Novel
365日の光 - 14
「……いいか、名前、よく聞け。お前は好きかも知れねぇが、おれは甘いものが嫌いだ。その嫌いなモンを押し付けて教えろって、それは一体どんな理屈だよ。もっとましな交渉術を身につけろ」
懇々と説くが、名前の耳には念仏だった。
「まあ、細かいことはいいじゃないですか。色々聞きたいことがあるんです。これからも書類仕事頑張りますので教えてください。お願いします、お願いします、お願……」
「ああ、もうしつけぇ……わかったよ。何が聞きてぇんだ。あと一つだけなら何でも答えてやるからよく考えて質問しろ」
今度は『お願いします』攻撃をされ、辟易とする。
名前のしつこさには脱帽だ。
めげずに一年間告白しただけのことはある。
さすがというか、やはりというべきか……
結局、おれは根負けして要求を呑んだ。
だって、仕方ないだろ。
このままじゃ苛々して、折角断った煙管を吸いたくなっちまうんだから。
とはいえ、他の奴等には何をどれだけ聞かれても更々答える気はないが、名前には答える気になっている。
我ながら、名前には甘いものだと苦笑を零す。
だが、実際こいつは小柄な女の身でありながら、男でも根を上げる厳しいおれの訓練によく耐えて頑張っている。
最初こそ、マルコ目当てにやってきた浅ましい女だと思い、過酷な訓練をさらに厳しくして追い出そうと試みた。しかし名前は、あまりの辛さに胃の中が空っぽになるまで吐きながらも、必死に訓練に食らいついてきた。
脱落する男が大勢いる中、死に物狂いで頑張る名前はそこいらの男よりもよっぽど根性があった。
見上げたものだった。
隊務だってそうだ。
要領のいい奴らに、掃除、洗濯、書類仕事と、面倒ごとを押し付けられている姿を幾度となく見てきたが、名前は文句一つ言わずに日々懸命にこなしている。
隊務が深夜に及んでも、毎日欠かさず自主鍛錬に励んでいるのも知っている。
ナースに嫌がらせを受けていた時も、名前は誰にも相談せず、泣き言も言わなかった。
頭から水を掛けられたり、暗闇に閉じ込められたり、髪を切られたり……そんなえげつないことをされていたにも関わらず、だ。
『ナースが名前に嫌がらせをしてるみたいなんだよい』と、マルコに相談された時はこんなに酷いとは思わず、目の当たりにした時は腹わたが煮えくり返る思いだった。
当然マルコもここまで悪質だとは知らずに、自分が言うと嫌がらせに拍車がかかることを懸念し、おれに注意するよう頼んできたが、結局自分でも次やれば船から降ろすとナースに警告していたほどだ。
それを、こいつは一人でずっと耐えていたんだ。
多くの隊員を預かる立場上、贔屓なんてあってはならないが、そんな名前に少しばかり甘くなるのは仕方ないと思わないか。
甘やかす理由を心の中で正当化しながら、「うーん」と唸る名前を見やる。
人差し指と親指を開いて顎に置き、じっくり質問を吟味している、名前。
この状況に至ったのは完全に成り行きだが、名前の決めた質問には、嘘偽りなく本音で応えてやるつもりだ。
例え、惚れた女の名を直球で聞かれても包み隠さず本心で。
一種の賭けみたいなもんだった。
今更名前がそれを知ったところで、どうにもならないし、困らせるのは承知の上。
だが、おれの腹の中には知って欲しい気持ちがほんの少しある。
知られるのが怖い気持ちもある。
相反する二つの感情が揺らいでいるのだ。
案外、男心も難しいもんだな。
つまらないことを気にしていたマルコに、散々意気地なしだの臆病者だの罵ってきたが、実際おれも似たもんだったってワケだ。
情けねぇ。
「よし、決めました」
ぼんやり考えてる内に、名前の質問が決まったようだ。
真剣な表情でおれを見る名前の目を見つめ返す。
もう、腹は据えている。
「えっと、それじゃあ……惚れた女の幸せを願うってどういう意味なのか教えてください。どうしてイゾウ隊長が幸せにしてあげないのか、やっぱり不思議で……」
