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re:スタート - 01

「……っ、マルコ!」

近海まで送ってくれた赤髪の船を飛び立ち砂浜に踵を付けると、息を切らせた名前が数メートル先から叫んだ。

物見台から見張っていたんだろう。海上におれの姿を捉えた途端、脚をもつれさせてがむしゃらに走る姿を、海面の煌めきに目を細めながら見ていた。砂浜に足を取られてべしゃりと転ぶ姿も、即座に起き上がりサンダルが片方脱げたまま駆け寄る姿も。

「ただいま」

息を弾ませて目の前までやって来た彼女に微笑むと、名前はシャツと短パン、膝小僧についた砂もそのままに、泣きそうな顔でおれを見上げた。

「おかえりなさい、マルコ。無事で良かった……」

名前も無事でよかったよい」

さらりとした前髪から覗く瞳が少し潤んでいる。

彼女を一人残してきたことを悔やみながらも、旅立つ前と同じ穏やかな風が吹くのどかな村の風景と、たった今転んだ以外は傷ひとつない名前の姿を見て、おれは安堵の息を吐いた。

ティーチに惨敗を喫して以来、おれと名前はオヤジの故郷、ここスフィンクスでひっそりと暮らしていた。

そこへ懐かしい顔──獅子のような猫が、ぷかりと煙を浮かべながらやってきたのは三週間前のことだった。

おでんの仇。エースの弟の助太刀──

ワノ国へ行く理由は大いにあった。

だが、オヤジが遺したものを奪おうと考える輩は多い。奴らがいつ襲って来るか分からない状況に参戦を躊躇っていたおれの背中を押してくれたのは名前だった。

「帰ってきてくれて、本当に良かった……」

「必ず帰ると、約束しただろい」

「……エースもそう言ってた。他の仲間たちも」

「ああ、そうだな。でもおれは帰ってきたよい」

細い肩を抱き寄せると、彼女も背中に腕を回し強く抱き締め返してくれる。

この村で名前と男女の仲になったのはいつのことだっただろう。

邪悪で強大な闇の力を前に手も足も出ず、おれと名前がここへたどり着いたときは、二人とも心身共にぼろぼろだった。

鉄と火薬の匂いが充満する戦場。夥しく流れる血液と、闇に消えゆく無数の灯火。大勢の仲間を失い、大勢が行方不明。名前も深手を負い、おれも無傷では済まなかった。

それでも目に見える傷はいつしか癒える。

だが、心に負った傷は──

薄い壁の向こうから漏れる、かすかな嗚咽。毎夜聞こえるそれに隣の部屋の扉を開けたとき、おれはどうしようもないほどやるせなくなった。朗らかで、いつもエースと一緒になって皆を楽しませていた名前。そんな元気で快活だった名前が真っ暗な闇の中ベッドの上に小さくうずくまり、声を漏らすまいと両手で口を塞ぎながら、ぽろぽろと溢れる雫でシーツを濡らしていたのだ。たまらなかった。たまらなくて、部屋に足を踏み入れたおれは、名前をこの腕に強く抱き締めていた。

そうして毎晩狭いベッドの上で身体を擦り寄せて眠るうち、どちらからともなく口付けて……それ以来、夜になるとおれと名前は言葉もなく、ただ失くしたものを埋めるように肌を重ねていた。

「留守の間、変わりはなかったかい?」

「うん、村の人が診療を受けに何人か来たくらい」

「処置は?」

「マルコが残してくれたメモのお陰で適切に出来たと思う」

「そうかい」

「あと、コタじいちゃんが腰痛でまた来たからマッサージして湿布貼ったら痛みが消えたって、お礼にパイナップルを持って来てくれたよ」

名前の助手も板についてきたねい」

「マルコのお陰だよ」

顔を上げて微笑む彼女の目元にはうっすらと翳りが窺えた。留守にしてた間、あまり眠れていないんだろう。それを思うとやはり胸が痛んだ。

「パイナップル、冷やしてあるからあとで一緒に食べようね」

「ああ。おれはちょっとオヤジのとこへ顔を出してくるよい」

話しながら、脱げたサンダルの元まで一緒に歩いて行く。服と膝小僧と足の裏の砂を軽く払い、サンダルの形に日焼けした小さな足に履かせてやると、屈んだおれの肩に手を置いていた名前が礼を言ってはにかむ。その顔に帰ってきたんだな、と強く実感が湧いた。

