Novel
好きと言えたなら - 02
扉を閉めた瞬間、おれは大きく息をついた。腕に抱えた名前の寝息だけが、静まり返った廊下に微かに響く。その穏やかな呼吸音を聞きながら、胸の中の温もりとは裏腹に、心は冷たい水底へと沈んでいくようだった。
イゾウの部屋。名前はそこで安心して眠っていた。おれの腕の中ではなく、あいつのベッドの中で。その事実が、たまらなく胸を掻き乱す。なぜあいつのところで、こんなにも無防備に安らいでいるのか。胸の内に抑えきれない嫉妬と不安が渦を巻く。だけど自分の行いを考えれば、今はそんな感情を押し殺すしかない。
おれは静かに自室に向かい、名前をそっとベッドに寝かせる。毛布をかけてやると、彼女の唇がわずかに動いた。「イゾウ…」と寝言のように小さく呟く声が耳に届き、全身が凍りつく。イゾウの夢でも見ているのだろうか?ここにいるのはおれなのに。
意識のない唇から他の男の……イゾウの名前が漏れたことに、胸がじわじわと焼かれる。シーツを掴む手に力が入り、今すぐ名前をめちゃくちゃに抱いてしまいたい衝動に駆られる。彼女の肌に舌を這わせ、激しく突き上げ、ここにいるのはおれだと名前に知らしめたい。ありったけの精を彼女の奥に注ぎ込み、「お前はおれのものだ」と、その身体に刻みつけたい。
しかし、そんなことをすれば名前は今よりもっと傷付くだろう。それがわかっているからこそ、おれは結局動けないままだ。
重い息を吐き出しながらベッドの横に腰掛け、名前の寝顔を見つめる。長い睫毛、小さな鼻、柔らかそうな唇。サラサラと流れる髪や、起きている時に見せるコロコロと変わる表情。そのどれもがおれを惹きつけてやまないことを、名前は知っているだろうか。
おれはずっと彼女に惹かれていた。いつか気持ちを伝えようと思いながらその気持ちを隠していたのは、彼女がイゾウを好きだと思っていたからだ。名前の瞳に映るイゾウを見ていると、その確信は強まるばかりだった。あいつの前で名前が見せる笑顔は、おれの前で見せるそれとは違う。自然で、無邪気で、時に甘えたような表情。どれも、おれには見せない顔だ。名前の心はイゾウに向いている。その現実が常に突きつけられていた。
この恋は報われない。そのことを理解していたおれは、他の女たちと遊んで心を紛らわせていた。彼女の笑顔を思い出さないために。イゾウを見つめる彼女から目を逸らすために。
それなのにあの日、名前はおれに告白してきた。信じられなかった。長い間、夢見ていた瞬間が訪れたのだ。しかし、夢が叶ったその瞬間、胸に芽生えたのは喜びだけではなかった。不安が、恐れが、次第におれの心を蝕んでいった。
本当におれでいいのか?イゾウではなくて。
その疑念が、おれをまた女遊びへと駆り立てた。
浮気を繰り返すたびに名前が見せる悲痛な表情。彼女の瞳に浮かぶ涙や、震える唇が、おれの胸に鋭く突き刺さる。自分が最低なことをしているとわかっている。それでも、名前の涙を見るたびに、自分が彼女にとってまだ必要な存在なんだと確認してしまう愚かな自分がいる。
「なァ、名前……」
お前の涙が見たいわけじゃない。お前の笑顔が好きだ。お前が好きだ。おれはただ、お前と一緒にいたいだけなんだ。それだけなのに、なぜこんなにも苦しいんだろう。
「……本当に、おれが好きか?」
眠る名前に問い掛ける。返事が返ってこないことなど最初からわかっている。それでも、この問いを口にせずにはいられなかった。
静かな寝息を立てる名前を見つめ、そっと頬に触れる。先ほど触れた時にはわからなかったその頬には、涙の筋が残っていた。
本当に、最低だ。
好きなのに、傷付けることしかできないなんて。
『大切だと思うなら、ちゃんと捕まえとけよ。さもないと、誰かに奪われちまってもしらねぇからな』
ふと、イゾウの言葉が頭をよぎる。
あいつも名前を想っている。あの目を見ればわかる。このままじゃ、本当に名前を奪われてしまうかもしれないだろう。いや、いっそ奪われた方が名前は幸せになれるかもしれない。だが、おれには名前を手放すことなんてできない。どれだけ傷付けても名前は渡さない。渡したくない。イゾウにも、他の誰にも。
「……許してくれ、名前」
こんなにも愛おしいのに、なぜおれは大切にできないのだろう。なぜ、この手で幸せにすることができないのだろう。自分の弱さがたまらなく嫌になる。
お前の気持ちを信じる強さがあれば、こんなに苦しむことはなかったのに。好きだと信じられたなら、この不安も、迷いも、全て消えるのに……
「名前……」
彼女の髪に口付けし、そっとベッドから離れる。
窓の外には、満天の星空が広がっていた。
夜空に輝く星々が、まるでおれを責め立てるように瞬いている。その星空を見上げながら、おれはひとり、名前のことを考え続ける。
名前を幸せにできるのは、本当におれなのだろうか。
答えの出ない問いを抱えたまま、おれはまた眠れぬ夜を過ごすのだろう。
