Novel
私が犯した過ち - 01
ここへ足を踏み入れるのは何年振りだろうか。
船長のホワイティベイに命じられ、私は古巣であるモビーディック号に来ていた。
相変わらず大きなオヤジ。
立派なヒゲも健在だ。
ベイ船長から託された書簡と土産の酒樽を渡すと、オヤジは「せっかく来たんだからゆっくりして行け、馬鹿娘」と宴を開いてくれた。
馬鹿は余計だけど、モビーを降り、自ら傘下の海賊団へ赴いた私をまだ娘と呼んでくれることは嬉しかった。
オヤジの一声で、甲板はあっという間に宴会場へと化す。
自分の背丈と変わらないオヤジの膝下に座り込んで杯を傾けていると、代わる代わるやってくる懐かしい面々。マルコやジョズやビスタ。彼らと航海したことは、今でも大切な思い出として胸の中に仕舞われている。共に思い出話に花を咲かせていると、日が暮れるのはあっという間だ。飲み始めた頃は水平線と真上の中間にあった太陽はとっくにその役目を果たし、辺りは薄い闇がたちこめていた。
昔よりも随分と人が増えたようだ。
船も大きくなった。
目まぐるしく動くクルーたちを横目に、少しだけ人と酒に酔ってしまった私は輪を抜け出し、風に当たることにした。
「久しぶりだな」
喧騒から逃れるうち、辿り着いたのは後甲板だった。
欄干に頬杖を付き、銀波をさざめかす宵の海を一人眺めていると、不意に背中を声が打つ。
低くて澄んだ、懐かしい声。
宴の席にはなかったその声に振り返ると、あの頃と何一つ変わらない姿のイゾウがそこに立っていた。別れた日からそのまま抜け出してきたような出で立ち。結われた黒髪も、藤色の着物も、赤い唇も、まるで変わっていない。彼の持つ独特な空気感も雰囲気も同じで、あれから八年もの歳月が流れたというのに、目の前の人物は私が愛した彼そのものだった。
「元気にしていたか?」
自然に笑えなくて、笑顔が引き攣ってしまう。
私は、彼に話さなくてはいけないことがあった。
かつて、恋人だった彼に。
「うん、イゾウは?」
「変わらずだよ」
「それは良かった」
秋島海域の夜風に吹かれながら、隣に並ぶイゾウを見て思い出す。過去のことを。
彼を初めて見たのは、ワノ国に上陸した時だった。
なんて綺麗な人だろう。男だろうか、女だろうか、そんな風に興味をもった。
そして、赤い唇から発せられた意外に低い声を聞いた時、ぞくっと背中が震えて嬉しくなった。男だったんだって。
でもそれはちょっとした憧れ。
本格的に好きだと感じたのは、彼がおでんと共にモビーに乗船してしばらく経った頃だった。
好きになった理由に明確なものはないと思う。
ただ、立ち居振る舞いや所作のひとつひとつが美しく、食べ方がとても綺麗で品があって、長い間、粗野でむさ苦しい男ばかりを見てきた私の目にはそのどれもが新鮮に映り、宴の余興で銃を構える真剣な横顔を見た時、ああ、この人が好きなんだ、と気付いた。
それからは、毎日目で追いかけた。
姿を捜して視線で追ううち、よく目が合うようになって、バチッと涼しげな瞳と鉢合い、慌てて俯きやり過ごす。
そんなのが何度も続いていたある日、彼の方から『付き合わないか』と声を掛けてきてくれたのだ。
落ち着いた雰囲気から年上だと思っていた彼は実は同い年で、白い頬に朱を注ぎ、どこかぶっきらぼうに告白してくれたその様子は年相応に見えた。
交際は順調だった。
退屈な船上も、イゾウがいれば毎日が楽しくて幸せで充実していた。
手を繋いで海を眺め、はためくシーツに隠れてキスをする。
新しい島へ上陸するたび冒険という名のデートに出掛け、色んな場所を二人で巡った。
そして付き合って二年もした頃は、おでんとトキさんの間に子どもが産まれ、幸せな二人を前に自分のことのように喜ぶイゾウに私まで嬉しくなった。かわいい赤ちゃんにほっこりしていると、いつかおれたちもああなろうな、ってイゾウがぎゅっと手を握ってきて……
おでんからは『イゾウを頼んだぞ』ってからかわれ、モモの助と名付けた赤ちゃんを抱いたトキさんには『子どもって可愛いわよ、イゾウとまだ作らないの?』なんて冷やかされたり。
