Novel
消えない十字架
私はあの日、壊れてしまった。
退屈だった。マンネリだった。そんな些細な理由で、ほんの少しの刺激を求めてしまった。彼のことは、誰よりも愛していたのに。それがどれほどの代償を伴うか、考えもせずに。
「なぁ、もう一回いいだろ?」
「だめ。一度きりって言ったでしょ」
薄暗い倉庫の中、背後から伸びてきた腕を払い、乱れた衣服を整える。敵船を沈め、勝利の宴に酔いしれ、私は男と寝た。どうしてそんなことをしたのか、今でも答えは見つからない。彼との生活に不満なんて、ひとつもなかったのに。
それでも、私は彼以外の男と寝てしまったのだ。
──最悪のタイミングで。
倉庫を出た瞬間、耳に飛び込んできたのは凍りつくような言葉だった。
「刺されたのは、サッチだ」
その一言で、世界が崩れ落ちた。
甲板に集まる人だかり。その中心に、血の海に横たわる彼の姿が見えた。真っ赤に染まったコックコートが、異様なまでに目に焼きついた。周囲のクルーたちが黙って道を開ける中、よろめきながら近付き、膝をつく。彼の頬に触れると、まだ微かに温かさが残っていた。しかし、その目が開かれることはない。
「……サッチ、ねぇ、サッチ」
呼びかける声は虚しく、夜の闇に溶けていく。彼はもう答えてくれない。青ざめた顔で血溜まりに横たわり、微動だにしない。閉じられた瞼は二度と開かれず、呼吸も鼓動も、全てが永遠に止まっていた。その現実を理解した瞬間、私は自分の愚かさに打ちのめされ、ただ死にたくなった。
本当なら、今ごろ一緒に部屋で過ごしていたはずだった。それを裏切り、私は他の男と寝ていたのだ。きっと、サッチは私を探しに甲板へ出たのだろう。私が約束を守っていれば、彼は死ななかった。私が男と寝なければ、彼は今も生きていたはずだ。
────最低だ。最低だ。最低だ。
その言葉が頭の中で何度も何度も反響する。押し寄せる後悔と罪悪感に耐えきれず、私はサッチから目を背けた。視線の先に、血に濡れたナイフが冷たく光っている。サッチの命を奪った凶器が、赤黒い血の中に静かに横たわっている。
「……サッチ……」
震える指先が、そのナイフに向かってゆっくりと伸びる。サッチの血が染み込んだ刃を、私は強く握りしめた。冷たい感触と、重たい血の感触が、全てを終わらせる決意を固めさせる。次の瞬間、私は躊躇いもなく自分の腹に刃を突き立てた。
「──ッ!」
激しい痛みが全身を駆け巡る。熱い液体が流れ落ち、彼の血と混ざり合って甲板に広がっていく。でも、まだ足りない。サッチが味わった苦痛には到底及ばない。刃を握り直し、もう一度振り下ろした、その瞬間。
「何やってんだよいッ!」
鋭い声と共に、腕を力強く掴まれる。揺らめく視界の隅に、焦りと怒りを湛えたマルコの顔が見えた。
「やめろッ……バカなことするんじゃねェ!」
必死に止めようとするマルコの手がナイフを押さえつける。力を失った私の身体は簡単にその場に崩れ落ちた。意識が闇に沈み、全てが暗転していく。最後まで、血に染まったサッチの姿だけが、消えることなく脳裏に焼き付いていた。
目が覚めた時、私はベッドの上にいた。傷は治療されていたが、魂はすでに抜け落ちていた。虚ろな目で天井を見つめる私の傍で、マルコは沈黙を守っていた。ただ悲痛な面持ちで、私を見守っている。
「どうして、止めたの……」
掠れた声で問うと、長い沈黙の後、マルコは静かに答えた。
「お前の命は、お前だけのもんじゃねェ。……サッチだって……そんなこと望んじゃいねェよい」
痛みを抑えるように吐き出された言葉が、腹の傷よりも深く突き刺さる。でも、それを受け入れることなどできない。
「……サッチは……死んだ……私のせいで」
「違う、アイツを刺したのはティーチだ」
「でも、私が側にいれば……生きていたかもしれない」
マルコは目を伏せ、言葉を絞り出すように言った。
「お前がどんなに悔やんでも、サッチは戻ってこねェ。それでも……お前が苦しむことが、アイツの望みだと本気で思うのかよい?」
「…………」
