Novel

月夜の魔法

細い三日月が浮かぶ夜。

モビーディックの甲板はオレンジと紫の色彩に包まれていた。

今宵は特別な夜──白ひげ海賊団のハロウィンパーティーが月明かりの下で開催されるのだ。甲板には不気味な影を落とすカボチャやコウモリ、ゆらゆらと潮風に揺れる蜘蛛の巣などが飾られ、妖しげな雰囲気をいっそう引き立てている。明かりは一切使わないという趣向で、三日月の淡い光だけが会場を照らし出す。その光は、様々な仮装をしたクルー達の姿を幻想的に浮かび上がらせていた。

そんな中、大きなカゴを抱えた私は、甲板の隅で気持ちを落ち着かせていた。今夜の任務はクルーにお菓子を配ること。黒いとんがり帽子に短いスカート、そして長めのブーツという魔女の衣装が妙に落ち着かない。私と同じ魔女服に身を包んだナースさんたちは、すでに軽やかな足取りでお菓子を配り始めているのに。彼女たちにとってミニスカートは日常だが、普段パンツスタイルの私には拷問のようだ。一体誰がこんなコスチュームを選んだのだろう。異議を唱えたい気持ちでいっぱいだ。

できるものならこのまま隠れていたいが、任務は任務。ナースさんたちにばかり任せてはいけない。胸中で自分を叱咤し、心許ないスカートの裾を引っ張りながら私はクルーの輪に向かって歩き出した。すると、背後から聞きなれた声が響いてくる。

「おー、名前! その衣装、似合ってるな!」

驚いて振り返ると、そこにはオオカミ男に扮したサッチ隊長が立っていた。彼の隣では、ジョズ隊長がフランケンシュタインの仮装姿で気恥ずかしそうに笑っている。縫い目のある緑色の顔にボルトまで突き刺して、かなり本格的な出来栄えだ。

「あ、ありがとうございます。でも、なんかスカートって履きなれなくて……」

膝上でヒラヒラ揺れるフレアスカートの裾をぎゅっと掴みながらそう呟く。サッチ隊長はそんな私の全身をじっと見つめ、得意げな表情を浮かべた。

「それがいいんだって! やっぱおれのセンスは最高だな」

誇らしげに胸を張るサッチ隊長に、私は一瞬言葉を失った。彼の自信満々の笑顔を見れば、それが何を意味するのかは一目瞭然だ。

「あの、まさか、この衣装って……」

「そう、おれが選んだんだ。やっぱハロウィンって言ったら魔女だろ!」

「ええっ!?」

驚きと不満が入り混じり、思わず声を上げる。この短すぎるスカートを選んだ犯人が彼だったとは。いや、よくよく考えれば彼以外あり得ないのだけれど。それでも、ナースさんたちならまだしも、私にまでこんな格好させるなんて酷くないだろうか。抗議が喉元までせり上がるが、不穏な気配を感じたのかサッチ隊長が先回りして口を開いた。

「まあまあ、よく似合ってるんだから気にすんなって! 今夜はパーティなんだからさ! ほら、名前はお菓子配んだろ? みんな待ってるぜ」

その明るい声に、一瞬肩の力が抜ける。でも、確かにそうだ、今夜はパーティなのだ。楽しまなければ、この催しを開いてくれた船長にも申し訳が立たない。隣で静かに頷くジョズ隊長も普段の照れを隠し、メーキャップまでしてフランケンシュタインになりきっている。もしかするとサッチ隊長にメイクされたのかもしれないが……いや、つまらないことは気にせず、私もこの一夜を楽しまなくては。

ようやく何かを吹っ切れた私はカゴを抱え直し、微笑みを浮かべた。

「そうですね、せっかくのハロウィンですから、楽しまないとですね! では、お二人もどうぞ、お菓子です」

まだ少し恥ずかしさは残るものの、私は二人に向かってお菓子を差し出した。サッチ隊長は黄色のキャンディを手に取ると、「サンキュー!」と陽気な声を弾ませ、本物のオオカミ男のように三日月に向かって遠吠えを上げた。ジョズ隊長も銀紙に包まれたチョコレートを受け取りながら、緑色の顔に笑みを浮かべる。「ありがとう」と優しい声を残して二人はパーティ会場へと消えていった。

彼らを見送ったあと、私はナースさんたちに習って笑い声や音楽が響く甲板を、お菓子を配りながら巡っていた。思い思いの仮装に身を包んだクルーたちは、楽器の音色に合わせて踊ったり笑ったり楽しそうで、私もついつい笑顔になってしまう。彼らと会話しながらお菓子を配り歩くと、カゴの中身はあっという間になくなっていく。あとどれくらい残っているだろうとカゴの中を確認していると、低く澄んだ声が頭上に降ってきた。

