Novel
めぐり逢い
「……名前?」
「マルコ?」
補給に立ち寄った島で、おれは思いがけない人物と邂逅を果たした。
彼女の名は、名前。
数年前、別の島のバーで働いていた彼女に惚れ込んだおれは毎日バーへ通った。島のログが溜まるまでの二週間、最初の一週間で彼女を口説き落とし、残りの一週間で愛を深めた。
そして出航の日、彼女を海へ誘った。
しかし、彼女は決して首を縦に降らなかった。
それきり会うことは叶わなかったのだが、まさかここで会うなんて。
「久しぶりだねい」
「ええ、そうね」
何年振りだろうか。
ずいぶん大人っぽくなったものだ。
以前のピンクのルージュが似合う彼女も良かったが、赤いルージュが似合う今の彼女も素敵だった。
「元気にしてたかい」
「ええ、マルコはどう? 今も航海を続けてるの?」
「ああ。仲間が大勢増えて隊長を任される立場になっちまったが、毎日楽しくやってるよい」
「そう、それは良かったわね」
ふふっと笑う名前に、このあとお茶でもどうかと言い掛けたとき、彼女の後ろからひょこっと小さな影が現れた。
「こんにちは、おじちゃん!」
くりくりの大きな目でおれを見上げてきた少女は、まだ生え揃っていない歯を見せてにっこりと笑う。
『おじちゃん』と迷いなく呼ばれたことに少しばかりショックを受けながら、こんにちはと笑って返す。
まだまだ若いつもりでいたが、これくらいの子からすればおじちゃんで当然だ。
見た感じは二歳から四歳くらいか?
大きな目といい、紫がかった黒い瞳や髪色も名前と同じで、よく似ている。
というか、親子のようにソックリだった。
……まさか、と心臓が嫌な音を立てる。
「……この子は?」
違ってくれと、願いながら聞く。
「ああ、この子は私の……」
名前がそう言い掛けたとき、カランコロンと軽やかなドアベルの音が響いて、隣の店のガラス扉が開いた。
「名前、待たせたね」
中から出てきた男が柔和な笑顔を見せる。
おれの顔を見つめていた少女は男が姿を見せると、パッと顔を綻ばせ、両手を広げて駆けて行く。
「パパ!」
「意外と早かったのね」
「名前に待って貰っているから急いで貰ったんだよ。変じゃないかい?」
「ふふ、似合ってるよ」
「うんうん、パパかっこいいー!」
よく見れば男が出てきた店は散髪屋で、一面ガラス張りの店内では数人の客が髪を切っている。
「ここ、髪がついてるよ」と男の頬を指先で軽く払って微笑む名前と、飛びつく少女をごく自然に抱き上げる男の姿に、ああ、そうなのか……とおれは事情を察した。
同時に、胸が鉛のように重くなる。
あの日、無理やりにでも彼女を攫えば良かった。
海賊風情が紳士的に振る舞うから、惚れた女をこんな男に奪われちまうんだ。
おれより絶対年上だろ、コイツ。
名前と何歳差だ。
顔はまぁまぁ男前だが、なよなよとした男。
名前には勿体ねェよ。
「……ところで、彼は知り合いかい?」
「ええ、昔の知り合いなの」
男が窺うような視線を向けてくる。
軽く頭を下げると、男も同じように頭を下げた。
『昔の男』と言わないのは、やはりそう言うことなのだろう。
自分は酷く場違いだ。
数年振りに会えた彼女と別れがたい気持ちは山ほどあるが、ここにおれの居場所はない。断りを入れて立ち去るかと足元に落とした視線を上げれば、名前がヒソヒソと男になにか話していた。さすがに内容までは聞こえないが、名前の頬はほんのりと赤みがさしている。
それは傾き始めた夕日のせいではないようだ。
割って入るのも気が咎めたおれは、周りに聞こえないほどの息を吐き出して、往来に目をやった。