「じゃあ、私は先に戻ってるよ」

「一緒に来ねェのかい?」

「うん、ご飯でも作ってる」

夕飯にはまだ時間がある。戻ってから一緒に作ると言うが、マルコは帰ったばかりで疲れてるでしょ、と提案を却下し、くるっと背を向ける。サンダルの足跡を残しながら浜辺を歩く後ろ姿を見送っていると、太陽に透ける髪がふわりと揺れ、名前が振り向いた。おれを見てにこっ、と笑顔を浮かべて手を振る彼女に軽く応えると、再び背を向けて体重を感じさせない足取りで歩いていく。その背中が消えるのを見届け、おれは海岸沿いに足を向けた。

「いい天気だな」

見晴らしのいい高台の岬にある、オヤジとエースが眠る場所。ざわざわと緑の草を揺らす心地よい風を受けながら、おれは二人の墓を眺める。

赤髪が建ててくれた立派な石碑。その周囲をいくつもの花束が鮮やかに彩っているのは、名前が毎日足を運んでいたからなんだろう。ここへは必ず一緒に来ていたのにおかしいと思っていたが、こういう訳だったのか。ここに花を手向け、村とおれの無事を願っていたんだろう。

「悪ィな、オヤジ、エース。今日は戻ったばかりで来たから手ぶらになっちまった。次回来る時は酒と肉を用意してくるから勘弁してくれよい」

二人に話しかけると、それに応えるかのように愛刀に掛けられた白いコートがふわりとはためき、オレンジ色のテンガロンハットが風になびく。その様子に思わず目を細める。

「なァ、エース。『お前に討てるか』と言われたカイドウをお前の弟が倒しちまったよい。言ってた通り、大した奴だったよい、お前の弟は。ひょっとすると本当に世界を変えちまうのかもな。天竜人も奴隷もない、飢えたガキが死ぬこともない、そんな世に──」

おれが話している間、エースの帽子はずっと嬉しそうに風にそよいでいた。もう二度と見られないそばかすの散ったあの笑顔が帽子の下に見えた気がして、おれは大きく息を吸い込み、空を仰いだ。突き抜けるように澄み切った晴天。鳥たちが鳴き声を上げながら悠然と翼を広げ、押し寄せる風を受けて気持ちよさそうに泳いでいる。

新時代の風。

お前の弟が起こした風だよい、エース。

アイツらならきっとやるだろう。

おれは舞台から降りるが、お前の弟は命に代えても守ってやるよい。それが残されたおれの使命だと思ってる。

──それとな、オヤジ。

もう知ってるだろうが、イゾウが逝った。

アイツとは長い付き合いで、今じゃ言えないバカを若い頃に一緒にやった古い仲間だ。正直、堪えたよい。CP0と相打ちだったそうだ。それを聞いたときは、なぜ戦意のない奴等を呼び止めてまで戦う必要があったのか理解出来なかった。なぜおでんの仇、カイドウではなく奴等を止めたのかってな。だが、あのまま見過ごしていれば麦わらたちが犠牲になり、戦況は大きく変わっていただろう。イゾウが命を賭して留めてくれたからこそ、この勝利がある。