「よぉ、名前

俯いていた顔を上げると、そこにはイゾウ隊長が立っていた。ヴァンパイアの仮装をした彼の姿に、思わず息を呑む。ただでさえ端正な顔立ちが、今宵はいっそう人ならざる美しさを宿していた。

真っ白な肌に映える漆黒のマントが存在感を引き立て、いつもの黒から銀に染められた長い髪は後ろに流されている。その冷たく光る銀髪から一房垂れた前髪は月光に照らされ、幻想的な輝きを放っていた。鋭い牙と黒曜石のように妖しく光る瞳も、どこか気品を感じさせ、まるで、血を求めて彷徨い現れる闇夜の貴公子そのものだ。こんなにも完璧なヴァンパイアがいたら、世の女性たちは血を差し出すどころか、魂まで捧げてしまうだろう。神話や御伽噺から抜け出たような美しい佇まいに、私はほうっと息をつく。

「……素敵です、イゾウ隊長。すごく似合ってます」

普段よりもいっそう深い赤に染められた薄い唇が、月明かりの下でゆっくりと持ち上がる。磨かれたような鋭い牙がきらりと閃く。

名前の魔女姿も似合ってるよ」

こんな素敵な人に褒められて、耳が熱を帯びる。たとえそれが社交辞令でも嬉しい。普段と違う格好をしているからなおさらだ。「ありがとうございます…」と小さく呟きながら照れを隠すようにカゴの中に手を入れ、私はお菓子を取り出した。

「あの、キャンディです。よかったら食べてください」

「ああ、ありがとう」

イゾウ隊長は優雅な手つきでそれを受け取ると、水玉模様の包みを解き、キャンディの丸い表面をなぞりながら口に運んだ。そして、不意に尋ねてきた。

「マルコには、渡したのか?」

その言葉に、私の心臓が一瞬で跳ね上がる。どうしてここでマルコ隊長の名前が出るのだろう。まさか、イゾウ隊長は私の気持ちに気付いているのだろうか。

以前、嵐の中で海に落ちそうになった私は、マルコ隊長に助けてもらったことがあった。彼は能力者なのに、自分が海に落ちるかもしれないのに、危険を顧みず私を助けてくれた。強い腕に引かれ、その胸の中に受け止めてくれた時、私の中で彼に対する想いが変わった。濡れた髪から滴る雨粒、心配そうに見つめる青い瞳、そして、触れ合う箇所から感じる体温。

『大丈夫か? 名前』と、息遣いとともに吹き込まれたあの日の声が、今でも耳の奥に残っている。

それ以来、私はマルコ隊長のことが頭から離れなくなった。彼の優しさ、強さ、そして時折見せる物憂げな表情。全てに惹かれ、あの時からずっと彼を慕っているのだ。けれど、気持ちが募るほど、彼に近付くのが少し怖くもなっていた。

「……あ、いえ、まだです。……マルコ隊長はお菓子は食べないと聞いたので、迷惑にならないかと思って……」

イゾウ隊長の意外な質問に、ついどもってしまう。なぜ彼がそんなことを聞くのかわからない。戸惑いながらもなんとか答えると、イゾウ隊長は微かな笑みを浮かべた。

「それでも、マルコはお前から欲しいと思うがな」

「……え?」

今のはどういう意味なんだろう。思いがけない返答に、私は何も言えず彼の顔をじっと見つめた。胸の奥がざわつく。困惑していると、イゾウ隊長は軽く肩をすくめてみせた。

「いや、気にするな。せっかくのハロウィンだから、マルコも菓子くらい食べるだろうと思ってな」

その言葉がつきんと胸に刺さる。本当は何度もマルコ隊長にお菓子を渡しに行こうとした。甲板へ出た瞬間から目で追い、お菓子を配りながらも彼を探し続けた。ナースさんたちが代わる代わるマルコ隊長に話しかけるたび、私もその輪に入って彼に近付きたいと何度も思った。けれど、いざ行こうとすると足がすくんでしまい、結局他のクルーに足を向けてしまうのだ。

「まあ、気が向いたらあいつにも配ってやってくれ。名前の魔女姿を楽しみにしていたから」

そう言い残すと、彼は黒いマントを翻した。銀髪をなびかせ、まるで闇に溶け込むように音もなく去っていく。それを見届けながら、残された私の心臓はドクドクとものすごい音を立てていた。

