Novel
見えない恋
その日の食堂は、朝から騒がしかった。
「おはよい、サッチ。あれは何のさわぎだよい?」
「おぉ、マルコ。おはようさん。エースの野郎があの可愛いナースの子と付き合いだしたんだってよ。若いってのはいいねェ」
席に着いて新聞を広げると、淹れたてのコーヒーを差し出すサッチが喧騒の理由を教えてくれた。
……なるほどねい。
そのナースはこの船には珍しく、大人しくて小動物のようにこじんまりした印象の女だ。
庇護欲がそそられるなどと若いクルー中心に人気があり、いち早く噂のタネを聞きつけた奴らが『羨ましい』だの『おれも狙っていた』だのとやかましく騒いでいた。
そこへ渦中の二人が仲良く朝食に現れたもんだから、クルー達はこぞって羨望の入り交じった冷やかしや、からかいを投げ掛けていたってワケだ。
全く、ヒマな奴らだよい。
おれは揶揄を受ける二人を尻目に、普段ならエースと共に輪の中心に居るはずの人物を目で探す。
ごった返す食堂で案外すぐに見つかったそいつ──名前は、らしくもなく広い食堂の隅っこに一人ポツンと座っていた。
ここから見える背中がなんとも頼りない。
背筋はピンと伸びているのに、いつもより小さく見える。
「サッチ、悪ィ。ちょっと席を外すよい。新聞は置いといてくれ」
一声かけて広げたばかりの新聞を畳むと、おれはコーヒー片手に名前の元へ向かった。
途中、クルーに囲まれている件のナースが頭を下げてきたが、一瞥して構わず足を進めた。
「よい、名前」
名前は朝食を取らず、コーヒーだけをテーブルに置いて俯いていた。
「……あ、マルコ。おはよう!」
正面の席に着くと、名前はどうしたの? 珍しいね、なんて言いながら顔を上げる。
「名前こそ珍しいじゃねェか。あっちには行かないのかい」
人だかりの方に視線を向けると、名前もそちらに目をやってクスッと笑う。
「さっきまではいたんだよ。でも、どんどん人が増えて追いやられちゃったの。すごい人気だね、あのナースちゃん」
「だねい。おれもここまでとは思わなかった」
「そんな子と付き合えるなんて、エースもやるもんだ」
騒ぎの中心で照れ臭そうに頭を掻くエースと、その隣で小動物らしさを発揮して小さく丸くなっている女を見て、名前はいつも通りの朗らかな笑顔を浮かべる。
その笑顔はどこをどう見ても二人を祝福しているようにしか見えなくて、おれはつい苦笑を漏らす。
「相変わらず我慢強いねい、名前は」
周りに囃し立てられるままキスする二人を見ても笑顔を崩さない名前に小声で告げると、名前はぴくりと僅かに反応し、一拍置いてからこちらを見る。
「……なんのこと?」
「とぼけなくてもいいよい」
おれが含み笑いを見せると、名前はしばらくおれを見詰めたあと降参したように軽く両手を上げた。
「……まいったな、マルコ気付いてたんだ」
「まぁねい」
短く答えて、コーヒーをひと口飲む。
同じようにカップに口を付けてから、名前は自嘲気味に溜息を零した。
「まさか、気付かれてるとは思わなかった」
「ああ」
「……私、そんなに隠すの下手だった?」
「いいや、完璧だったよい」
「そっか、マルコは鋭いね」
普段はエースに負けないくらい、底抜けに明るい名前。
いつもエースとはしゃいで、周りを楽しませている名前は一見単純そうに見えるが実はそうじゃない。
本当の彼女は思慮深く、自分の感情を隠すのがとても上手だ。
きっと、おれ以外の誰も気付いていないだろう。
名前がエースに恋心を抱いていたことなど。
「このままでいいのかい?」
「……仕方ないよ。エースはあの子を選んだ。それに私は告白する勇気もなかったんだから」
今だって、本当は心の中で痛みに耐えている。
「そうかい」
「うん。二人の邪魔なんてしたくないし、エースのことは諦めるよ」
泣き出したいのを抑えて、笑ってる。
「なァ、名前」
「うん?」
「だったら、おれと付き合ってみないかい?」
「えっ?」
名前の顔が、勢いよく持ち上がる。
サラリと髪が揺れ、長めの前髪から覗く瞳が見開かれる。
「付き合うって、マルコ好きな人いるんじゃ?」
「ああ、いたよい。でもおれの好きな女には好きな男がいてね」
