Novel
365日の光 - 01
朝、いつもの時間。
この船──、モビーディック号の船内と甲板を繋ぐ扉の前に私は立つ。
隊の規律を重んじ、時間に正確な彼は、朝食のため毎朝同じ時刻にここを通る。
今日も、もう少しでこの扉が開くはずだ。
はやる気持ちを抑えて扉を見つめているとギィ、と硬い木の音が鳴り、扉から彼が姿を現した。
すらりとした長身に、まばゆい金色の髪。開け放たれたシャツの隙間から晒されているのは、これでもかと主張された彼の大切な誇り。
時間通りに現れた彼に頬を緩ませると、私は小走りで彼の元へ駆け寄った。
「おはようございます、マルコ隊長。好きです、付き合って下さい」
「おはようさん、名前。気持ちは嬉しいが、お前ェは大事な家族だよい」
サラリと流れる会話。
いつも通りの言葉を交わしたマルコ隊長は、スタスタと食堂へ歩を進める。
ああ、また振られてしまった。
今日で360日目。
でも、彼の口から『大事』と聞けるだけで生きてて良かったと実感する私は、存分に末期だと自覚している。
残り、あと5日。
普段はここで諦める。
しかし、今日はマルコ隊長の背を追いかけた。
「マルコ隊長」
「なんだよい」
ちらり、と振り向くマルコ隊長。
でもすぐに視線は前に戻る。
見上げた先にある彼の後頭部は、南国フルーツを彷彿とさせる愛らしさだ。
「前回の上陸から2週間以上経ってますよね?」
「そうだねい」
「溜まっていませんか?」
「なにが」
「ほら、次の上陸までまだ5日もありますし、もしかしてお困りじゃないかと思ったのですが」
「……つまり、何が言いたい」
「私で発散しませんか?」
忙しなく動いていた長い足が、ピタリと止まる。
こちらを振り返るマルコ隊長の瞳に映ることが嬉しくてついヘラヘラしていると、マルコ隊長は大きな手で額を覆い、呆れたように「ハァ……」と息をはく。
「おい、名前。何度も言うが、この船に乗った時からお前ェは家族で『妹』だ。その『妹』に手ェ出すほど、おれは女に不自由してねェよい」
「でも、一度くらい試してみても?」
「試さねェよい」
「凄くいいかも知れませんよ?」
「名前、お前ェ処女だろい」
「え? あー、うーん、ちがいますよ!」
「嘘を吐くなよい」
「な、なんで判るんですか……?」
「んなモン見りゃわかんだよい。お前ェはまだ若いんだ。冗談言ってねェで大事に取っとけ」
ポン、と私の頭に軽く手を置き、マルコ隊長は行ってしまう。
あーあ。
身体もダメだった。
確かにマルコ隊長ってモテるんだもん。
女性には事欠かないか。
そりゃあ、格好良くて妙に色気があって、冷静で実力もあって優しい、とくれば、落ちない女性はいないよね。
美人揃いのナースさんにも大人気で、ファンクラブまで結成されてるみたいだし。
でも一度くらい抱いてくれたっていいのにな。
減るものでもないし。
……いや、まてよ。
もしかすると、処女が面倒臭いとか?
