Novel
365日の光 - 08
「がはは、やめときな、姉ちゃん。こいつらを助けたいのはわかるが、玉砕覚悟で突っ込んでも無駄だってわかってんだろ?」
しゃがれた声で笑う男の言葉はもっともだった。
無茶は承知の上。だが、他に親子を救う手立てはないのだ。
だから、私は剣を抜いた。
……はず、だった。
それなのに刃が鞘に収まったままなのは、呑気そうに話すその男の手が、私の剣の柄を押さえているからだ。
いつ動いたのだろう。
全く見えなかった。
「な? 無駄だろ。それより建設的にいこうぜ。こいつらを助けたいならいい方法がある」
身構える私に、男はその方法とやらをそっと耳元に囁いた。
その内容に驚いたものの、しばらく悩んだ私が頷くと、男はにやりと笑い、親子に帰っていいと告げた。
「まてよ、船長。おれの獲物だぜ。なんで勝手に決めんだよ」
どうやらこの二人は船長と部下のようだ。
道理で船長の方に威圧感があると思った。
意を唱える部下に、船長の男は私にしたように耳打ちする。
すると、部下の男が私に遠慮のない視線を寄越し、品定めをするようにじろじろ全身を眺めた。
それから、親子に視線を移すと片手をヒラヒラさせて。
「やっぱりお前ら、帰っていいぜ」
さっきと打って変わった男の言葉と態度に困惑する母親。
私は男の気が変わらない内にこの場を去って欲しくて、私と男を交互に見る母親に力強く頷くと、母親はお礼を告げながら男の子を大切そうに抱えて雑踏の中へと消えていった。
……ああ、良かった。
無事に親子を逃がすことができた。
「さて、じゃあ、おれたちも行こうか」
親子が去った途端、船長の男が私を促す。
ホッと一息つく間もない。
「しっかりついてこいよ。逃げたら殺すからな」
行くしかないか……と諦めて、私は重い足取で歩き出す。
男たちは、私がついてきているのを確認すると、すぐに大通りを外れた。
裏道へ入ると、周囲の雰囲気がガラリと変わる。陽の当たらない薄暗い路地に、飲食店から出されたゴミ袋を漁るカラス。
くねくねと狭い路地を曲がる男について行くと、さっきまでの喧騒が嘘のように静かになる。ひと気もない。
自分たちの足音しか聞こえなくなると、男らは2人で話を始めた。
「悪ぃな、船長。ちょっと目立っちまったか」
「まあ、いいさ。明日にはこの島を出る予定だからな」
「だったら、さっきの女も拐えば良かったじゃねぇか」
「ガキ産んでるんだぜ?この女の方がいいに決まってんだろ」
「それはそうだけど、女1人だとすぐにへばっちまいそうで」
「気ィ失ってもヤればいいだろ。意識のない女を犯すのも、なかなかオツだぜ」
「相変わらず、船長は鬼畜だな」
「お前だって似たようなモンだろ、このケツ好きが。どうせおれが突っ込んでる最中、お前はこの女のケツに突っ込むんだろ」
「へへ、当たり前だぜ。ただでさえギュウギュウのケツの穴が前にもぶち込まれてると、ガッチガチのギッチギチでよ……あー、たまんねェ。早くぶち込みてェ……」
次々と流れるおぞましい会話に、ゾッと身震いがする。
確かに先程親子を見逃す代償として、自分たちが満足するまで体を差し出せと要求され、従うと約束した。
もちろん方便だ。
こんな奴らに体を差し出すなんて無理。
死んでも無理。
隙をみて必ず逃げてやる。
こう見えても逃げ足だけは自信があるんだ。
歩き始めて、数分。
そろそろ逃げなきゃヤバイかな。
ちょうど奴らはゲスな会話に夢中だし、私を気にする素振りもない。
それに、いま通ってきた路地は枝分かれの細い道がたくさんあった。逃げるにはもってこいだ。
周囲に人の気配もない。
まさにチャンス。
次に奴らが角を曲がったら、逃げよう。
そう算段つけて様子を伺っていると、奴らが角を曲がった。
いまだ……!
