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re:スタート - 02

夜が更ける。

晴天だった空模様は雨雲に覆われ、外は雨が降り出していた。細かい粒がポツポツと、カーテンを引き損ねた窓ガラスを濡らす。輪郭のぼやけた窓枠を視界の端に捉えながら、おれはベッドに身を投げ出し腕を枕に天井を眺めていた。

ガキの頃から生活していた船。おれにとっちゃゆりかご代わりだったはずが、赤髪の船で揺れを感じるベッドではあまり眠れなかった。陸の生活が板についてる証拠だ。今のおれをオヤジが見れば何と言うだろうか。『腑抜けたなァ、マルコ』と笑って大気を震わせるか。それとも『お前の人生だ、好きに生きろ』と巨大な杯を傾けるだろうか。そして『飲みすぎだよい』と咎めるおれに『飲みてぇもん飲んで体に悪いわけあるか』とオヤジが言って──想像に難くない姿に思わず笑んでしまう。

サッチがいて、エースがいて、オヤジがいて。騒がしくも笑いの絶えなかったあの頃の、かけがえのない日々をぼんやり懐かしんでいると、ふいにノックの音が響いた。誰かは分かっている。ここは大勢が暮らしていたモビーディックじゃない。なのに条件反射で訊き返そうとする自分に嫌悪する。陸に馴染んだのは肉体だけで、心の方はまだ追いついていないようだ。

身体を起こして返事をすると、扉の隙間から名前が姿を見せた。毎晩、おれが部屋に行っていた。彼女が夜間この部屋に訪れるのは初めてだった。

「ごめん、マルコ。寝てた?」

「いいや、起きてたよい」

「よかった。コーヒー淹れてきたんだ。飲まない?」

「ああ、貰うよい」

キッチンでガチャガチャ音がしていたのは湯を沸かしていたのか。片手に携えていた丸いトレイを机の上に置き、ベッドの縁に腰掛けたおれにマグカップを差し出してくれる。温かいそれを受け取り、名前には机の椅子をすすめた。

ゆらゆらと白い湯気が立ち昇るブラックコーヒー。いい香りだ。豆から引いてくれたんだろう。視線を落とすと、黒い液体の中に少しばかり緊張した面持ちの男が映っていた。

先程、食卓で名前が言葉を返すことはなかった。時折何か言いかけて、薄く開いた唇がまた結ばれて。結局口を噤む様子に、食器の片付けを申し出て彼女を部屋に戻らせたのだ。

カップに口付けると芳醇な香りとほろ苦さが舌の上に広がり、気分が幾ばくか落ち着く。名前もカップに両手を添え、自分用に淹れたミルクたっぷりの甘いそれに口を付けた。

「……さっきは、なにも言えなくてごめんなさい」

「いや、いいんだよい」

しばらくコーヒーを啜っていると、カップを机に置いた名前がポツリと呟いた。

おれも、サイドボードにカップを置いて答える。

名前に告げた言葉。

それは偽りのない本心だった。

この一年間、彼女に支えられ続けた。支えてるつもりで支えられていたのはおれの方だった。名前の優しさに触れるたび、惹かれる心を止められなかった。思いやりに溢れた行動に何度も救われた。

だが、これはおれの独りよがりだ。

名前にそのつもりがないなら、おれは……」

「違うの」

強く首を振り、言いかけた言葉を否定する。

「マルコの気持ちは嬉しかったんだ」

名前……」

「だけど、ひとつ教えて欲しい」

こちらを見るその強い眼差しに、彼女が何を訊こうとしているのかおおよそ見当がついた。

「ワノ国で、何かあったんでしょ」

確信的な口調だった。

やはりそうかと息をつく。オヤジの墓に迎えに来たときに何かを感じ取ったんだろう。昔から直感や洞察力に優れていた。嘘は通用しないだろう。静かにひとつ頷くと、名前はふっと視線を床に落とす。それからしばらく時間を置いてからただひと言、「……イゾウ?」と小さく訊いた。

イゾウがワノ国へ向かうことは名前も知っていた。だからこその質問だ。肯定すれば、それがどんな意味を指すのか彼女は分かっているだろう。だけどここまできて隠し立ては出来なかった。

もう一度、おれはゆっくりと頷く。

「そう……やっぱり……そう、なんだね……」

窓を叩く雨音が大きくなっている。

風まで強く吹きつけ、ガタガタと薄いガラス窓を揺らしていた。部屋の明かりが俯く名前の頬に影を落とす。暗く翳る表情に、心臓がきゅうっと詰まる。

こんな顔、させたくなかった。伏せておきたかった。イゾウは名前にとっても古い付き合いで、名前が得物に拳銃を選んだのもアイツの影響だった。憧れていた頃さえあった。この村にいれば外界の情報を得ることは少ない。永遠に隠し通せるなんて思ってない。だが今じゃなくてもいいはずだ。名前はもう十分苦しんだ。事実を知るのはもうしばらく後でいい。そう思っていた。