名前の魔女姿を楽しみにしていたから』と。そんな爆弾発言を聞いてしまっては、平常心でマルコ隊長の前に立てそうにない。

大きく深呼吸して、視線をそっとマルコ隊長に向ける。彼はここからそんなに遠くない場所で、手すりに寄りかかり、ラム酒の瓶を片手に、夜空を見上げていた。周りのクルーが派手な仮装で盛り上がる中、普段着の彼はまるで別世界のように静かで、その姿がかえって目を引く。

今なら、彼は一人だ。イゾウ隊長の言葉が背中を押してくれるような気がして、そっと一歩踏み出そうとする。けれど、その一歩がどうしても出ない。胸がぎゅっと締め付けられ、足がすくんでしまう。行きたいのに、行けない。躊躇いと迷いが心を揺さぶる中、ふとマルコ隊長がこちらを向いた。

息を呑み、心臓が高鳴る。月明かりの下、目が合うと彼はふっと微笑んでくれた。頬が急速に熱を帯び、息苦しさが増していく。視線を逸らしたいのに、その笑顔に釘付けになってしまう。真っ赤な顔を見られたかもしれないと思うと、ますます彼の元へ行けなくなる。ほんの少しの距離が、途方もなく遠く感じられた。

結局、私はその場で立ち尽くすしかなかった。

「……やっぱり、無理だ」

そっと視線を外し、ひとりつぶやく。彼の元へ行けなかった悔しさが胸の奥でじわりと疼く。けれど、どうしてもその距離を縮める勇気が出せない。お菓子のカゴをぎゅっと握りしめ、私は寂しさを紛らわすように再びお菓子を配り始めた。

笑顔を作り、クルーたちに声をかける。イゾウ隊長の爆弾発言のせいか、心の中でマルコ隊長のことばかり考えているせいか、時折彼の視線を感じる気がして、そのたびに鼓動が速くなっていた。

お菓子をひとつひとつ配り、ようやく最後の一個を手に取る。これを渡せば私の役目は終わりだ。カゴを置き、誰に渡そうか悩んでいると、突然辺りが暗くなった。月が雲に隠れたのだろうか。夜空を見上げようとしたその時、突然誰かに腕を引かれた。そして、柔らかな感触が頬に触れる。それはほんの一瞬の出来事で、何が起きたのか理解できない。ただ風のように優しく、でも確かに触れた温もりに、心臓が大きく跳ねた。

すぐに明かりが戻ると、周りには大勢のクルーがいた。けれど、誰もが当たり前のように笑い、踊り、飲んでいる。まるで今の出来事などなかったかのように、賑やかな歓声と音楽が夜空に響き渡っていた。そんな中、私だけが時間が止まったような感覚に陥っている。

無意識に、私は頬に手を当てていた。まだ唇の温もりが残っているような気がする。今のはなんだったのだろう。いったい誰が……

名前、大丈夫か?」

ハッとして見上げると、マルコ隊長が心配そうに私を見つめていた。こんなに近い場所に彼がいる。青い瞳に映る自分の姿に、さらに心臓が騒ぎ立てる。

「は、はい、大丈夫です」

慌てて答えたものの、頭の中は混乱していた。マルコ隊長がいる場所とは逆へ逆へと足を向けていたはずなのに、どうして目の前に彼が……考えを巡らす間もなく、再び闇が甲板を包み込んだ。今度は月が完全に姿を消したかのような深い暗闇。

「あ…」

また誰かの気配を感じる。今度は後ろから、そっと腕を掴まれた。優しいけれど、逃がさないような力強さがある。ほのかにラム酒の香りが漂い、熱い吐息が首筋をくすぐる。それから……

「……っ!」

背中越しに、柔らかな唇が耳たぶに触れた。ほんの一瞬の接触なのに、全身が燃えるように熱くなる。思わず私はその腕を掴んでいた。たくましく、温かな腕。この感触……そして、この香りは。

「……マルコ、隊長?」

暗闇の中、消えそうなほど小さく呟いた声に低い笑みが返ってきた。

「バレちまったか」

耳元で囁かれたその声は、紛れもなくマルコ隊長のもの。ラム酒の香りがいっそう強くなる。

「待っても待っても名前がお菓子をくれねェから、ついイタズラしちまったよい」

その声には楽しげな響きが混じっていた。胸が張り裂けそうなほど高鳴る。普段なら……いや、さっきまでの私なら絶対にこんな大胆なことはできないだろう。でも、今は、今なら……ハロウィンの特別な魔法にかかったかのように私は一歩踏み出し、くるっと後ろを振り返った。