男たちの姿が完全に視界から消えた瞬間、踵を返し全力疾走する。
無我夢中で走った。
来た道とは異なる角を2つ曲がり、走る。また2つ曲がって背後を振り返る。
男の姿はない。
どうやら上手く撒けたようだ……
ここからは用心して進まなきゃ。
呼吸を整え慎重に気配を探りながら前を向いた瞬間、硬い何かにぶつかった。
「…………おい、逃げたら殺すと言っただろ」
「え、ぁ、ぅぐ……っ!」
目の前にいたのは、船長の男だった。
なぜ私の前にいるのかわからない。
恐怖に喉が引きつる。
反射的に逃げようとしたが、血管の浮いた分厚い手に首を掴まれ阻まれる。
男の手は私の首を易々とへし折るほどに大きい。その手が私の体を宙に持ち上げる。体重が首にのしかかり、頭の後ろがキュッと絞られたように痛くなる。声が出ない。苦しい。
男の手を振りほどこうと持ちうる限りの力で抗うが、1本が私の3本分はありそうな頑丈な男の指はビクともしない。
ごつい指、ごつい腕、ごつい体。
死にもの狂いで暴れても男は平然としている。
必死になって両腕を振りわましていると、胸のポケットからパサリと何かが落ちた。宝物だ。そこには私の宝物しか入れてない。
「なんだ? 船長、そいつ何か落としたぜ」
しまった、と思う間もなく部下の男が目敏く見つけ、広げて中を見る。
「っ!! せ、船長! これ、手配書だ! 不死鳥マルコの、白ひげの1番隊隊長の手配書! この女! なんでこんなもん持ってんだ!」
「……なんだと? 寄越せ」
船長の男は、私の首を掴んだままマルコ隊長の手配書を受け取り、視線をちらりと向ける。
瞬間、男は忌々しげに顔を歪め、刺すような目で私に詰め寄った。
「……てめぇ、何でこんなもん持ってるんだ。このご時世、護身のために剣を持ち歩く女は大勢いるが、手配書を持ち歩く女は少ねェ。それも不死鳥マルコの手配書1枚だけ。なぜてめぇはこの手配書を持ってる。何モンだ?」
「ぐっ……返、っせ! お、まえに、かん、けい、な……っぐあぁあぁぁっ!」
お前に関係ないと言おうとした瞬間、薄汚れたブロック塀にガツンと頭を強打される。
こめかみの辺りが激しく痛み、一瞬意識が飛ぶ。
「質問に答えろ。何モンだ。海軍か? 賞金稼ぎか? 寝首を掻くためについてきたのか?」
「っく…………か、えせ………ぅぐっあああぁあ……っ!!」
手配書を取り返そうと手を伸ばす。が、届く前に、またもブロック塀に打ち付けられる。
頭がぱっくりと裂け、飛び散る鮮血が手配書に赤い斑点を作った。
「答えろ、女」
ドスの効いた声が、静かな路地裏に響く。
この場所に私と海賊しか居ないのが救いだ。
一般人を巻き込まずに済む。
しかし、なぜこいつらはマルコ隊長の手配書を気にしているんだろう。
……わからない。わからないが……ただ男の言う通り、海賊の手配書を持ち歩く一般人などいないのは確かだった。それも世間を騒がすルーキーではなく、広く顔が知れ渡っているマルコ隊長のものなど。
そして、こいつらはマルコ隊長の手配書に明らかな動揺と恨みを見せている。
おそらく、白ひげ海賊団、もしくはマルコ隊長個人と何らかの関わりがあるんだろう。
ならば、私が白ひげ海賊団の一員だと知られる訳にはいかない。
殺されるならいいが、捕虜や人質にされてオヤジやマルコ隊長を不利にするのだけは嫌だ。死んでも嫌だ。それだけは避けなければ。
刺青を彫る許しはまだもらえてないから、裸に剥かれてもバレないが……言動には充分注意しなくては。
私を海軍や賞金稼ぎと勘違いしているならその方が都合いい。絶対に言うもんか。
口を閉ざしたまま男をギロッと睨み付ける。割れた頭から口内に入り込んだ血液と唾を男の顔面に吐き付けた。
「チッ、この野郎……」
