったんです。だから、もし良かったら今晩、一緒に……」
──ああ、なるほど。
おれを誘いにきたのか。
名前の意向がわかり、ほっと息をつく。
あの女の話じゃなくて良かったと安堵しながら、改めて名前を見る。
頬は真っ赤に染まり、胸元に置かれた手は微かに震えている。
新人ナースと、一番隊隊長。
しかも、船医者でもあるおれは名前からすれば、直属の上司であるナース長よりも上の立場にいる存在だ。
そのおれを誘うのは、余程の勇気が要ったのだろう。
だが、緊張している“理由”がそれだけじゃないことを、おれは知っている。
名前がおれに対して憧れ以上の想いを抱いているのは、以前から気付いていた。
おれが話しかける度、こうして頬を桜色に染め、嬉しそうにはにかむ名前の気持ちに気付かないほど、おれは鈍感じゃない。
だがおれにはあの女がいたし、歳が離れ過ぎている名前を気にとめたことは一度もない。正直、眼中にもなかった。
今だって、そうだ。
特別何とも思っちゃいない。
普段のおれなら、誘いをきっちりと断り、男と二人っきりで酒を飲むのはよせ、と忠告しているはずだ。
──なのに、何故だろう……?
ナース服姿の名前が、あの女と重なり、無性に傷付けて、壊したくなる。
名前の好意を利用して弄べば、あの女に与えられたやり場のないこの鬱憤と屈辱が晴れるかも知れない。
そんな黒い感情が、頭をかすめる。
「……あの、ダメでしょうか?」
おれを不安げに見上げる、名前。
その黒い大きな瞳を見つめ返し、おれは口角を上げる。
「大歓迎だよい。夕食後におれの部屋でいいかい」
途端に名前はパァッと顔を綻ばせ、満面の笑みを咲かせる。
「はい! ありがとうございます!」
純粋に喜び、嬉しそうにお辞儀をする名前を見ても、罪悪感なんて感じなかった。
在るのは、あの女に与えられた怒りと痛みだけ。
それをぶつけられるなら、相手は誰でも良かった。
ただ、捌け口が欲しかった。