名前の質問に、拍子抜けする。
ホッとしたような、残念なような。
複雑な気分だが、結果的にはこれで良かったんだろう。
自分でも気付かないうちに握り締めていた拳をひらくと、かすかに汗ばんでいた。緊張なんてらしくない。だが、名前のことになるといつもこうだ。
おれの中で何かがおかしくなる。
自嘲気味になりながら、おれにそれを訊く名前の無邪気さに、ふっと笑った。
「おれが惚れてる女には恋人がいてねぇ……おれなんて、笑っちまうくらい相手にされてねぇんだよ。だから、おれはそいつを幸せにできねぇ。でも、願うだけならできるだろ。そいつには、幸せになって貰いたいんだ」
淡々と告げる。
別に大したことじゃないんだ、と言うように感情を乗せずにあっさりと。
上手く伝えられたと思ったが、名前は悲しそうに目を伏せた。
「……それって、イゾウ隊長は報われない恋をしてるってことですか?」
ストレートな言葉が、ツキンと胸に刺さる。
「ああ、そうだな」
力なく笑うと、名前は寂しげに言った。
「……イゾウ隊長みたいな完璧な人でも、好きな人に振り向いて貰えないなんてことがあるんですね」
「人の好みなんてそれぞれだろ。それに、おれは完璧なんかじゃねぇよ」
湿っぽいのが嫌で、茶化すよう大げさに肩を竦めてみせる。すると、名前は空気を読んだのか納得したように「確かに、性格は難有りですよね」と、真顔でぶっ込んできた。
思わず「そこはフォローしろよ」と突っ込むと「あっ、心の声が洩れました。すみません」と焦る名前を見て、本音だったのかとつい噴き出してしまう。
おれが笑うと釣られて名前も笑い、二人でしばらく笑い合った。
一頻り笑うと、名前はおれを見て「でも…」と静かに声を上げる。
「……辛い、ですよね、片思いって。私なら絶対イゾウ隊長を選ぶのに……相手の女性は見る目ないな……なんて。まあ私なんかに選ばれてもイゾウ隊長は嬉しくないと思いますけど」
独り言のように、ポロッとそんな言葉を口にする。
おれを励まそうと自虐的な台詞を吐きながら、あはは、と屈託なく笑う名前に、胸の奥底が疼く。
ぎゅうっと締め付けられる。
息が苦しい。
…………ああ、名前。
お前は、優しくて、残酷だな。
おれが自分に想いを寄せてるなんて、これっぽっちも考えていないんだろう。
おれはもう、ずっと前からお前のことが好きなのに。
毎朝告白するお前を見て、おれがどれだけマルコに嫉妬していたか、お前は知らないだろう。
お前がマルコに告白して振られるたび、おれもお前に振られていたんだ。
胸に広がる痛みを、ぐっと抑える。
大丈夫だ、これくらい慣れている。
自分にそう言い聞かせて腕を組むと、おれは精一杯の皮肉っぽい笑顔を浮かべてみせた。
「あぁ……全くだ。お前に選ばれても、これっぽっちも嬉しくねぇな」
声が、少し掠れてしまう。
平常心を保ちながら言い放つつもりが、失敗した。
こんなに簡単に動揺するなんて、まだまだ未熟な証拠だ。侍の名が泣いちまう。
他に不自然さはなかっただろうか。
おれはうまく笑えているのだろうか。
不意打ちような名前の言葉が深くトゲみたいに刺さり、普段の振る舞いが出来ているか不安だった。
「えー、それは言い過ぎですよ。ひどいなー、もう」
唇を尖らせて傷ついたフリをする名前を注意深く観察するが、どうやら何も気付かれてはいないようだ。
ホッとする反面、これがマルコのことならすぐに勘付くんだろうな、とわずかに寂しさを憶えた。
「まあ、おれの話はもういいよ。それより、名前」
「はい」
「お前、マルコとはもうヤッたのか」
「へ? え!? ええええっ!!」
唐突に話題を変えると、名前は一瞬キョトンと目を丸くする。が、すぐに質問の意味を理解して、いきなり何を訊くんですか! と、顔からボッとエースみたいに火を噴き出した。
