Novel
甘くて苦い
船の甲板を滑る潮風が、私の頬を優しく撫でていく。
今日はイゾウ隊長の誕生日。プレゼントは、何日も眠れぬ夜を重ねて悩み抜いた末にたどり着いたもの。それは、この手で作るケーキだった。
特別な関係でもない私が手作りの品を贈るなんておかしなことかもしれない。迷惑に思われるかもしれないと何度も考えた。でも、どうしても彼に贈りたかった。彼の誕生日を祝いたいというこの気持ちを伝えたかった。
厨房に立ち、深呼吸をする。
ここ数日、『誰にあげるんだ?』と、ニヤニヤするサッチ隊長の詮索をかわしながら一週間厨房の洗い物を手伝うことを約束に、彼から作り方を教わった。夜な夜な練習を重ね、ようやくここまできたのだ。最初は本当にひどかった。スポンジはペシャンコ、クリームは分離し、デコレーションも子どものいたずら書きみたいな仕上がり。それでも、諦めなかった。イゾウ隊長の喜ぶ顔を思い浮かべ、何度も挑戦を繰り返した。
「よし……」
小さく息をつきながら、オーブンの扉を開ける。立ち昇る甘い香りに、思わず顔がほころぶ。ふっくらと膨らんだスポンジ。ようやく、納得のいくものが焼けた。ふわふわのスポンジを慎重に取り出して、クリームを丁寧に塗っていく。緊張で手が震えそうになるが、ここまできたのだ。もう失敗はできない。
綺麗に切ったフルーツを飾りつけながら、イゾウ隊長の顔が頭に浮かぶ。いつも毅然としている彼だけど、私が話しかけると優しい表情を見せてくれる。私はその顔が大好きだった。自然と笑顔が浮かび、フルーツを盛る手が軽やかになる。仕上げに軽くデコレーションを施して、私は息をついた。
「イゾウ隊長、喜んでくれるかな……」
完成したケーキを前に、ふと不安が胸をよぎる。でももう後には引けない。今は精一杯想いを込めて作ったこのケーキを届けることだけを考えよう。私はケーキを箱に詰め、そっと持ち上げた。
イゾウ隊長の部屋の前で立ち止まり、呼吸を整える。震える手で扉をノックすると、すぐに「入れ」と中から声が聞こえてきた。扉を開ければ、いつもの和服姿に包まれたイゾウ隊長が立っている。その姿に高鳴る胸を抑えながら彼の前まで歩み寄り、私はケーキの入った箱を差し出した。
「あ、あの、誕生日おめでとうございます、イゾウ隊長。これ、プレゼントのケーキです。良ければもらってください!」
緊張で上擦る声を誤魔化すように、私は一気にそう言った。イゾウ隊長は少し驚いたように箱を見たあと、私の顔をじっと見つめる。
「ケーキ? 名前が作ってくれたのか?」
「は、はい! お口に合うかどうかわかりませんが、イゾウ隊長に食べてもらいたくて一生懸命作りました」
イゾウ隊長がふっと微笑み、箱を受け取ってくれる。
「それは嬉しいな。ありがとう、名前」
彼はテーブルの上にケーキの箱を置き、ゆっくりと蓋を開けた。甘い香りが部屋に広がり、頑張って作ったケーキが顔を覗かせる。
「すごいな、大した腕前だ。名前がこんなに器用だとは知らなかった」
「いえ、不器用なので何度も練習したんです。サッチ隊長に習って……」
「へぇ、おれのために頑張ってくれたのか」
「はい!」
思わず返事をしてしまい、慌ててしまう。これでは好きだと言ってるようなもんじゃないかと内心焦るが、イゾウ隊長は嬉しそうな笑みを浮かべているだけだった。
「じゃあ、早速いただくか」
戸棚からナイフとフォークを取り出すと、彼はケーキを切り分け、フォークで一口運んだ。私の作ったケーキがイゾウ隊長の口に運ばれていく様子に、期待と不安が交錯する。息を止め、食い入るように見つめる私に、イゾウ隊長が優しく微笑んでくれた。
「美味いな、ありがとう」
「……ほ、本当ですか?」
「ああ、名前も食べてみるか?」
そう言って、彼はケーキを乗せたフォークを私の口元に近付ける。そのフォークは、いま彼が食べていたフォークだ。彼の唇が触れたフォークが目の前にあると思うと、鼓動がドキドキと音を立ててしまう。彼の温もりが残っているような気がして、頬が熱くなる。
「ほら、名前」
イゾウ隊長の優しい声に、私は戸惑いながらも意を決して口を開ける。心臓の音が聞こえませんようにと願いながら、彼の手で食べさせてもらう。フォークが口の中に運ばれ、ケーキの味が広がった。クリームは甘すぎずなめらかで、スポンジもふわふわと口の中で溶ける。
「どうだ? 美味いだろ?」
「……美味しい、です」
素直にそう返すと、イゾウ隊長は嬉しそうに目元をやわらげた。大好きな人に「あーん」をしてもらえるなんて、まるで私の方が誕生日みたいだ。
イゾウ隊長が再びフォークを取り、ケーキを一口頬張る。その幸せそうな表情を見ていると、私の心も嬉しさで満たされていく。勇気を出して作ってよかった、と思いながら、私は彼を見つめていた。
しかし、翌朝。
いつもなら必ず姿を見せるはずのイゾウ隊長が、食堂に現れない。どうしたんだろう。昨日のケーキが原因で何かあったのだろうか。不安に駆られた私は昨日のお礼を伝える際に、サッチ隊長に尋ねてみることにした。
