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愛していると言ってくれ - 14
食堂を出たあと、真っ直ぐオヤジの元へ行くと、オヤジは長椅子に体を預けておれを待ち構えていた。
「遅かったじゃねぇか、マルコ。来ねぇかと思ったぞ。言い訳があるなら聞いてやらァ」
部屋に入るなり言われた言葉に肝を潰す。
どうやら説明するまでもなく、オヤジには全てお見通しだったようだ。
名前のことも。
おれがここへ来ることも。
やっぱりこの人には敵わねェ。
おれはしかめっ面のオヤジの元へ行き、頭を下げる。
「すまねェ、オヤジ。名前のことは全部おれが悪い。おれの責任だ」
謝罪して、歯を喰いしばる。
オヤジの鉄拳が飛んでくるのを分かっているからだ。
家族を傷つけてお咎めなしはあり得ない。
案の定、オヤジはその超弩級の拳を振り上げると、踏ん張るおれ目掛けて思いっきり振り下ろした。
頬に炸裂する拳。
強烈な痛みが頬を襲う。
痛ェ。
死ぬほど、痛ェ。
だがこれは能力で治してはいけないものだ。
名前を傷つけた罰だ。
「この、馬鹿息子が……自分の感情に鈍い所は昔からちっとも変わらねぇな、おめぇは」
オヤジは呆れたように言うと、頬を抑えて耐えるおれに、名前は船を降りて一人で子どもを産む決心をしていると教えてくれた。
「さっさと連れ戻さねェと、島へ降りちまってるかもしれねぇぞ」
グビッと、特大のひょうたんから酒を呷るオヤジに言われ、おれは慌てて部屋を飛び出した。
普段なら体調の悪化を懸念し、酒を控えるよう窘めるのがおれの役目だが、今はそれどころじゃねェ。
あとで人を遣わすことにして甲板に躍り出たおれは、がむしゃらに走った。
昇降口まで駆け抜けると、女の後ろ姿が見えた。
サラサラと風になびくグレージュの髪……名前だ。
間違いない、名前がいた。良かった、間に合った。
名前は手に大きなトランクを持ち、タラップに向かっている。
「名前っ……!」
柄にもなく、大声で叫ぶ。
名前の名を叫びながら走るおれを、甲板にいる奴らが奇異な目を向けるが、構わず追いかけた。
「……名前!!」
駆け寄るとようやく足を止め、名前がゆっくりとこちらを振り返る。
「……マ、マルコ隊長……っ!」
名前はおれを視界に捉えると、目を見張り、次いで腫れた頬に顔を顰めるが何も言及せず、呆然と立ち尽くしていた。
ああ、名前だ。逢いたくて、逢いたくて、堪らなかった名前が、いま目の前にいる。
少し痩せたか?