暗闇でもわかる、目の前の微かな人影。高ぶる感情を抑えながら、そっと彼の首に腕を回し、つま先で背伸びをする。そして、震える指先とは裏腹に、確かな想いを込めて、マルコ隊長の頬に唇を寄せた。

ちゅ、と軽やかな音が周りの喧騒に溶けていく。マルコ隊長の身体が一瞬固まるのがわかる。甘やかな緊張に包まれながら、私は思い切って彼に告げた。

「っ、私も、マルコ隊長からお菓子をいただけなかったのでイタズラしちゃいました」

その言葉に、彼の呼吸がわずかに止まったように感じた。雲が風に流され月明かりが戻ると、マルコ隊長の驚いた顔がぼんやりと浮かび上がる。普段は決して見られないその表情に緊張がすうっと消える。私は思わず小さく笑ってしまった。すると、マルコ隊長もつられたように青い瞳を細め、クスッと微笑んだ。

「お互い様だな」

穏やかな声音が夜空に澄んでいく。仄かな月の光に包まれながら、私たちはただ笑い合った。そして笑いが止むと、マルコ隊長は月明かりに照らされた私の姿を真っ直ぐに見つめ、柔らかな笑みを浮かべた。

「その衣装、よく似合ってるな。サッチが選んだってのは少し妬けちまうが」

思いもよらない言葉に、息が止まりそうだった。カアッと顔が熱くなる。『妬ける』とは、いったいどんな意味だろう。少しは期待してもいいんだろうか。叶わないと諦めていたこの想いに未来はあるのだろうか。頭の中で思考が次々と浮かんでは消えていく。動揺した心を隠すように、私は慌てて話題を変えた。

「そ、そういえば、マルコ隊長はどうして仮装されなかったんですか?」

そう尋ねると、マルコ隊長は紫色のシャツの裾を軽く揺らして微笑んだ。

「してるよい」

と、両手を広げてみせる彼に、私は一瞬意味がわからず「え?」と、首を傾げる。いつもと変わらない気がするけれど、違う場所があるのだろうか。彼の全身をくまなく眺めていると、マルコ隊長はニッと口元を上げて答えた。

「海賊の仮装だよい」

その言葉に、思わず吹き出してしまう。なるほど、確かに、普段の姿そのものが立派な海賊だ。

「医者の仮装にするか迷ったが、やっぱりおれはオヤジのいるこの海賊団が一番が好きだからねい」

ラム酒を一口飲んで、マルコ隊長は楽しそうに笑った。開け放たれたシャツの間からは白ひげ海賊団の刻印が覗いている。その表情には、白ひげ海賊団の一番隊長としての誇りと、家族への深い愛情が色濃く滲んでいた。

心地よい風が吹き、マルコ隊長のシャツの裾と、帆に掲げられた海賊旗がはためく。それはまるで、彼の心の強さと愛情を象徴しているようだった。

ああ、やっぱり私はこの人が好きだ。強くて、優しくて、愛情深いマルコ隊長が。そう思いながら自然と手を握りしめた時、ふと手の中に残った小さな包みの存在を思い出した。最後に残ったお菓子。先ほどのイゾウ隊長の言葉を思い返し、私はそのお菓子をマルコ隊長に差し出した。

「あの、これ最後のひとつなんです。良ければもらってください」

再びラム酒に口をつけていた彼は手のひらのお菓子に視線を落とすと、わずかに眉を上げ、差し出した私の手をそっと押し返した。

「それは、名前がもらっておけよい」

彼の言葉に、少しだけ肩が落ちる。

「……やっぱり、お菓子は苦手ですか?」

残念そうに尋ねてみる。せっかくのハロウィンだからもらって欲しかった。そう思いながら見上げると、彼はゆっくりと私の方へ身を寄せてきた。距離が縮まるごとに鼓動が高鳴っていく。

「もらっちまったら、もう名前にイタズラできねェだろい」

囁くように耳元で告げられ、大きな手がそっと腰に回される。優しく引き寄せられ、びくっと身体が震えた。熱が頬から首筋まで広がり、胸の鼓動が彼に聞こえてしまいそうだった。

見上げた先には、悪戯な笑みを浮かべたマルコ隊長の姿。頭上では細く輝く三日月が静かな海原を照らし、クルーたちの笑い声が穏やかに響いている。その中に、私たちを囃し立てるような口笛が風に乗って聞こえてくるのは気のせいだろうか。

再び月が翳り始めると、マルコ隊長の熱い息遣いが唇に触れた。彼もこの夜の魔法にかけられているのかもしれない。二度と解けることのない魔法であればいいのにと願いながら、私はそっと目を閉じた。