記憶の中の思い出は、全部全部甘酸っぱいものばかりだ。
だけど、それからさらに二年の月日が過ぎた頃。ちょうど、おでんとトキさんに二人目の子どもが産まれた頃だった。
冷たい雪に覆われた冬島に上陸した際。今度は『日和』と命名された女の子に祝いの品を買ってくると先に島へ降りたイゾウは、その日船に戻ってこなかった。
前々から予約していた宿に泊まる約束をしていたのに。私の仕事が終わる頃に迎えにくるから一緒に行こうと言っていたはずなのに。
待っても、待っても、イゾウは帰ってこなかった。
新世界の天候は変わりやすい。
ついさっきまで晴れていた空は一瞬で曇天に包まれ、猛吹雪が吹き荒んでいた。私は心配になり予約していた宿に行こうとした。しかし、おでんに止められた。数十センチ先も見えないこの状況で知らない街を歩くのは無謀だと。イゾウも動けないんだろう、明日になれば必ず帰ってくるからそれまで待てと。
私は大人しく従った。冷静になれば、おでんの言う通りだと思ったから。
動けないだけ。明日には帰ってくると。
でもこの時、宿に行っていればきっと私たちは別れずに済んでいただろう。
翌日。
昨夜の吹雪が嘘のように晴れ渡った青空の下。
まぶしい一面の銀世界を踏みしめて船に戻ってきた足跡は、彼一人のものじゃなかった。
半年前に乗船したナースの足跡が隣に付いている。
二人は、一緒に帰ってきたのだ。
私は疑った。
イゾウはもちろん何もなかったと言う。
私との約束の時間が近付き、近道のために通った路地裏で男に乱暴されかけているナースを見つけ助けたんだと。
そのナースは他のナースたちと島へ降りていたが、迷子になり彷徨っているうちに男に絡まれ、暗い路地に連れ込まれたと言っていたそうだ。
イゾウとしては早く私を迎えに行きたかったが、ナースはひどく怯えていて、慰めの言葉をかけているうち猛烈な吹雪が視界を遮り、自分一人ならまだしもナースを連れて船まで戻るのは厳しい。そう判断し、付近にあった予約していた宿に入ったそうだ。もちろんナースには別の部屋を取るつもりで。しかし急な悪天候のせいで部屋は満室。やむを得ず同室で過ごしたんだと。
『誓って、手は出していない』
イゾウはそう言った。
私はそれを信じようとした。
けれど、ナースは言った。
『イゾウさんと寝ました』
どちらが嘘をついてるかなんてわからない。
でも、イゾウはワノ国の侍。
嘘はつかない。卑劣なことはしない。
言葉の重みを理解し、義理に堅く潔い。
そんなイゾウが手を出していないと言うなら、そうなのだろう。
でも、でも……
ナースは私に耳打ちしてきたのだ。
『イゾウさんの内腿のほくろ、色っぽかったです。三角形の。あんな際どい部分にあるんですね』
事実だった。
下着を脱がないと見えない位置に、確かにイゾウは三角形のほくろがあった。
よく見なければ気付けないほど小さなものが……
何を信じていいのか分からなくなった。
追い討ちをかけるように『二人が寝た』という噂が船中に広がった。
私は言ってない。おそらくイゾウも。
きっと、ナース自身が吹聴したんだと思う。
クルーたちは面白半分に言い合った。
『男だったらヤって当然だろ』
『でもあのイゾウだぜ』
『馬鹿か。イゾウも海賊なんだ。聖人君子じゃあるまいしヤるに決まってんだろ』
『ナースと二人なら俺も絶対ヤってる』
そんな言葉が飛び交っていた。
不信というのは一度芽生えると、拭いさるのはひどく難しい。
疑惑は日増しに大きくなっていく。
結果的に、私はイゾウを信じられなくなった。いや、信じていたけれど態度はそうじゃなかった。
『おれはやってない』
潔白を主張するイゾウに『わかってる』と言いながら泣き喚き、半ば半狂乱になって彼を責め立てた。
今なら本当にわかる。イゾウが手を出すわけがない。出すなら彼はその前に私と別れている。
イゾウはそんな男。
だけど、当時まだ未熟で子どもだった私は自分の感情にばかり目を向け、疑念を捨てきれなかったのだ。