処理するなら後腐れない方が楽だろうし。それならすぐにでも捨ててくるんだけどな。船には男ばかりだから頼めば誰かしら貰ってくれるだろう。初めてはマルコ隊長に捧げたかったが、背に腹は変えられない。
それともいっそ、夜這をかけようか。
なんて……
そもそもマルコ隊長の部屋まで行けるなら、往来の激しい甲板でなんて告白しない。
初めこそ口笛交じりにからかっていた仲間も、いまや呆れ顔で完全スルーだ。
だけどマルコ隊長は多忙を極める人だから、部屋まで押しかけて仕事の邪魔になるようなことは絶対にしたくない。
深夜でも部屋の明かりは廊下に漏れてるし、夜は遅くまで、朝は早くから、仕事をするマルコ隊長の短い睡眠時間を妨害するなんて、私ごときがとんでもない。
だから夜這いなんて、私には無理すぎるクエストなのだ。
はぁ~……
今日も惨敗だったな。
この巨大船、モビーディック号で部屋には行かないと決めた私がマルコ隊長に接触できるのは、彼が朝食に向かうわずかな時間のみ。
そのまま朝食について行きたい所だが、1600人ものクルーがいるこの船ではそれも無理な話。
いくらベテランコック揃いのサッチ隊長率いる4番隊が料理番を担ってるとはいえ、飢えた野獣と化す男たちの食事を一斉にまかなうのは不可能である。
だから食事どきは、16番まである隊を2分割にして、時間をずらして食べているのだ。
『1番隊~8番隊 』
『9番隊~16番隊』
ちょうど真ん中で区切られて、とってもわかりやすい分け方だ。
でも私は16番隊で、マルコ隊長は全隊を統轄する1番隊。
つまり、端と端。
まるで私とマルコ隊長の心の距離を具現化したかのような隊のせいで、食事をご一緒するのは夢のまた夢で……
それに16番隊を率いるイゾウ隊長は何かと人使いが荒く、隊務中は小間使いよろしく色んな雑用を回されまくり、マルコ隊長とは言葉を交わすどころか、顔すら拝めない日々。
だから、この際一度でも抱いて貰えたら、なんて希望を抱いたが即座に切り捨てられ…………
あーあ。
本気だったんだけどな。
────って、まずい。
噂をすればなんとやら、だ。
遠ざかるマルコ隊長を見つめながら物思いにふけていると、メインマストの陰から和装姿の見目麗しい女性が……
もとい、我らが隊長様のお出ましだ。
隊長は佇む私を見つけ、真っ直ぐこちらにやってくる。
「おはようさん、名前」
「おはようございます。イゾウ隊長」
「またマルコに振られてたのか?」
「……そ、そうです」
「毎日毎日、お前ぇも懲りないねぇ」
「……はい、すみません」
おっしゃる通りで返す言葉もございません。
傍で見てるといい加減文句も出ますよね。
自分でも、こんなしつこい奴がいたらイゾウ隊長と同じセリフを吐く自信ありますし。
でも、これは一度決めたことだから。
あと5日だけ頑張らせて下さい。
すみません。
「そうだ。名前、手ぇ出してみな」
心の中でぶつぶつ懺悔する私をよそに、イゾウ隊長は袂を探る。
はっ、これは、まさか……!
イゾウ隊長の動作に、私は先日頂いたお煎餅が頭に浮かぶ。
ざらめ煎餅という甘辛さが妙にクセになるお煎餅。イゾウ隊長の故郷の名産品らしいが、なかなかの絶品なのだ。
私はまたそのお煎餅を貰えるんじゃないかと、ウキウキしながら両手を前に差し出した。
しかし。
パタパタと風にはためく白い物体を手に乗せられ、ぐぐぐっと眉根が寄る。
「………………なんですか、コレ」
「見てわからんか? 書類だよ」
そう。
風に飛ばされぬようしっかりと手のひらに乗せられたのは、10枚ほどの紙が綴られた書類の束。
表紙には『16番隊備品チェックリスト』の文字と共に、提出期限に今日の日付がでかでかと赤ペンで記されている。
まさかと思い、試しにパラパラ書類を捲ってみるが、どこにも記入はされておらず、嫌な予感しかしない。
イゾウ隊長を見上げると、彼は書類のついでに取り出した愛用の煙管に火をつけ、煙を吐き出しながら事もなげに言い捨てた。