凶暴な顔面に青筋立てた男は手の甲で顔を拭うと、首を掴んでいる腕を勢いよく振り上げる。そして、ガツンガツンガツンと続け様に3度、私をブロック塀に打ち付けた。
「っあぐ……ぅぐぁっ、ぅあぁっう……」
ドクドクと多量に流れる血液が、男の手を伝い落ちて石畳を赤黒く汚していく。
視界は真っ赤に染まり、焼け付くような痛みと熱さで意識が朦朧とする。
「……強情な女だ、聞いても無駄のようだな。まあ、海軍だろうと賞金稼ぎだろうと殺しときゃ間違いねェだろ」
「勿体ねェな。久々の上玉だってのに」
「仕方ねェだろ。おれだって殺すのは惜しいさ。だが正体のわからねぇこいつを宿に連れて帰るのは危険だろ。……残念だな、こんなモノ持ってなきゃ、もっと生きられたのに」
グシャッ、とマルコ隊長の手配書を丸めると、男は嗤いながら汚い地面に投げ棄てた。
やめろ……
それは、私の大切な…………
霞む視界の中で、ゴミのように棄てられた手配書が、昔大切にしていたぬいぐるみと重なり奥歯を噛んだ。
多くを望んだことは一度もない。
なのに私が大切にした物はいつもこうだ。
誰かに取り上げられて棄てられる。
両親が残してくれたテディベアもそうだった。10年前のあの日、家に戻るなり教会を抜け出した罰だと叔母に取り上げられ、ゴミと一緒に燃やされた。
マルコ隊長が火を消してくれたのに……テディベアは叔母の手によって焼かれ、真っ黒な炭になった。
泣きながら炎に手を伸ばす私を制止する叔父と、それを見て笑う叔母と娘の姿が走馬灯のように脳裏に蘇る。
……きっと、私はここで死ぬだろう。
諦めると誓ったのに、未練がましくマルコ隊長の手配書なんか持ってるからバチが当たったんだ。
己の無力さを呪う。
イゾウ隊長の元であんなに訓練したのに、手も足も出なかった。
逃げることすら叶わなかった。
ごめんなさい、イゾウ隊長。
いっぱい鍛えて貰ったのに、私、何も活かせなくて。
ごめんなさい、オヤジ。
家族に迎えてくれたのに、私、何も返せなくて。
ごめんなさい、マルコ隊長。
せっかく助けて貰った命なのに、私、守れなくて。
最期にもう一度、あなたに会いたかった。
あの優しい青い瞳を、もう一度この眼で見たかった。
ゆらゆらと混濁する意識の中で、腰の剣に手を伸ばす。最期に一矢報いてやるつもりで力を振り絞り鞘から引き抜いた。
しかし、一太刀も浴びせることなく、剣は易々と男に奪われてしまう。
「へぇ…この状況でも立ち向かうなんて、見上げた根性してるじゃねェか。その度胸に免じてもう一度だけチャンスをやろう。不死鳥マルコの手配書を持っていた理由を明かせば、たとえてめぇが何モンだろうと生かしてやるよ」
男はそう言うと、私から奪った剣を部下の男に投げ渡し、少し離れた場所に立たせた。
そして、その場で剣を構えるように命じる。
「いまから3秒やる。それ以内に答えなきゃ、てめぇはあの剣で心臓を串刺しにされて、死ぬ。わかったな」
「……3」
「……2」
「……1」
あっという間にカウントが1秒を切る。
私は口を閉ざしたままだった。
誰が言うもんか。
オヤジやマルコ隊長の迷惑になるくらいなら、潔く死んでやる。殺せばいい。
「……ゼロ、だ。仕方ねェ、死んでくれ」
男が、私の身体を勢いよく放り投げる。
宙に投げ出された身体は、もう1人の男が構える剣の切っ先めがけてまっすぐ飛んでいく。
ギラリと鈍い光を放つ刃。
軽量化した細い剣とはいえ、心臓をひと突きされればひとたまりもないだろう。
だけどもう、身体に力が入らない。
血を流しすぎた。
指一本動かすこともできず、自分が呼吸しているのかもわからない。
苦しさも感じない。
視界が暗い。
感覚もない。
意識も保てない。
どうすることもできない。
だめだ……
もう………………
死が、脳裏を掠めたとき。
「────名前っ!!」
途切れる意識のなかで
鮮烈な青い炎が煌めいた。
