Novel
好きと言えたなら - 01
部屋に戻ると、名前はもう眠っていた。おれがほんの少し、席を離れている間に。
一時間ほど前のことだ。
突然、バンッと部屋の扉が開き、名前が飛び込んできた。
『イゾウ、聞いて! マルコったらまたナースの子に手を出したんだよ……!』
ガチャガチャと、勝手に人の部屋の戸棚を漁り秘蔵の酒を取り出す名前に内心またか……とため息を吐く。その間に、これまた勝手に取り出したグラスに酒を注ぎ、一気に煽って愚痴を言い始めたのだ。
どうやらマルコの奴がナースの一人と良い雰囲気になったらしい。よくあることで今更驚きはしないが、毎度のことながらいきなり部屋へ飛び込んでくるのは勘弁してほしいものだ。こっちにも都合があると言ってもまるきり聞きゃしねぇ。
しかしそう思いながらも、結局追い出さずにこうして付き合ってやるんだから、おれも随分とお人好しになったもんだ。
苦笑しながらソファで眠りこけている名前を抱え上げ、ベッドに寝かせてやる。そのまま脇に座り、眠る彼女の横顔を眺めた。
出会った頃に比べれば随分大人びてきたものの、寝顔にはまだあどけなさが残っている。
船で共に過ごすようになりしばらく経つが、子供だとばかり思っていた彼女がいつの間にか女の顔を見せるようになった時には驚かされたものだ。
年を重ねればもっと美しくなるだろう。
マルコは馬鹿野郎だな。
こんないい女がいるのに、他の女に手を出すなんて。
「……なぁ、名前」
呼びかけても目を覚ます気配のない彼女の頬に触れようとして、その手を止めた。代わりにそっと頭を撫でる。さらりと指の間をすり抜ける髪がくすぐったい。
「だから、マルコはやめとけって言っただろ」
いつかの夜と同じ言葉をつぶやき、一度止めた手を頬に伸ばす。少しだけ濡れているそこは温かく、柔らかく、そして滑らかだった。
「おれに、しろよ……」
自分の口からこぼれた言葉に、胸の奥が疼く。
最初はただの仲間意識だと思っていた。それが少しずつ変化していったのはいつからだろう。徐々に名前の事を考える時間が増えていき、あの夜──『マルコに告白しようと思うの』そう告げられた時にはもう、引き返せない所まできていた。
「おれなら、お前を泣かせたりしないのに」
届くことのない想いを口にしながら、もう一度名前を見つめた。わずかに開いた唇からは規則正しい寝息だけが聞こえてくる。おれが手を出すなんて夢にも考えていないんだろう。安心してくれるのは嬉しいが、おれも男だ。その唇から漏れる吐息も、乱れた襟元から覗く白い鎖骨も、理性を狂わせるには十分過ぎるのに。まるで警戒心もなくすやすやと眠る様子が可愛らしくて、憎らしい。そっと親指で唇をなぞると、名前は長い睫毛をピクリと揺らし、くすぐったそうに身を捩った。
この唇に口付けたら、彼女は目を覚ますだろうか。無防備な首筋に吸い付いたらどんな反応を示すだろう。身体中にキスをして、抱いてしまったら──名前はどんな顔をするのだろう。
夢の中で幾度も抱いた彼女の姿を思い浮かべ、己の欲望が大きくなっていく。
駄目だと思えば思うほど自分を抑えられない。ゆっくり顔を近付けると、甘い香りが鼻腔に広がる。唇にかかる吐息の熱さに、頭がおかしくなりそうだった。まるでガキみたいに心臓を跳ねさせながら、あと数センチで触れ合う距離まで迫る。
このまま触れてしまおうか。そう思った刹那、廊下から聞こえてきた足音にハッと我に返った。
弾かれたように顔を上げ、軽く頭を振る。
……何をしているんだ、おれは。
もう少しで取り返しのつかないことをする所だった。
名前を傷付けるつもりはないのに。
立ち上がって深く息を吐きだすと、少しだけ冷静さを取り戻せた気がした。それと同時に先ほどの靴音が部屋の前で止まる。扉がノックされ、続いて掛かる声。誰なのかは、聞かずともわかっていた。