「お前の質問にいくつも答えてやったんだから、今度はおれの番だ。答えろよ、名前」
「だ、だめです! そんなプライベートすぎる質問! 答えられません! っていうか、そんなこと聞くなんてセクハラですよ! セクハラ!」
茹で上がったタコみたいな顔してプンプン怒る名前。
この様子じゃ、まだヤッてなさそうだ。
一瞬安堵してしまう自分が堪らなく嫌になる。だが、もしもう手を出されていたなら、あの時冗談で済まさず名前を自分のモノにしなかったことを後悔する所だが、大事にされているようで一安心する。
「やれやれ。海賊のくせにお堅いねえ。だったら質問を変えてやるよ。そうだな……マルコは大切にしてくれているか」
頬を冷ますようにパタパタと仰いでいた小さな手がぴたっと止まる。名前はおれを見ると、照れくさそうにはにかんだ。
「はい、それはもちろんです」
「そうか。だったらな、名前」
「はい?」
首を傾げて、じっとおれを見つめる薄茶色の瞳。
「……お前はいま、幸せか?」
おれの問い掛けに、目尻を下げてくしゃりと表情を崩す。
その眩しい笑顔に目を細めると、名前はしっかりとおれの目を見つめ返し、心から幸福そうな表情でこくりと頷いた。
「はい、幸せです」
一片の迷いもない名前の答えに、嬉しさと喜び。それと、ほんの少しの寂しさを混ぜ合わせたものが胸に込み上げてくる。
「……そうか。お前が幸せならそれでいい。これからもマルコに大事にしてもらえよ」
「はい、イゾウ隊長」
サラリとした髪を耳にかけて笑う名前の頭をポンと撫でると、おれは今できうる限りの最高の笑顔を彼女に向けた。
……今でも、夢に見る。
あの日、助けていたのがおれだったなら……
いま、お前の隣にいるのはマルコではなく、おれだったかもしれないと。
何度、お前を奪ってやろうと考えたかわからない。
マルコなんかやめて、おれにしろって何度も何度も思った。
だが、お前の世界はいつもマルコで一杯だった。
乗船したときも。
マルコを諦めると泣いた日も。
告白をやめたあとも、ずっとだ。
お前はいつだって、一途にマルコだけを思い続けていた。
……いつだって、お前の中にはマルコしかいなかった。
おれなんか、眼中にもなかっただろ?
知ってるさ。
ずっとお前を見てたから。
だから、おれは言葉を飲み込んだ。
おれじゃ、お前を幸せにできないから。
おれと付き合っても、お前は絶対マルコを忘れない。
きっと、何をしていても、どこへ行っても、お前はマルコを思い出す。そうして、マルコを想う自分に罪悪感を抱くんだ。
おれと付き合いながら、マルコを想ってしまう自分に。
そんなのは本当の幸せとは言わない。
おれは、お前に笑っていて欲しいんだ。
……苦しいな、片恋ってやつは。
どれほど相手を大切に思っても、自分じゃ幸せにできない、なんてな。
ったく、やるせねぇったらないよ。
……だがな、名前。
だからこそ、お前とマルコが付き合いだしたと聞いた時、心臓は潰れそうなほど痛んだが、その反面喜びも大きかった。
お前が、幸せになるんだと。
幼少期のお前の姿を思い出すと、今でも胸が締め付けられるよ。
酷い境遇だっただろう。
おれも似たようなもんだったから、よく分かるさ。
なのにお前は真っ直ぐに育ち、乗船してからも皆の役に立とうといつも一所懸命だった。
何事にも人一倍頑張るお前を、おれは純粋に愛おしいと思った。苦しくても辛くても、涙も見せずに歯を食いしばってやりきるお前の姿に胸を打たれた。
そんなお前が、やっと掴んだ幸せだ。
お前が幸せになるんなら、煙管くらいやめてやる。
おれの幸せも、全部くれてやる。
お前が笑ってくれるなら、それでいい。
お前の幸せが、おれの幸せだ。
だから、この先も……
ずっと幸せでいてくれ。
そしたら、おれはお前を諦められる。
一度だけ言わせてくれ。
お前のことが、好きだった。