「アイツはたとえどんなことがあっても、お前にそんなことを望む奴じゃねェよい」
私は何も返せなかった。彼の瞳には私を案じる眼差しとサッチを失った悲しみが混ざっている。彼もまた、大切な仲間を失った一人なのだ。ふざけるサッチをいつもマルコが諌め、よく三人で笑い合った日々。そのことを思い出すと、罪の重みが喉元に突き上げ、呼吸が苦しくなる。
……やはり、私に生きる資格などないのだ。
その後も、私は幾度となく死を求めた。しかし、そのたびにマルコの手が私を引き止める。彼は懸命に言葉を尽くして私を説得しようとするが、粉々に砕けた私の心には届かなかった。光を失った私の目を見つめるたび、マルコは深い苦悩の表情を浮かべていた。
彼の瞳に宿る苦しみは、日に日に深まっていく。それでも自傷行為をやめない私の手首には、ついに冷たい鎖が巻かれることになった。マルコは悔しそうに、悲しそうに、そして自身の無力さを呪うように、黙って私を繋ぎ止めた。
「……どうして、こんなことを」
「お前を守るためだよい」
「もう、死なせてよ……」
「……それは…できねェよい」
マルコの声は掠れ、瞳には涙が浮かんでいた。彼はそれを見せまいと顔を伏せたが、唇も肩も、微かに震えていた。こんなにも感情を露わにする彼の姿を、私は初めて見た。いつも気丈な彼のこんなに弱った姿を。
「……頼むから、お前までおれを置いていかないでくれ……」
彼の悲しみを目の当たりにし、心が揺れる。それでも私はもう戻れない。どんなに彼が私を必要としてくれても、サッチを失った私はすでに壊れてしまったのだ。
彼から視線を逸らし、ただ天井を見つめる。何も答えずにいると、冷たい金属が巻かれた重く冷えた手を、マルコがそっと握った。
「……」
静けさが広がる部屋の中、彼の手の温もりだけが私の壊れた心を無理やり繋ぎ止めようとしていた。だけど、私はその温もりを受け取ることはできない。マルコの優しさが、かえって私の胸を締め付ける。逃げ場のない苦しみが押し寄せる。
「……離して」
震える声で囁いた言葉は、自分自身に向けたものだったのかもしれない。拒絶しても彼の手は離れようとせず、逆に強く握られる。私は目を伏せたまま、その温もりをそっと振り払うしかなかった。
「ごめんね、マルコ……」
振り絞った声でそう告げたとき、彼がどんな顔をしていたのか、私は見ることができなかった。どんな思いでその言葉を聞いていたのかも。
ベッドに横たわったまま、窓の外を虚ろに見つめる。手首に絡む鎖が、無慈悲にも私をこの世界に繋ぎ止めていた。死ぬことも叶わず、生きている実感もない。ただ時間だけが刻々と流れていく。
虚無の中、サッチとの思い出が絶え間なく蘇ってくる。サッチはこの船の誰よりも優しい人だった。軽薄に見える外見とは裏腹に、いつも私のことを気遣ってくれた。彼に告白されて付き合い出してからは、毎日が輝いていた。朝は彼の淹れてくれたコーヒーに始まり、夜は星空を見上げながら手を繋いで夜通し話をして──彼は常に私を大切にしてくれた。心の底から愛していた。なのにどうして、私はあんな過ちを犯してしまったのだろう。
毎晩、彼が命を落とした瞬間の後悔が、心を締め付ける。サッチの笑顔が脳裏をよぎるたび、胸がちぎれそうになる。叫び出したくなる。死んでしまいたくなる。
ごめんなさい、サッチ。
許して、サッチ。
どれほどその言葉を繰り返しても、彼の温もりは二度と戻らない。この痛みも後悔も、決して消えることはないだろう。そして私は、この苦しみと共に生き続けなければならない。それが、愛する人を裏切った私に科せられた永遠の贖罪なのだ。
頭の中で、マルコの言葉が繰り返し響く。
『サッチだって……そんなこと望んじゃいねェよい』
違う。それは違う。サッチは知らないのだ。私が彼をどれほど裏切ったか。彼が最期の息を引き取る瞬間、私が何をしていたか。
私は許されないことをした。
許されてはいけないことをした。
この罪は、一生消えることはないだろう。
手首に絡む鎖のように、終わることなく私を縛り続けるのだ。