「あの時は、信じなくてごめんなさい」
謝罪して、隣に立つ彼を見る。
イゾウは海に目を向けたまま、間一文字に口を引き結んでいた。
彼はきっとまだ怒っているんだろう。
逆の立場ならば、私も許せないと思う。
恋人に信じて貰えず、してもいないことをずっと責められるなんて。
「……実はね、半月ほど前に上陸した島で偶然あのナースに会って、真相を聞いたんだ」
とっくにモビーを降りていたナースは、その島で結婚して幸せそうに子どもを腕に抱いていた。
先に見つけたのは私で、呆然と固まる私に気付いたナースは、駆け寄ってくるなり深く頭を下げてきた。
『あの時はごめんなさい』と。
聞けば、というか、勝手に話し始めた当時の内容は、乗船した頃から自分はイゾウのことが好きで、けれど私がいるから諦めていた。しかし暴漢から助けてもらい、一晩同室で過ごして気持ちが抑えられなくなったんだと。
耳打ちまでして嘘をついた理由は、誘ったのに指一本触れてくれなかったイゾウへの腹いせと、私への妬み嫉みらしい。
それで二人が喧嘩でもして別れれば自分にもチャンスがあると思っていたそうだ。普通に考えれば自分を陥れる人物に好意を抱くはずないのに。でもあの時は周りが見えなくて、あんな馬鹿な真似をしてしまった。いまは後悔している、そして反省もしていると、彼女は言っていた。
“イゾウと寝た”という嘘を裏付けることになった彼の秘密を知っていたのも、なんてことのない理由だった。
無意識にイゾウを追いかけているうち、一緒に入浴した際それに気付いたおでんが本人に話しているのを耳にしたからだと。
タネが分かってしまえばこんなに単純なことなのに。
だけど、その頃の私には絶大な効果があったのだ。
結果的に別れに至るまでの。
「……まだ怒ってる、よね」
「まあな」
当然だと思う。
信じてくれって何度も言っていたのに全部撥ねつけたんだから。
「だがそれは、信じて貰えなかったからじゃない。お前が勝手にベイの船に行ったからだよ」
ああ、そうだ。
私の罪は彼を信じなかっただけじゃない。
あの頃ちょうどホワイティベイが独立して海賊団を立ち上げる話が出ていて。
もちろん白ひげ傘下の海賊としてだが、疑心暗鬼に苛まれていた私はオヤジとベイに頼んでその船に乗せてもらうことにしたのだ。
イゾウにも、他の仲間にも内密に。
「逃げるような真似して、ごめんなさい」
「いきなり船から消えて、オヤジに聞いても何も教えて貰えず、手配書でお前の所在を知った時のおれの気持ちがわかるか」
吹き止まぬ風が、彼の黒髪を一房解きなびかせる。
私はきちんと別れることもせず、彼の元から逃げ出したのだ。
『何もしていない』と何度も訴えていた彼を一人残して。
「おれはお前の誤解を解きたかった。疑わしいことをしたおれも軽率だった。だからこそ、お前が信じてくれるまで何度でも話し合いを重ねようとしていたんだ。なのに、お前は逃げた」
「……本当に、ごめんなさい」
謝っても謝りきれない。
イゾウは潔白で、悪いことは何もしていない。
乱暴されそうなナースを助けないイゾウは考えられない。時間に遅れそうだろうが何だろうが、見捨てていればそれこそイゾウじゃない。侍じゃない。
その後の行動も、何一つ間違っていない。
怯える女を一人残して去れる人じゃないことも分かっている。
彼は優しい人だ。そんなの、私が一番よく知っている。
なのに、私は彼の言葉を聞かなかった。信じなかった。
間違っていたのは、全部私なのだ。
「許して欲しいけど、許してなんて言えない。もし、イゾウの気が済むならどれだけなじってくれても構わない」
「…………」
「殴ったっていい。何したっていい。償わせて欲しい」
黒い瞳がようやくこちらを見る。
本当にあの頃と同じままだ。
しばらく見つめていると、拳を握っていたイゾウの手がぴくりと動く。
殴られるんだろうか。
反射的に目を瞑って衝撃に備えた。
けれど、イゾウが触れたのは私の腕で。
目を開けた頃には腕を引いて歩かされ、驚いた瞳に映るのは、襟足の髪がなびく藤色の背中だった。