「…………ごめんね、マルコ」

不意に謝罪されて困惑する。意味を理解する前に次の言葉が耳に届いた。

「一年前、私があんな姿を見せたからマルコは何も言えなくなっちゃったんだよね……」

眉を寄せながら、名前は微笑んでいた。

その顔が痛々しくて言葉が出なくなる。

何か言おうにも声にならず、空気しか出てこない自分に歯痒さを感じた。

「私ね、マルコはずっと強いんだと思ってた」

「……」

「モビーにいた頃から誰より強くて信頼がおけて、どんな状況に置かれても冷静で、すごく頼りになって……」

ギシッ、と軋むような音がする。床から視線を上げれば名前が木製の椅子から立ち上がり、ゆっくりとこちらへ向かってきていた。

「二人でこの村へ来たときも、マルコは普段の様子と変わらず傷の手当てをしてくれて、ご飯を作ってくれて、泣いてる私を慰めてくれた。だから、勝手に強いんだって思い込んでた……」

告げながらベッドまで来ると、名前はそっと隣に腰を下ろす。そして、黙ったままのおれの顔を見上げた。

「……でもね、オヤジの墓の前にいるマルコの背中を見て、思い違いをしてたんだって気付いたんだ」

寂しげに笑う表情に、胸の奥が痛む。いつから見ていたんだろう。肩を震わす後ろ姿を見ていたんだろうか。声を掛けるのをためらいながらおれの背中をずっと見ていたんだろうか。情けない姿を見られたな、と居心地悪さに少し身じろぐが、今更取り繕ろっても遅い。

「……マルコはずっとあんな風に一人で耐えてきたんだよね。その苦しさをわかってあげられなくてごめん。……イゾウのことも、マルコに全部背負わせちゃってごめんね。話せば楽になれることもあるのに」

ゆっくりと、彼女の手が伸びてくるのを黙って見つめる。優しく頬に触れた手のひらの温かさに、強張っていた身体から力が抜けていく。心の奥底で凍らせていた感情が静かに溶け出していくような気がした。

「私は、もう大丈夫だよ」

だから一人で泣かないで。マルコは一人じゃない、私がいるから、と、その言葉に目頭がぐうっと熱くなる。

あの夜、おれが名前に告げた言葉と同じ。

『一人で泣くな名前、お前は一人じゃない。おれがいるだろい』そう言って腕に抱き締めたように、名前もおれを強く抱き締めてくれる。

堰き止めていたものが一気に溢れ出す。

……本当は、怖かった。

名前の嗚咽に気付いたのは、おれ自身が毎晩悪夢にうなされ続けていたからだ。

『死にたくない』と助けを求めて伸ばされる手。腕の中で次々と息絶えていく家族。誰も救えない己の無力さ。絶望。失意。憎悪。怒り。悲しみ……

瞼に焼き付いて離れないあの光景に飛び起きるたび、胸を掻きむしりたくなる激情に襲われた。夜中に何度目を覚ましたか分からない。そのたびにまた同じ夢を見るのではないかと戦慄した。眠る事すら恐ろしく感じて、一睡も出来ずに朝を迎える日もあった。

名前と眠るようになってその悪夢からは解放されたが、それでもこの肉体に宿る悪魔がいる限り不安は尽きない。

またいつか大切な人を失うのではないかという恐怖。一人残されるのではないかという怯え。隣で眠る名前の寝顔を見つめながら、おれより先に死なないでほしいと、何度そう願ったか分からない。頼むから、一日でも、一秒でもおれより長く生きてくれ、と……

「……大丈夫だよ、マルコ」

耳元に囁かれる、名前の優しい声音。

続く言葉は胸中に抱く身勝手な想いに応えるものだった。

「私はマルコを置いて死なないし、どんなことがあってもずっと一緒にいるよ。約束する」

「っ……」

「年齢で言えばマルコの方が先立つに決まってるしね」

いくら不死鳥でも寄る年波には勝てないでしょ、と茶化しながらも、穏やかな手付きで背中を撫でてくれるのは、おれの肩が細かく震えているからだろう。

いつもそうだった。この村へ来てからも、名前はいつだっておれを支えてくれた。自分よりもおれのことを大切にして労わろうとしてくれる。

こんなにも、弱くて情けない男なのに。

「……名前

「うん?」

感謝の言葉を伝えたくて名を呼ぶが、喉から迫り上がる空気が邪魔をする。代わりに腕の中の体温をキツく抱き締めると、名前がわざとぐえ、と潰れた呻き声を上げる。

「な、なに、年寄りってからかったことの仕返し!?」

なんてケタケタ笑って言う。そのふざけた様子はエースと一緒に皆を楽しませていた頃の名前そのもので、おれはさらに声が出せなくなった。

ふいに腕の中で笑い続けていた彼女が静まり返る。

「ねぇ、マルコ」

いつの間にか雨は止んでいる。雨音はもう聞こえない。静かになった部屋の中に響く名前の声はとても柔らかかった。

「ずっと、支えてくれてありがとう」

腕の中から抜け出し、おれの顔を覗き込む。濡れた目元を晒し、いつも貼り付けているポーカーフェイスも崩れ去り情けない表情をしているだろう。だけどもう強がる必要はない。ありのままでいい。

温かな両手に頬を包まれ、コツンと額同士をくっつけられる。鼻先が触れ合う距離で名前が真っ直ぐにおれを見つめる。

「大好きだよ、マルコ」

そう言って重なる唇は、狭いベッドの上で初めて交わしたキスと同じ涙の味がした。だけどそれは悲しいものではなく、優しいぬくもりをくれる幸せなものだった。

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