「イゾウ? 今朝は体調を崩して寝込んでるらしいが、なんで気になるんだ? もしかして、名前のケーキ作りはアイツのためだったのか?」
「そうです……まさかケーキが原因とかありますか?」
私の言葉にサッチ隊長は、「あちゃー」と額に手を当て、唇をすぼめた。
「そういうことか。アイツが体調不良なんておかしいと思ったんだ」
「どういうことですか?」
不穏な気配を感じて聞き返すが、サッチ隊長は言葉を濁して教えてくれない。それでも問い掛けると、渋々答えてくれた。
「えっと……あんまり言いたくないけど、イゾウは甘いものが苦手なんだよ。だからまあ、なんつーか、名前が作ったケーキを無理に食べたせいで体調を崩した可能性がある……かもしれないと思って……」
私の心臓が一瞬止まる。思わず目を大きく見開く。
「そんな……どうしよう……」
唇が震え、頭の中が真っ白になる。呆然と立ち尽くす私に「そんなに落ち込むなって」と、サッチ隊長の軽い声が届く。
「だからおれが聞いたとき、誰に渡すのか素直に言ってくれればよかったのに。イゾウの誕生日が近いのはわかってたけどさ、ケーキはおれにくれるもんだと思ってたんだよ。『サッチ隊長、日頃のお礼です』ってな」
ニッと笑いながら冗談混じりにサッチ隊長が言う。でも本当にその通りだ。
「サッチ隊長に言えば良かった……私のせいで、イゾウ隊長の具合が悪くなったなんて……」
「まあまあ、落ち着けって、別にケーキがアレルギーってわけでもねェんだから死にゃしねェし、少し休めばすぐ元気になるさ」
サッチ隊長は宥めるようにそう言うが、私はいても立ってもいられなかった。
「私、イゾウ隊長の部屋に行ってきます」
罪悪感と後悔が押し寄せ、私はサッチ隊長にそう言い残すと、慌ててイゾウ隊長の部屋へと向かった。彼の体調が悪くなったのは私が作ったケーキが原因かもしれない。思わず足が速まる。心臓がバクバクと嫌な音を立て、彼のことが心配でたまらなかった。
イゾウ隊長の部屋の前に立ち、昨日とは違う意味で震える手でノックする。返事を待つ数秒が永遠のように感じられた。
「イゾウ隊長、名前です。体調が悪いと聞きました。大丈夫ですか?」
かすれた声で「入れ」という返事。恐る恐るドアを開けると、ベッドに横たわるイゾウ隊長の姿が目に入った。普段の化粧はしておらず、端正な顔立ちが一層際立っている。こんな時なのに、彼の美しさに心が揺れ動き、鼓動が跳ねる自分がいる。だけど、その蒼白い顔色に胸がじくじくと、まるで針で突かれるように痛んだ。
「こんな格好のまま悪いな、ちょっと胃の調子が悪くてな」
その言葉に、私の罪悪感が爆発する。やはり、昨日のケーキが原因だったのだ。必死に押し殺していた涙が、目に溜まり視界を歪めていく。
「ごめんなさい……私がケーキなんか作ったせいで……」
その言葉が喉を詰まらせる。伏せた目からこぼれた雫が頬を伝うと、イゾウ隊長が慌てたように否定する。
「違う、名前。これはお前のせいじゃねぇよ。おれの管理不足だ」
イゾウ隊長の言葉に、私は静かに首を振る。
「サッチ隊長から聞いたんです。イゾウ隊長が甘いもの苦手だって。どうして、昨日言ってくれなかったんですか?」
私の問い掛けに、イゾウ隊長は一瞬言葉を詰まらせ、困ったような表情を浮かべた。
「名前が一生懸命作ってくれたんだ。苦手でも全部食べたいと思ったんだよ」
「そんな……少し食べて捨てればよかったのに」
「食べ物を粗末にはできないだろ」
「それなら、誰かにあげるとか……」
「お前がおれのために作ってくれたもんだ。それを、他の誰かに渡すなんてできるわけねぇだろ」
その言葉に、私の胸は痛いほど締め付けられる。嬉しさと申し訳なさが入り混じり、言葉にならない感情が込み上がる。
「だけど……イゾウ隊長が具合悪くなっちゃって……」
「こうして名前が見舞ってくれるなら、それも悪くねぇな」
ふっと微笑まれ、顔が熱くなる。心臓が、今にも飛び出しそうなほど激しく鼓動を打つ。
「……からかわないでください」
「からかってなんかいない」
イゾウ隊長は、真剣な眼差しで私を見つめた。
「お前の気持ちが嬉しかったんだ。それだけで、おれには最高の誕生日プレゼントだったよ」
感情が高まり、私は思わずイゾウ隊長に抱きつきそうになる。でも、ぐっと我慢して、代わりに深々と頭を下げた。
「本当にすみませんでした。来年は絶対に、イゾウ隊長が食べられるプレゼントを用意します」
下げた頭を戻すと、イゾウ隊長は優しく笑いながら答えた。
「楽しみにしてるよ。でも、一番のプレゼントはお前がそばにいてくれることだと思ってる」
イゾウ隊長の言葉に、私の心は高鳴っていく。甘いものは苦手でも、こんなに甘い言葉をかけてくれるイゾウ隊長。彼の存在が私にとってどれほど特別か、改めて実感する。これからもずっと、イゾウ隊長のそばにいたい。その思いを胸に、私は彼が良くなるまで看病を続けた。
彼の隣で過ごす未来を夢見ながら、来年の誕生日にはもっと素敵なプレゼントを送れるように心に誓う。
どうか来年も、彼の隣で笑顔を見れますように。