アイツも、新時代に懸けたんだ。

……でも、それでも、だ。

イゾウには生きていて欲しかった、と。

オヤジの前だからそれくらい零してもいいだろい。

おれはもう、誰も失いたくなかったよい。

仰いだままの空の青が霞む。雲一つないはずなのにおかしいと、閉じた瞼から流れる生暖かいもの。それは次々と溢れ出して頬を滑り落ちていく。

……はは、みっともねェな。

オヤジの前だといつもこうだ。

名前が隣にいりゃ我慢できるモンも、一人だとこうなっちまう。

滲み出てくるものを拭ったところで、また次が出てくる。キリのない無駄な行為はやめ、流れるままただ流した。

モビーディックの甲板で──紅を引いた唇を皮肉に上げて笑う、アイツの顔を思い浮かべて。

「…………マルコ」

一体どれくらい時間が経ったんだろう。

新しく吹く風が頬を乾かし、胸元の包帯の水分まで飛んだ頃。土を踏み締める音がして、背中に小さな声が届いた。

「……ごめん、遅いから見にきちゃった」

気付けば青かった空が綺麗な茜色に染まっている。

「ああ、悪ィな。心配させちまったかい」

「ううん、まだ居たいなら……」

「いや、帰るよい」

少し涙声だったかもしれない。だが名前はそれには触れず、「うん」とひとつ呟き、後ろからそっと手を握ってきた。温かい手だった。

沈む夕陽に伸びる二つの影を見つめながら帰路に着く。

おれも名前も一言も話さなかった。だけど手だけはしっかりと繋ぎ、柔らかな風が吹く緑の丘をゆっくりと下っていく。ワノ国から戻るときのような不安も焦燥感もなく、気持ちはひどく穏やかだった。

帰宅すると、テーブルの上には料理が並べられていた。

普段より豪勢な品々。おれのために腕を振るってくれたんだろう。この家に二人で住み始めて一年ほど。最初は怪我を負っていたこともあるが、料理が出来ない名前におれが作っていた。しかし、怪我が治ると『マルコは村の人の治療で忙しいんだから料理くらい私が頑張る』、と指を絆創膏だらけにして奮闘していたのも、もう懐かしい。それが、今では医学を勉強しながら村人の治療を手伝い、栄養のある献立を考え三食作ってくれている。『マルコには助けられたから』名前はそう言うが、おれの方がよっぽど助けられてるのを彼女は知らない。

手を洗い食卓に着く。三週間ぶりに食べる名前の手料理はどれも美味かった。本当に上達した。消し炭のようだったチキンも今じゃほろほろだ。口の中でほどけるそれを堪能し他にも手を付ける。箸を運ぶおれをチラチラと上目遣いで窺う名前に「美味いよい」と笑えば、ホッとした顔で屈託なく笑う。その顔におれの頬がさらに緩む。

「いつも、感謝してるよい」

「どうしたの? 急に」

「言える時に言っておかねェとな」

「……また、どこかに行くの?」

「いいや、どこにもいかねェ」

ここがおれの家だよい。そう言い切ると、名前は先ほどよりも安心した顔で笑っていた。

この村で一人残るのはどれほどの恐怖だっただろう。帰らないかもしれないおれを見送るのはどれほどの不安だっただろう。だが村は自分が守るから、と送り出してくれた名前。逆なら出来ただろうか、いいや、出来ない。きっと引き留めていた。彼女が無事で良かったと心底思う。

「なァ、名前

「なあに?」

会話を楽しみながら手料理を全て平らげ、輪切りにして出してくれたコタ爺が持ってきてくれたという大好物のそれを食い終えたタイミング。

柔らかく微笑む彼女を見て、おれは静かに告げた。

「この関係を、やめたいと思ってる」

ワノ国にいたときから考えていた。そして、村に戻り名前の顔を見て決意したことだ。名前がどう受け止め、どう答えるかは分からない。だが自分なりの結論は出た。

食器を片そうとした手を止め、名前がこちらを見る。絶えず浮かんでいた笑みは消え、その顔は戸惑いに染まっていた。

「……そ、そうだよね。もう一年も経つし、いつまでもマルコに甘えて……」

「違うよい」

言い終わる前に言葉を遮る。

「おれたちが寝てるのは恋愛じゃない。ティーチのことがあったから始まった、互いの傷を舐め合うような、そんな関係だろい」

「……うん」

「それを一旦白紙に戻し、名前には改めておれとのことを本気で考えて欲しいと思ってる」

「マルコ……」

名前が、好きだよい」

瞳を真っ直ぐ見つめて告げる。

窓の外はもう暗い。差し込んでいたオレンジの光は闇に色を変え、彼女の瞳の中は灯したランプの明かりがゆらりと揺らめいていた。

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