意味ありげにエースの隣で幸せそうに笑う女に目線をやると、名前は何かを察したように眉根を寄せ「そうだったんだ……」と消えそうな声で呟いた。
「だから、あぶれた者同士くっついてみないかい?」
「……でも、マルコはそれでいいの?」
「おれも諦めたいんだよい。だけど一人で忘れるより、二人で忘れる方が遥かに楽だろい」
ふっ、と細められた名前の瞳が寂しげに揺れる。
「……確かにそうだね。これからエースの隣にはあの子が居るし、それを一人で見るのは正直辛いと思う」
「おれも、あいつらを見るのは辛いよい。だから名前さえ良ければ考えてくれねェかい。大切にするから……」
テーブルに乗せられた名前の手。おれよりも一回り小さなその手を握ると、名前は少し迷うように瞳をエースに向けた。
そうしてしばらく見つめると、やがて吹っ切るように視線を戻し、おれの手をきゅっと握り返してくれた。
「……うん。こんな私で良ければお願いします。私もマルコを大切にするって約束するよ」
「ありがとう、名前。嬉しいよい」
「私こそありがとう。なんだか照れるけど、これからよろしくね、マルコ」
はにかむ名前に、おれも微笑みを返した。
***
「マルコ隊長」
あれから朝食の時間いっぱい名前と話し、これから訓練だと言う彼女の背中を見送って医務室へ向かう途中。
廊下を曲がると、そこで待っていた人物が声を掛けてきた。
「お前か、なんだよい」
辺りに人の気配がないのを確認して足を止めると、その人物は上目遣いでおれを見ながら、小動物のように愛嬌のいい笑顔を浮かべて言った。
「マルコ隊長が仰った通り、昨夜エース隊長に告白するとそのまま抱いてもらえて付き合うことになりました」
「そうかい。それはよかったねい」
「マルコ隊長のお陰です。ありがとうございました」
「礼には及ばねェよい。それより昨夜も言ったがこのことは…」
「はい、誰にも言いません。それでは失礼致します」
頭を下げて立ち去る人物の足音を聞きながら、おれは自分の口元が緩むのを抑えられなかった。
手で覆い隠すが、堪えきれず声を上げて笑ってしまう。
こんなに上手くいくとは思わなかった。
おれはただエースの質問に答えてやっただけなのに。
名前のことが好きで好きで思い悩んでいたエースの質問に。
『なァマルコ、名前って好きな奴いるのかな』
『いるみたいだよい。すごく好きな奴が』
『……やっぱそうか。誰なんだろ…おれじゃないことだけは確かだよな。これだけ一緒にいても名前はおれに興味なさそうだもんな。……告白してェけど、フラれて気まずくなるのだけは絶対避けてェし、好きな奴がいるんなら諦めるしかねェか……』
昨夜、相談があると呼び出されたエースの部屋で、そう言って落ち込む奴に飲んで忘れろと酒を飲ませて酔わせ、かねてからエースのことを狙ってる女の中から一番上手くやりそうなあの女を選び、部屋へ行って告白するよう伝えただけだ。
今ならいけるかもな、と。そして、実際あの女の手腕もあるだろうが、自棄になっていたエースは女に手を出し、なし崩しに付き合った。
嘘はなんにも吐いてない。
名前に好きな奴がいるのも本当のこと。
ただ、エースは一番傍にいながらそれが自分のことだとは露ほども思っていなかっただけだ。
思い返せば、ここまで長かった。
焦らずじっくりと距離を縮め、少しづつおれに傾き始めていた名前の気持ちを突然現れたエースに根こそぎ奪われて以来、ずっと機会を窺っていた。
それが、やっとだ。
やっと。やっと。やっと。
焦がれ続けた名前を、ようやくおれは手に入れたんだ。
欲しくて欲しくて堪らなかった世界にたった一つの宝。
財宝や宝石なんか目じゃない本物の宝。
それが、おれのものに────
絶対離さない。
誰にもくれてやるもんか。
名前が誰かのものになるくらいなら、いっそこの手に掛けておれも死んでやる。
ああ、名前……
愛してる。
おれの、おれだけの、愛しい女……
名前がどれほど感情を隠すのに長けていても、おれには絶対敵わない。
きっと、誰も知らないだろう。
こんな狂気をおれが抱えていることなど。
静かな廊下におれの笑い声だけが響く。
一頻り笑ったおれは、名前を手に入れた喜びを噛み締めながら普段通りの顔で医務室に向かった。