休日なのか、家族連れが多い。皆、買い物袋や手提げ袋をぶら下げている。そろそろ帰路に着くんだろう、まだ帰りたくないと駄々をこねる子どもと、それを宥める母親と父親。穏やかないい街だ。無法者やならず者の姿もない。以前名前が住んでいた街よりもずいぶん治安がいいんだろう。ここで暮らしているなら安心だ。そう思ったところで名前の声がした。
「ね、このあと時間ある?」
よく通る優しい声音に顔を向けると、名前が微笑みを浮かべて首を傾げている。
思わず見惚れてしまう自分にハッとして、壊れた人形のようにかくかく頷いた。
「……あ、ああ。時間ならあるよい」
「良かった、もう少しマルコと二人で話したかったの」
嬉しそうに呟く彼女は、確信犯だろうか。
「でも、いいのかい?」
「うん?」
「…名前の、家族だよい」
「平気よ。先に帰って貰ったから」
彼女の台詞に姿を目で追えば、いつの間にか男の背中が人混みの中に紛れていた。遠ざかって行く男の肩からぴょこんと顔を出している少女が、おれの視線に気付いて手を振ってくる。ブンブンと肩を乗り出す勢いで振る様子に思わず笑って振り返せば、少女は満面の笑みを浮かべ「バイバーイ、おじちゃん!」と大声で叫び、行き交う人を驚かせていた。
「……あの子ったら。ごめんね、おじちゃんだなんて」
ため息を吐いて、母親の顔で謝る名前。
正直、おれにはそっち方が何十倍も堪えるんだが……
とは口には出せないのが、辛い所だ。
「おれはもう、立派なおじさんだよい」
「マルコはおじさんじゃないわ」
自虐的に言うと、名前が不満げに顔を顰めた。
「はは、そう言ってくれるのは嬉しいが、あれから何年経ったと思ってるんだよい」
「そうね、六年か、七年か、そのくらい経つのかな……」
懐かしいね、と当時を振り返るように名前が遠くに目を向ける。夕日に照らされる彼女の横顔がすごく綺麗で、おれは何故か泣きたくなった。
「……ねえ、覚えてる? バーにマルコが初めて来た日、私になんて言ったのか」
「ああ、覚えてるよい。注文を取りに来た名前に『お前が欲しいよい』って言ったんだよねい」
「そうそう、私の手をぎゅって握ってね。でも初対面だし仏頂面だし、最初はなに言うのこの人……なんて警戒してたけど、毎日来てくれるマルコにどんどん惹かれちゃって、いつの間にか好きになってた」
「仏頂面は生まれつきだよい。まあ、おれの熱意が伝わったんだろうねい」
「あはは、そうかもね」
「そうだろい。おれは最初から名前に本気だったからねい」
そう、今も。
お前を掻っ攫いたいよい。
「……名前こそ覚えてるかい? 出航する日、おれが贈り物をしたいって言ったのを」
名前が島に残ると言った日。
形に残るなにかを渡したくてそう告げた。
「うん、覚えてる。思い出を残すのは辛いからって私が断ったんだよね……」
「ああ。あの時は断られちまったが、改めて贈らせてくれないかい?」
「どうして?」
長い髪を揺らして、名前が覗き込む。
先程の少女と同じ瞳。紫がかった黒い瞳がじっとおれを見つめる。やっぱりよく似ていると思った。
「前に渡せなかった分と、再会の記念に、だよい」
本当は結婚し子どもを産んだ彼女への餞別だった。
彼女をこの手で幸せに出来なかった分、なにかしてやりたかった。
「再会の記念か……」
静かに呟いて、口元に笑みを浮かべる。
本当に大人っぽく、そして、綺麗になった。
その長いまつ毛に縁取られた瞳も、数え切れないほど重ねた柔らかな唇も、忘れたことはなかった。
「ああ。なにか欲しいものはないかい?」
彼女を忘れられなくて、一度だけ島へ飛んだ。
会いたくて、堪らなくて……
でも、そこに彼女は居なくて。
勤めていたバーを辞め、行方知れずになっていた。
「……そうね、欲しいものなら一つあるわ」
そう言うと、名前はおれの手を取った。
風がざぁっと吹き上げる。
彼女の髪が煽られて、サラサラと肩へ流れていく。