元々細かったのに、さらにだ。
顔色も悪い。
悪阻が始まり食えてないんだろうか。
体調は大丈夫なのか。
腹の子は何ヶ月なんだ。
今までどこにいたんだ。
苦しめてすまない。
おれが悪かった。
許してくれ。
頭の中に次々と言葉が押し寄せる。
でも名前を見たら堪らなくなって、思わず抱き締めた。
「……行かないでくれ」
あれだけ色んな言葉が頭を巡ったのに、出たのはそんな一言だった。自分でも驚くほどに弱々しい声。腕に抱いてなきゃ、名前にも聞こえない、そんな小さな声だった。
けれども名前にはしっかり届いたようで、息を呑んだ彼女の手からバッグが滑り落ちる。
ドサリ、と響く渇いた音。
「……あの……マルコ隊長、皆さんが、見ています……誤解されちゃいますよ? 離してください……」
しばらく大人しく抱かれていた名前が、周りの視線に気付き居心地悪そうに身を捩る。
クルーたちが物珍しそうに見ているのは分かっていた。叫びながらおれがここまで来たせいで注目を集めたが、そんなことはどうでもいい。今はただ名前をこの腕に抱きしめたかった。
だけど名前は、他人のようにすっとおれの腕から離れて行く。胸がズキンと抉られる。
以前、人前で話しかけるなと言ったのは他の誰でもない自分自身だ。なのに離れていく名前に傷付くおれはなんて勝手だろうか。
散々名前の身体を好きにしておいて、よくもそんな非道なことが言えたもんだと今更ながら自分を殴りたくなった。
オヤジに右頬も殴って貰えば良かった。
「いいんだ、名前。誰に見られたって構わない。あの時は酷いことを言って悪かったよい」
ゆっくりと、手を伸ばす。
「……ここに、おれの子がいるんだろい」
まだ目立たない名前のお腹にそっと触れると、そこはほんの少しだけ膨らんでいた。
「……っ、ど、どうして、そのことを……」
「エースに聞いたんだよい。エースはナース長から聞いたんだ。名前の相手を知らないかって」
そう告げた途端、名前の顔がみるみるうちに青ざめる。
そして、慄きながら後ろに下がって行く。
「……い、や……いや、です……私、堕したくありません……マルコ隊長に、迷惑はかけませんから……このまま行かせて下さい」
一歩、また一歩と、名前はおれから逃げるように後退る。
おれが『堕ろせ』と言いにきたと思っているんだろうか。
自分の行動を振り返ると、そう思われても仕方ないことをした。
呼び出してはただセックスするだけで、名前が話したがっていても無視してベッドに押し倒し、あまつさえ部屋の外では話しかけるな、迷惑だ、と言い放った。
そんな扱いしか、しなかった。
おれがここまで名前を追い詰めた。
おれは最低だった。
「名前……」
とにかく怯える名前を落ち着けようと、手を伸ばす。
しかし、その手からも逃れようとさらに後方へ下がる名前がタラップの足場を踏み外した。バランスを崩した彼女の身体がぐらりと傾く。
「……っ、危ない……!」
おれはとっさに名前の手首を掴んで引き寄せる。衝撃を与えないよう全身で包み込むと、トン、と柔らかな頬が胸に当たり、熱い吐息が掛かった。次いで花のような甘い香りがふわりと鼻腔を擽る。
それはまるで、名前を初めてこの腕に抱いた時のようで……
あの日の感覚が鮮明に頭の中に蘇った。
だけどあの時のような歪んだ欲望は現れない。
あるのは、愛しさと、切なさと、この胸を焦がすほどの愛情だけだ。
もし叶うなら、あの日に戻って名前と一からやり直したい。
そしたら、今度は傷付けない。
絶対に泣かせたりしないのに……
「……名前、好きだ」
受け止めた体勢のまま、柔らかなグレージュの髪に手を差し込み、ぎゅっと抱き締める。
「おれの子を産んで欲しい。一緒に育てさせてくれ……」
耳元に寄せた唇で懇願すると、名前の身体がビクッと強張った。
「……駄目かい……?」
身体を強張らせたまま何も答えてくれない名前に不安になり、問いかける。
少しくらい待てないのかと、堪え性のない自分を責めるが、おれだって怖い。
名前がどんな返事をするのか怖い。
必死に平静さを保っているが、本当は足が震え出しそうなほど怖いんだ。
名前は子どもを産みたがっているが、それは母性がもたらすもので、おれのことはもう必要ないと思っているかもしれない。
