Novel
寒い夜だけは
「冬なんて、大っ嫌い」
モビーディック号の甲板で凍てつく夜風に吹かれながら、思わず呟いた。新世界の冬の海は、骨の髄まで凍りつくような寒さだ。毛布を肩に巻きつけても、染みこむような寒さは変わらない。白い息が星空に溶けていく。
でも本当は──本当は、この寒さが密かに待ち遠しかったりする。
「よい、寒そうだな。今夜も、隣で寝るか?」
背後から聞こえた声に、心臓が鼓動を早める。白ひげ海賊団一番隊隊長のマルコだ。首に巻いた青と白のしましまマフラーと、同じ色合いのもこもこ手袋をはめた姿が、普段の飄々とした印象とは異なり、どこか愛らしい。クールな表情の裏に見え隠れする寒がりな仕草が、彼の人間らしさを感じさせる。
「また、私を湯たんぽ代わりにするの?」
唇を尖らせながら文句を言うものの、結局いつも通り彼の船室へと向かってしまう。断る理由なんて見つけられない。見つけたくない。だって、これが彼と過ごせる特別な時間なんだから。
ラム酒を飲んで、他愛もない話をして、気がつけば彼のベッドの中。寒い夜は、いつの間にかこれが習慣になってしまっている。白い息を吐きながら毛布にもぐりこむマルコを見ていると、強くて優しい一番隊隊長の、誰も知らない姿を見ている気がして、幸せを感じながらも心に小さな影が差す。
私もベッドにもぐりこみ、冷えた足をそっとマルコの足に寄せる。彼の温もりに触れた瞬間、小さな吐息が漏れる。こんな些細な接触なのに、心臓が早鐘を打つ。彼に聞こえないか心配になるけど、彼は何も言わない。ただ自然に足を絡ませてくる。その優しさに、また胸が痛くなる。マルコに気付かれないようそっとため息を吐き、目を閉じた。
触れた箇所からじわりと彼の熱が染み込むのを感じながら、少しずつ意識が遠のいていく。
最初の朝、酔って眠ってしまい彼の腕の中で目覚めた時は心臓が飛び出るかと思った。まさか一夜の過ちを……!と焦ったけれど、何も起きていなかった。そう、何も。それが一番切ないのかもしれない。マルコにとって私はただの妹で、手を出す価値もないんだ。ただの湯たんぽなんだ。そう思うと、涙が出そうになる。
この想いを彼にぶつけられたら、どれだけ楽になれるだろう。……けれど、そんなことはできない。マルコを困らせたくなくて、胸の奥に押し込めた気持ちを噛み締めるだけだ。
そんな想いを抱えたまま、時々、眠れなくて寝たふりをしている。そうすると、マルコが私の髪を優しく撫でることがある。まるで大切なものを扱うような、その温かい手に胸が締め付けられる。でも、それ以上のことは何もない。ただの妹だから。ただの湯たんぽだから。
それでも、この優しい手の温もりだけは、誰にも渡したくない。
「冬の海なんて、本当に大っ嫌い……」
心の中で呟く。本当は、自分の弱さが嫌いなのに。本当は、この寒さが終わってほしくないのに。
***
新世界の凍える夜風が頬を刺すように吹き抜けていく。マフラーを口元に引き上げながら、おれは今夜も彼女を誘う口実を考えていた。
白い息が漏れる中、名前の後ろ姿が目に入る。いつもの毛布を肩に巻きつけ、白い息を吐きながら星空を見上げている。その横顔が、胸に刺さるように綺麗だった。
「今夜も、隣で寝るか?」
それだけの言葉で、名前は来てくれる。いつもの子供っぽい表情で、少し拗ねたような顔をして。でも来てくれる。それが可愛くて愛おしくて、思わず浮かび上がる微笑みを心に封じ込める。
正直に言えば、彼女が欲しい。その想いを押し殺すたび、無意識に拳を握りしめている自分に気付く。隣で無防備に眠る彼女の柔らかな肌を指でなぞりたい。その身体を暴いてしまいたい──そんな欲望が理性を脅かすたび、自分がどれだけ彼女に囚われているか痛感する。彼女の存在が、胸を掻き乱してやまない。
だが、仲間としての関係は壊したくない。一番隊隊長として、兄として、これ以上の関係になどなれるはずがない。そう自分に言い聞かせながらも、腕の中で感じる名前の体温が、心の奥底で抑えきれない欲望を静かに煽り続ける。
そんな葛藤を知らない彼女が「湯たんぽ」と自虐的に言うたびに、本当の想いを伝えたくなる。寒さなんて口実に過ぎない。ただ、彼女が傍にいてくれることが、おれの全てを温める。それが言えたら、どんなに楽か。
寝息を立て始めた彼女の横顔を、そっと見つめる。長い睫毛が月明かりに揺れて、か細い息が静かな船室に響く。外に積もった雪のように白く浮かび上がる首筋にキスしたい、と心が求めている。それを必死に堪え、せめて、と頬に軽い口付けを落とす。これくらいは許してくれ。
「……好きだ」
ひそやかに紡いだ言葉は、夜空を駆ける流星のように、すっと静寂の中へ消えていく。このまま朝が来なければいいのに、と願ってしまうほど、この時間が愛おしい。
明日になれば、また何事もなかったように朝を迎える。ただの仲間として。ただの隊長として。でも、この夜だけは──
「おやすみ、名前」
その言葉に想いを込めて、おれも目を閉じる。彼女の体温を腕の中に閉じ込め、この寒い夜が終わらないことを願いながら。