「マルコが、欲しいの」
ぎゅっ、とおれの手を握り締めて、まるであの日を再現するかのように彼女は言う。
ふざけているのだろうか。
いや、ふざけているんだろう。
分かっていながらも、胸が高鳴ってしまう自分が酷く滑稽だった。
もしその言葉が本当なら、こんな嬉しいことはない。
でも、彼女はすでに他の男のものだ。
いくらおれが海賊でも、子どもから母親の名前を奪うことはできない。
「……冗談はよしてくれよい。本気にしちまうだろい」
やんわりと名前の手を振り解いて、言葉を続ける。
「結婚、したんだろい。可愛い子どももいるのに、そんな冗談言うなよい」
「……え?」
「優しそうな旦那だったじゃねェか」
無理やり笑顔を浮かべると、名前がキョトンと目を丸くする。
「……えっと、私、結婚なんてしてないけど」
「へ?」
「子どももいないし」
「は? 待ってくれ。だってさっき……」
あの少女は間違いなく名前の子だろう。
顔もそっくりだったし、なにより名前が言ってた。
『この子は私の……』
「……妹よ」
「はぁ!?」
驚いて唖然とするおれに、名前が丁寧に説明してくれる。
「さっきいた子は私の妹。正確には異父妹になるけどね。母が再婚して、うんと年の離れた妹が出来たの。一緒にいたのがあの子の父親で私の義父よ」
妹ならば、顔立ちが似ていてもおかしくはない。父親に似てると思わなかったということは、名前も妹も母親似なんだろう。
「…………じゃあ、名前はいま……」
「誰とも結婚してないし、子どももいないし、彼氏もいないわ」
誰かさんのせいでね、と唇を尖らせる名前に今度こそ胸が高鳴る。
「女手一つで私を育ててくれた母を置いてマルコと一緒には行けなかったけど、母も結婚して妹まで出来て、今度は私の居場所がなくなっちゃったの」
茶化して笑いながら、柔らかな眼差しを向ける。
その瞳には、はっきりとおれへ想いが込められている。
「だからマルコさえ良かったら……あっ、マル、んッぁ……」
最後まで言わせなかった。
街中であることなんか構わずに、名前を抱き締めてキスをする。見ちゃいけませんと子どもを諌める母親の声をBGMに聞きながら、今まで会えなかった分を埋めるように心ゆくまで何度も何度も唇を重ねた。
次第に名前の呼吸が乱れてきて、唇を離すと彼女が涙目で睨んでくる。
「……っ、もう、こんな場所でなにするの、みんな見てるでしょ!」
と、赤い顔で息を乱す名前が堪らなく可愛い。
今すぐこの場で押し倒してやろうか。
いや、それはさすがに駄目だと、なけなしの理性で押し留める。名前の身体を見ていいのはおれだけだ。
代わりに、今までの苦労が一目でわかる小さな手を両手で掬い取る。
そして、真っ直ぐ視線を合わせて。
「……お前が欲しいよい、名前。おれと一緒に来てくれるかい?」
ぎゅっと手を握り、あの日のように囁いた。
優しい温もりを持つ手が、指を絡めて握り返してくれる。
「ええ、マルコ。どこまでもついて行く。今もあなたが大好きよ」
「おれも、名前が大好きだよい」
微笑む彼女の頬に触れ、もう一度口付けを落とす。
「船に戻る前に、名前の両親に挨拶に行かなくちゃねい。娘さんをくださいってな」
「あ、の……実は、さっき義父には伝えたの。この人と一緒に行くかも知れないって……そしたら、お邪魔虫は消えるから頑張れって、義父が……」
もちろんマルコにその気がないなら諦めていたけれど、と恥ずかしそうに目を伏せる名前。
ああ、なんだこの可愛い生き物は。
さっき顔を赤らめて義父と話していた彼女の姿を思い出し、頬が緩むのを止められなかった。
もう離さない。
「これからは、ずっと一緒だよい」
腕の中に閉じ込めた名前にキスの雨を降らせながら、おれは必ず彼女を幸せにすると固く心に誓った。