「おれだ、入ってもいいかい」
相変わらず律儀に伺いを立てる男。
どうぞ、と一言答えれば静かに扉が開き、予想通りマルコが姿を見せた。
マルコは部屋に入ってくると、ベッドで眠る名前を見て安心したように息をつく。
「やっぱりここにいたのかい……」
ホッとした表情を浮かべるマルコに苛立ちを覚える。
この男はいつもそうだ。自分は女と遊んでおきながら、名前が部屋にいないと血相変えて船内を探そうとする。
姿が見えなくて心配するくらいなら端から遊ばず傍にいてやりゃいいものを。そうすりゃ名前だって泣く必要もないのに……。
内心ため息を吐きながら、ベッドに歩み寄るマルコに軽く経緯を話してやる。
「一時間ほど前に部屋に来て、酒飲んで寝ちまったんだよ。おれが席外してる間にな」
名前が寝ている理由を簡単に伝えると、マルコは「そうかい…」と呟きベッドの端に腰を下ろした。ギシッとベッドが軋む。マルコはそのまま名前の頬に優しく触れると、まるで壊れ物でも扱うようにそっと撫でた。
その仕草に、チリッと胸が痛む。
マルコが名前を迎えに来るたび目にする、同じような光景。どう見たってこいつは名前を愛している。それなのに、何故他の女に手を出すのかわからない。躊躇いもなく名前に触れられる立場にいるくせに、何故名前を大切にしないのだろう。
無性に腹が立ってくる。
「どうして、名前だけを見てやらねぇんだよ」
思わず口をついて出た言葉に、誰より驚いたのは自分自身だ。踏み込むべきではないのに、止められなかった。
マルコも驚いたのか、一瞬手が止まり視線が交差する。
「……どういう意味だよい」
「わかるだろ。お前も名前を想ってるなら、どうして大事にしてやらねぇんだよ」
問い詰めるように言えば、マルコは小さく嘆息して眉根を寄せた。何か言いたげな様子を見せるが、結局何も言わずにおれを見つめているだけだった。
「大切だと思うなら、ちゃんと捕まえとけよ。さもないと、誰かに奪われちまってもしらねぇからな」
「……その誰かってのは、お前ェのことかい? イゾウ」
マルコの言葉におれは肯定も否定もしなかった。名前が「ん……」と小さな声を漏らし、身じろぎしたから。おそらく、微かに滲み出たマルコの怒りの気配を敏感に感じ取ったのだろう。それに気付いたマルコもおれから名前へと視線を移す。名前が目を覚ましたわけではないが、おれたちの会話はそこで途切れた。
少しひりつく室内を、時間と静寂が支配する。
やがて名前の細い肩にマルコが手を伸ばし、彼女を起こさないようゆっくりと抱き上げた。
名前を連れていく気なんだろう。
おれは何も言わなかった。マルコも何も言わない。ただ名前を腕に抱いたままおれの隣を通り過ぎ、静かに扉を閉めた。
遠ざかる足音を聞きながら、しばらくその場に立ち尽くす。閉じた扉の向こうには、名前を抱いたマルコがいる。もし名前が目を覚ませば、きっとまたあいつに抱かれるに違いない。
おれは再び一人になったベッドに横になる。
先程まで確かにあった温もりを探すようにシーツに手を這わせても、そこにはもう何の熱も残っていなかった。
マルコはおれの気持ちに気付いているだろう。これで良かったのか、答えは出ないまま。しかし、一度溢れ出した想いを止める術など、おれは知らない。このままではいずれ、本当に抑えがきかなくなる日が来るだろう。そうなった時に傷付くのは彼女だ。わかっているはずなのに。
名前の唇に触れた親指が、じんと疼きだす。
指先に残る柔らかさと、鼻腔をくすぐる甘い香りを思い出しながら、親指を唇に押し当てる。
触れたい。彼女に。
叶わぬ願いを抱えながら、おれはまた眠れぬ夜を過ごすのだろう。