むしろ、あんな酷い仕打ちをしたおれなどもう嫌悪していてもおかしくない。
もし、名前に断られたら……
────いや、断られても諦めるもんか。
腹の子の父親と認めて貰えるまで……
もう一度名前に好いて貰えるまで、おれは力を尽くす。
名前が島へ降りても、毎日名前の元へ通ってやる。
一ヶ月でも、一年でも、十年でも。
何年掛かろうと、おれは諦めない。
堅く決意して抱き締める手に力を込めるが、名前はおれの胸を押し返す。
再び腕の中から離れていく名前に、心が千切られそうだった。
「……あの人とは……別れたんですか?……」
ぽつりと言われて名前を見る。
一瞬、誰のことを指しているのか分からなかった。
あの女のことなんて本気で綺麗さっぱり忘れていた。
「……アイツとは付き合ってないよい」
「……で、も……」
「あの日、勝手に部屋へ押し掛けてきたんだよい。サッチと別れたから付き合おうと突然キスしてきて……そこに名前が来た」
あの現場を見て名前は、おれとあの女が付き合ったと勘違いしたんだろう。
「付き合うつもりはないと断り、二度とくるなと追い返したよい」
「…………で、でも、マルコ隊長は、あの人のこと、好きなんじゃ……」
「……以前はそうだった。今は何とも想ってない」
「……うそ、」
「うそじゃねェよい。名前が好きで、名前のことしか考えられねェんだ」
「……うそ、……うそっ……!」
「本当だ。なぁ名前、こっち向いてくれよい……」
名前の顎を掴んで上向かせ、潤んだ瞳を見つめる。
「……怖かったんだよい。名前に本気になって、アイツみたいに捨てられるのが……だから、身体だけの関係だと割り切っておきたかったんだ……」
自分の臆病さと情けなさに下唇を噛む。
「でもいつの間にか手放せないくらい名前を好きになってて、誰にも渡したくなくて毎日名前を呼び出して、エースに笑いかける名前に嫉妬して、わざと冷たくしたりして……」
いい年こいて独占欲丸出しで何やってんだよな、と自嘲を零すと、名前の大きな瞳からぽろりと雫が落ちた。
「ろくに話も聞かず、名前を傷付けて悪かった。一人で思い詰めさせて……本当にすまなかったよい……」
また、ぽろり、と。
言葉を告げるたび、名前の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。
「…………っ、マルコ、隊長…っ…」
涙を流しながら名前がおれの胸に飛び込んでくる。何度抱き締めても離れて行った名前が、自分から、おれの胸に。
「……私、怖かった……マルコ、隊長に『堕ろせ』って言われると思って…っ…ずっと、怖かった……」
息を詰まらせながら、名前は一生懸命言葉を紡ぐ。
「……私、本当に、産んでもいいんですか?……この子を……マルコ隊長の子を……」
震える指先でキュッと腕を掴み、おれにしがみついてくる名前が愛おしくて仕方ない。
健気で、いじらしくて、堪らない。
「ああ、産んでくれ。二人で育てて行こう。名前のことも、この子のことも、大切にする」
泣きじゃくる名前の手を取り、彼女の手のひらを自分の誇りにぐっと押し当てる。
「この刺青に懸けて誓うよい。名前を必ず幸せにすると」
胸に伝わる、手のひらの熱。
名前の温もりを感じるだけで、ドクン、ドクンと、おれの心臓は銅鑼を掻き鳴らしたように激しく轟いていく。
身体の隅々まで見て、口に出すのも憚られるようなこともたくさんした。なのに、名前の体温一つでこんなにも胸を騒がせる甘酸っぱい自分に照れ臭さを憶えつつ、指先でそうっと確かめるようにおれの刺青をなぞる名前を見つめた。
「……私も、……」
涙を拭った名前の双眸が、強い決意を持っておれの瞳を見つめ返す。
「……誓います。一生、マルコ隊長と、この子を、愛する、って……だから、この先もずっとお傍にいさせてください」
おれをしっかりと見つめたまま、名前も刺青に誓いを立ててくれる。
そして、まだほんのりと濡れている桜色の頬を緩めてふわりと微笑んだ。
それは、まだおれと名前が始まる前の、おれだけに見せてくれていた、あの眩しい笑顔で。
またその笑顔を見せてくれた名前が、愛おしくて……
名前をぎゅっと腕の中に閉じ込めると、それまで息を殺しておれたちを見守っていたクルーから大歓声が沸き起こった。