「その書類、やっておいてくれ。提出期限を忘れてたんだ。マルコを見る暇があるなら余裕でできるだろ」
「ええーーっ!!」
いきなりの面倒事に、頭がくらりとする。
簡単に言ってくれるが、100人分の備品をチェックをするのは相当な労力だ。
しかも、てっきりお煎餅を貰えると思っていた私のテンションは一気にだだ下がり、恨めしげにイゾウ隊長を見上げる。
「……なんだその顔は。まさか煎餅でも貰えると思ったのか?」
「そうですよ! 思いましたよ! だってまだ隊務時間じゃないんですよ! それに暇だからマルコ隊長を見てるんじゃなくて、マルコ隊長を見るために早起しているんです! 私の生活の一部なんです! それなのに書類を押し付けるなんて……ひどすぎますよ……」
ぼやきながら、ガックリと肩を落とす。
隊多しといえ、時間外に仕事を強いるのはイゾウ隊長くらいなものだ。
「ったく、わかったよ。煎餅はあとでやるから、その恨みがましいツラはやめろ」
「……えっ、本当ですか?」
「ああ。不備なく済ませたら、茶も振舞ってやる」
「やったーっ!!」
嬉しくなって、その場で飛び跳ねる。
イゾウ隊長の点てるお茶は格別に美味しいのだ。作法も美しく流麗で、見るだけで楽しく優雅な時間を過ごせる。
それに、あの甘辛いお煎餅には、イゾウ隊長の点てる苦味の効いたまろやかなお茶がよく合うことだろう。
こんなことで喜ぶなんて我ながらゲンキンだと思うが、何しろ船上の楽しみなんてマルコ隊長に会える他は、美味しいものを食べるくらいしかないのだ。
まだ頼まれた仕事に一切手を付けてないにも関わらず、いまからお煎餅とお茶のハーモニーを想像して一人ウキウキしていると、イゾウ隊長がさらに嬉しい言葉をくれた。
「それとな、16番隊の次の休みは名前の希望通り、5日後に決定した。上陸予定の日だから他隊の希望も多くて取るのが大変だったが、なんとかなったよ」
ああ、良かった。
その日はマルコ隊長に告白する最後の日だから、どうしても休みが欲しくて事前に申請していたのだ。
怪我や病気以外の休みは各隊ごとにしか取れないから心配していたが、希望が叶いひと安心する。
「ありがとうございます」
骨を折ってくれたことに感謝を伝えると、イゾウ隊長が満足げに微笑む。
イゾウ隊長は基本的にものぐさで横着な人だが、戦闘訓練になると人が変わったようにあり得ないほど厳しく、激しい人になる。ひとたび戦闘になれば命の奪い合いになるから厳しくて当然だ、とイゾウ隊長は仰るが、その鬼教官ぶり故に私はこれまで何度も彼に嫌気がさしてきた。
だけど時々見せる気遣いや、優しさ。
そして、私みたいな見習い船員の要望にも寄り添う配慮をしてくれるから、嫌いになれない人なんだな。と、その笑顔を見ながら思う。
しかしながら、そのまばゆい笑顔の美しさに、性格と容姿はまったく比例しないものなんだなと、つい余計な事まで考えていると、イゾウ隊長の長い指が電光石火の如くおデコに飛んできた。
ペチンッ、と小気味のいい音を奏でる私のおデコ。
「いっ、たぁーいっ……!!」
じん、と痛むおデコをさすり、「なにするんですかー」と涙目で抗議すると、「ロクでもねェこと考えてるからだ」と返された。
なぜバレた?
全くもって鋭いお人だ。
「じゃあその書類、頼んだよ」
「はい、すぐやります」
ビシッ、と敬礼のポーズを送ると、イゾウ隊長は軽く頷いて身を翻す。
長い黒髪を靡かせるしなやかな後ろ姿は、もはや女よりも女らしい。
つい羨望の眼差しを向けていると、食堂付近でクルーと話し込んでいるマルコ隊長の姿が遠目に見えた。
今日はもう会えないと諦めていたマルコ隊長を再びこの目で見れて、胸がときめく。
やっぱり、好きだ。
好きで、好きで、たまらない。
気怠げにクルーに笑いかけるマルコ隊長。その素敵な姿が食堂へ消えるまで、私は彼に熱い視線を送り続けていた。
